刹夜は、結局その人違いだった女を連れて関西を離れた。
周囲の者たちは――
「若様、また新しい女ができたらしい」
と勝手に噂したが、当の本人はあまりに淡白だった。
空港近くの道沿い、車がゆるりと止まり、刹夜がようやく口を開いた。
「降りろ」
「……え?」
女は一瞬、信じられないという顔をした。
自分は顔に自信がある。
今まで出会った男は、誰もが多少なりとも優しかった。
特に命を救った相手なら、少しくらい気に入ってくれるはずだと、どこかで思っていた。
だが――
目の前の男は、表情ひとつ変えずに突き放してくる。
「平吾、こいつを空港まで送ってやれ」
「かしこまりました」
黒岩平吾が無言でドアを開け、丁寧に促した。
「お嬢さん、こちらへどうぞ」
女は渋々身体を動かしながらも、車内の美しい男を一瞥する。
「助けてくださって、本当にありがとうございました。できれば……ご連絡先を教えていただけませんか? 無事に帰れたら、きちんとお礼を――」
「いらねぇよ」
刹夜は一度も彼女の顔を正面から見なかった。
探していた女が見つからなかった苛立ちが声に滲む。
「で、ですが……」
「お嬢さん。悪いけど、お引き取りを。ううちの若様、粘るタイプが一番嫌いなんで」
警告だった。
平吾は刹夜の性格をよく知っている。
これ以上しつこくすれば、彼の機嫌はさらに損ねてしまう。
下手をすればこの場で命を落とすことになりかねない。
「……わかりました。改めて命を助けてくださって本当にありがとうございました。きっとまたどこかでお会いできる気がします」
女は察しがよかった。
「若様」と呼ばれている時点で、彼が只者でないことはすぐに理解した。
それに、会話の端々から、自分を拉致した連中が黒龍組の関係者であることも察していた。
黒龍組ほどの極道から奪い返してくれたとなれば、目の前の男たちはそれ以上の存在に違いない。
それに何より――
あの容姿。
静かで、冷たくて、尋常じゃないほど美しい。
彼女は思わず心を奪われてしまう。
――ああ、一目惚れって、こういうことかもしれない。
世の中の女たちが少女漫画に夢中になる理由、ようやく分かった気がする。
目の前の男は、彼女がこれまで見てきたどんな男よりも、桁違いに魅力的だった。
手に入れたい。
そう、どうしても彼が欲しい。
今日のところは無理でも、いつかきっと……。
そんな想いを抱きながら、女は黒岩に連れられ空港へと向かう。
去り際、彼女はダメ元で平吾に連絡先を尋ねた。
平吾はひどく面倒くさそうにしながらも、最終的には教えた。
もちろん、彼女が本当に求めている相手が誰なのか――平吾には火を見るより明らかだった。
――翌日。
一つのニュースが、日本中を駆け巡った。
「人気女性歌手・
関与が疑われるのは黒龍組。
謎の男性により救出されるも、恩人の身元不明」
星宮は現在、恩人を探すために高額な懸賞金をかけて、情報提供者をSNSで募集中。
彼女が泣きながら感謝のコメントをする動画は、瞬く間に拡散された。
世間は騒然となり、マスコミは「謎の救世主」の正体を巡って奔走。
さらに――
この事件が国際的な人身売買組織と関係しているとの情報が浮上。
インターポールが動き出し、捜査は国際規模に発展した。
台湾を拠点に活動していた星宮恋夏は、話題を集めてバラエティ番組にも出演した。
注目度は高く、司会者たちも彼女の口から直接、真相を聞きたがっていた。
『星宮さん、今回はご旅行で日本へ?』
「はい、ツアーのあと、ちょっとしたバカンスをと思って…」
『そんな最中に誘拐されるなんて…どこで連れ去られたんですか?』
「ホテルの部屋でした。スタッフを装って、フルーツの盛り合わせを持ってきたんです。ドアを開けた瞬間、薬の染み込んだハンカチを口に押し当てられて……そのまま意識が……」
『えっ、ホテルの中で!? それじゃ抵抗もできませんよね』
「全然できませんでした。目が覚めたら真っ暗な部屋で……
知らない女性たちが十数人、一緒に閉じ込められていました。
食べ物は与えられず、水だけ。『中東に売る』って声も聞こえました……」
