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第39話 彼の名前


「しらん。興味ねぇ」


刹夜は、テレビの音すら耳に入っていないかのように冷たく答えた。


「う、うん……。あっ、そうだっ! 刹夜さま、今日……実家に帰って、両親に会ってもいいですか?」

「好きにしろ」


「やったー! ありがとうございます!

必ず今日のうちに戻ります! 泊まりません、絶対に!」


千紗は嬉しそうに手を握りしめ、小さく跳ねた。


「ごちそうさん」


朝食の席に響く千紗の明るい声とは対照的に、刹夜は何も言わずに立ち上がった。


そのまま振り返ることもなく、部屋を出ていく。

千紗に甘える隙さえ与えずに。


けれど――

それでも、今日の外出の許可は彼女にとって十分すぎる収穫だった。


両親に妹のことと川崎のことを訊ねなければならない。

どちらもまだ心配の種だから。


実際、妹が屋敷にいた時のことを調べたところ、彼女の行動は非常に制限されていた。

外出でさえ自由にできなかったという。


だが自分は、頼んだだけで即OK。

つまり、自分が本命である証拠では?


口元が緩んだ。

やっぱり刹夜は誰よりも自分を求めている。

――そう思える理由は、ちゃんとある。


あの夜。

媚薬を盛った後のあの狂気のような夜。

もう身体的に親密な関係を持っているのだから、もはや何も言う必要はない。


「――彼が最初から最後まで愛したのは、私だけ」


千紗は確信していた。

妹なんて、ただの影にすぎない。



刹淵組では、刹夜がいつものように淡々と書類に目を通していた。


そこへ、平吾が静かに口を開く。

「若様――」

「言え」

「先日、若様が助けた奥様に似ている女性ですが……どうやら彼女、星宮恋夏という人気の歌手だったようで……日本でもかなり有名で、ニュースにもなっていました。

インタビューでは“命の恩人にお礼を伝えたい”って話してましたが――」


「そんなのどうでもいい。あいつは?」


刹夜の目は一切ブレなかった。

話題の女優も、騒がれるニュースも、彼には一切関係ない。

必要なのは、ただ一人――鈴羽の情報だけだった。


平吾は一瞬だけ言葉を詰まらせ、すぐに頭を下げる。


「……いまのところ、まだ……手がかりは」

「――あと一ヶ月。猶予はそれだけだ。それまでに見つけられなかったら、実家帰って田んぼでも耕してろ」


「……っ!」

平吾は絶句した。


「冗談じゃねぇ。刹淵組が女一人見つけられないなんて、噂になったらどうなる」

「必ず見つけます、ご安心ください!」


平吾は強く拳を握りしめた。


刹夜の気性を知っている彼は、もし本当に見つけられなければ、ここにいてもいられないことを理解していた。

田舎に帰るのもいいが、あんなの凶悪な自分に向いてるわけがない…。


とにかく、早く奥様を見つけるしかない。

さもなければカシラがますます狂ってしまうだろう。


あの夜、人違いが発覚した瞬間の刹夜の表情、怒りというより発狂寸前だった。

正直平吾でさえ本気でビビった。


あの感情を二度と引き出してはいけないと、

平吾は改めて命がけの覚悟を決めた。



一方、鈴羽は普通にパン屋で働いていた。

彼女はとても真面目で、作るパンもアイディアにあふれている。

そのおかげで、大空のパン屋は以前よりもかなり売り上げが上がった。


「そういや鈴羽ちゃん、妹さんの学校のこと、どうなった?」


大空がふと尋ねる。


「大家さんが、しばらく修道院で勉強させてくれるよう手配してくれました」

「それは良かったじゃない。あそこのシスターたち、大学院出も多いって聞くし」

「はい!」


鈴羽は控えめに微笑んだ。


「……で、そのおでこ、どうしたの?」


大空の声が少しだけ鋭くなった。


鈴羽の前髪の隙間から見えた腫れ。

朝は帽子で隠していたが、この暑さで脱いだ今、隠しきれなかった。


「もしかして、昨日のバイト先で何かされたんじゃ……?」

「い、いえ……私がドジで転んだだけです」


鈴羽は少しだけ視線を逸らした。


「嘘、言ってない? 叔母が言ってたけど、あの別荘、雇い主がちょっと変わってるって……。もし辛いなら、別のバイト先紹介するから」


「だ、大丈夫です! もう少しだけ、頑張ってみますから……!」



実は――

今朝、フィエルから渡された封筒を開けたとき。


中には、昨夜の4時間分の給料・4万円に加え、

なんと10万円ものチップが入っていた。


10万円。


パン屋で何週間も働かないと稼げない額。

それが、一晩で。


お金が必要だから、多少のケガなんてどうでもいい。

鈴羽はそう思っていた。


それを見て、大空はそれ以上何も聞かなかった。



テレビではちょうど、人気女優が「命の恩人を探している」というニュースが流れていた。

パンを買いに来た客たちは、そのゴシップに花を咲かせ、軽やかに笑い合っていた。


けれど鈴羽には、そんなことどうでもよかった。

自分には縁遠い世界の話だけだった。


いま彼女にとって大切なのは、蛍を守ること、そして生活費を稼ぐこと――

ただ、それだけだった。



夜。

パン屋での仕事を終えた鈴羽は、店に残ったパンを少しだけ口にし、

そのまま静かに別荘へ向かった。


フィエルは、相変わらず無表情で淡々とした口調だった。


「坊ちゃまは二階の音楽室にいらっしゃいます」


それだけ告げて、フィエルは音もなく去っていった。


鈴羽は静かに介護士用の制服に着替え、

指定された部屋――音楽室へと向かった。


途中、廊下に響くのは断続的なピアノの旋律。


そのメロディーは、彼女も知っていた。


《告白》。


ヴァイオリンの演奏で有名になった曲。

一度聴いたら記憶に残るような、印象的な旋律。


ネットでもよく流れていたが、ピアノバージョンを聴くのは初めてだった。


彼女はそっと音楽室の扉の前に立った。

ドアは開け放たれていて、中の様子がよく見える。


夜の月明かりの中――

銀髪の少年が白と黒の鍵盤の上で、指を優雅に滑らせている。


それはまるで、絵画のような光景だった。


鈴羽は見とれてしまっていた。

それがこの幻想的な光景なのか、音楽の力なのか――わからない。


だが突然、音が止んだ――

彼女が顔を上げると、彼は扉の方を見つめていた。


「来たのか」


その声は昨日のものとはまるで違っていた。

穏やかで、どこか柔らかな声音だった。


「は、はい……。あの、何かお手伝いできることがあれば……

あっ、お飲み物とか……コーヒー?それとも紅茶……?」


緊張した鈴羽は、言葉を繋ぎながら一歩も踏み出せずにいた。

またあのクリスタルの灰皿が飛んでくるのでは――そんな恐怖がよぎる。


だが――


「こっちに来い」


その一言とともに、彼は目元に小さな笑みを浮かべた。

鈴羽は一瞬だけ戸惑ったが、やがてそっと歩を進めた。


「ピアノ、弾けるか?」


彼の問いに、鈴羽は静かに首を振る。

ピアノどころか、楽器に触れたことすらない。


田舎の生活は厳しく、祖母にはそんな高価な習い事をさせる余裕などなかった。

音楽なんて、お金持ちの子の趣味。

彼女には、縁のない世界だった。


――けれど、姉の千紗は違った。


両親は、姉を愛していた。

裕福ではなかったが、できる限り姉に良い教育を与えようとしていた。


だが千紗は、何をやっても続かず、

ピアノも、バレエも、バイオリンも――

すべて途中で投げ出してしまった。


「学んでみたいか?」


唐突な問いに、鈴羽は俯いたまま、小さく答えた。


「きっと無理です。私……すごく不器用なので」


「君は不器用かもしれない。でも、教えるのが上手い人間が相手なら――

案外、できるかもしれないよ」


「坊ちゃま、でも私……」

「鈴羽。もう“坊ちゃま”って呼ぶな」


彼はまっすぐ彼女を見つめ、静かに告げた。


「流河――と呼べ」


鈴羽は驚いて目を見開く。


「神楽坂流河。僕の名前だ」


神楽坂流河かぐらざか るか――

なんて美しい名前なんだろう。


彼の姿そのもののように、どこか幻想的で現実味がなかった。


「……流河、さま」


思わずそう呼ぶと、流河はふっと笑い、彼女の頭に手を伸ばしかけた。

だが、その手は触れる寸前で止まり、ふわりと降ろされた。


「……さあ、教えてやる」

「ですが……」


断ろうとしたその瞬間。


「いいから、黙って四時間。俺のピアノに付き合え。それで今夜の仕事は終わりにしてやる」


――またその手か。


けれど早くこの四時間を終わらせて、早く休みたかったのも本音だった。


彼女がまだ迷っている間に、流河は大きな手で鈴羽の手をそっと取った。

そのまま、鍵盤の上をなぞるようにゆっくり滑らせていく。


「これを覚えて。いつか僕に――君の指で、弾いてみせて」


ささやくような、魔法の声。


そして――

すぐそばにある彼の気配と吐息が、頬にふわりとかかる。


あまりにも近くて、あまりにも静かで――

少し、危ういほどに。


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