『ひどすぎる……その後、どうやって逃げたんですか?』
「……彼が来たんです」
スタジオの空気が一変する。
「まるで神様のようでした。信じられないくらい簡単に私たちを救ってくれて、
私を関西から空港まで護衛してくれて……最後まで見送ってくれたんです」
『その方って、どんな方だったんですか?』
「とても整った顔立ちで……冷静で、でもすごく静かで強い人。
私が芸能人だって知っていたわけじゃないと思います。お礼を言おうと連絡先を聞いたけれど、あっさり断られてしまいました」
『漫画みたいですね』
「本当に……。あの時、彼が現れてくれなかったら、私はもう生きていなかったと思います。
――神様は、彼を私の前に遣わしてくれたんだと信じています。だから私は、彼を探すために懸賞金をかけました」
『ネットでは話題になっていますが、自作自演では?という声もありまして……』
「絶対に違います! 私は誓って言えます。全部、本当の話なんです。
インターポールも私に情報提供を求めています。もし作り話だったら、国際刑事警察が動くはずありません。私は命を懸けて、本当のことを話しているんです」
『ですよね……その恩人、見つかりましたか?』
「まだです……。でも、もし心当たりのある方がいたら、ぜひご連絡を。それに、もしテレビをご覧になっているご本人がいらっしゃったら――
お願いです。私に連絡をください。せめて、一度お食事でもご一緒して、直接お礼を言わせてほしいんです」
『いやあ、スターを助けたなんて、本人は思ってもいないでしょうね』
「たぶん……本当に知らなかったと思います。でも、それでも迷わず助けてくれました。心から感謝しています」
番組が放送されるやいなや、ネットは大騒ぎに。
SNSには“#星宮恋夏の恩人”というタグが生まれ、トレンド入り。
ファンも野次馬も憶測を飛ばし、顔の特徴や証言情報まで集まり始めた。
番組収録を終えた星宮恋夏が楽屋に戻ったとき、マネージャーが駆け込んできた。
「星宮さん……例の男性、たぶん見つけました!」
「えっ!? 本当ですか!? 本人から連絡が?」
「いえ……民間の探偵社から情報提供がありました。写真も送られてきています」
マネージャーが差し出した一枚の写真。
黒のスーツに、袖口に繊細な龍の刺繍。
切れ長の目元に、氷のような殺気を宿した男。
冷徹な顔立ちと、周囲を寄せつけない威圧感。
「間違いない……この人です……!」
恋夏は興奮を隠せなかった。
「だからか……。あのね星宮さん、彼は刹淵組の若頭なんです」
「なっ……!? 刹淵組って……まさか、あの……?」
マネージャーの言葉に、恋夏は一瞬言葉を失った。
大物だとは思っていた。
ただ、まさか――日本最大級の極道組織の中枢だとは、夢にも思わなかった。
刹淵組――
百年以上の歴史を持ち、政治家や財界とも深い繋がりを持つ闇の巨大組織。
韓国マフィアなど比べものにならず、台湾の極道とすら太い繋がりを持つ、本物の裏社会の帝王。
そんな組織の「若頭」が、あの男――。
つまり、次のトップが、彼……だったというのか。
驚きよりも、興奮が先に来た。
――もし、この人と結ばれたなら。
自分の人生は、歌姫という枠を超えて、まったく別次元の高みへ昇っていく。
星宮恋夏。十八歳で華々しくデビューし、今や二十六歳。
名声、富、賞賛、美貌――欲しいものはすべて手に入れた。
ただ、心を預けられる相手だけは、どこにもいなかった。
財閥の御曹司? 王子気取りの実業家?
どれも退屈で退屈で、刺激に欠けすぎていた。
けれど――今回だけは違った。
彼女を救い出し、名も告げずに姿を消した、あの冷たい男。
思い出すたび、思わず口元がほころんでしまう。
「……彼の名前は?」
「九条刹夜です」
そのころ――
千紗は豪奢な屋敷の一室で、刹夜と並んで朝食をとっていた。
テレビには、ちょうど朝の番組が流れている。
「えぇ〜? あのすっごく有名な歌姫さん、助けてもらったんだって。誰に助けられたのかなぁ、きっとお礼に大金払うんだろうね、刹夜さま」
千紗は無邪気に向かいの男へ話しかける。