「しらん。興味ねぇ」
刹夜は、テレビの音すら耳に入っていないかのように冷たく答えた。
「う、うん……。あっ、そうだっ! 刹夜さま、今日……実家に帰って、両親に会ってもいいですか?」
「好きにしろ」
「やったー! ありがとうございます!
必ず今日のうちに戻ります! 泊まりません、絶対に!」
千紗は嬉しそうに手を握りしめ、小さく跳ねた。
「ごちそうさん」
朝食の席に響く千紗の明るい声とは対照的に、刹夜は何も言わずに立ち上がった。
そのまま振り返ることもなく、部屋を出ていく。
千紗に甘える隙さえ与えずに。
けれど――
それでも、今日の外出の許可は彼女にとって十分すぎる収穫だった。
両親に妹のことと川崎のことを訊ねなければならない。
どちらもまだ心配の種だから。
実際、妹が屋敷にいた時のことを調べたところ、彼女の行動は非常に制限されていた。
外出でさえ自由にできなかったという。
だが自分は、頼んだだけで即OK。
つまり、自分が本命である証拠では?
口元が緩んだ。
やっぱり刹夜は誰よりも自分を求めている。
――そう思える理由は、ちゃんとある。
あの夜。
媚薬を盛った後のあの狂気のような夜。
もう身体的に親密な関係を持っているのだから、もはや何も言う必要はない。
「――彼が最初から最後まで愛したのは、私だけ」
千紗は確信していた。
妹なんて、ただの影にすぎない。
刹淵組では、刹夜がいつものように淡々と書類に目を通していた。
そこへ、平吾が静かに口を開く。
「若様――」
「言え」
「先日、若様が助けた奥様に似ている女性ですが……どうやら彼女、星宮恋夏という人気の歌手だったようで……日本でもかなり有名で、ニュースにもなっていました。
インタビューでは“命の恩人にお礼を伝えたい”って話してましたが――」
「そんなのどうでもいい。あいつは?」
刹夜の目は一切ブレなかった。
話題の女優も、騒がれるニュースも、彼には一切関係ない。
必要なのは、ただ一人――鈴羽の情報だけだった。
平吾は一瞬だけ言葉を詰まらせ、すぐに頭を下げる。
「……いまのところ、まだ……手がかりは」
「――あと一ヶ月。猶予はそれだけだ。それまでに見つけられなかったら、実家帰って田んぼでも耕してろ」
「……っ!」
平吾は絶句した。
「冗談じゃねぇ。刹淵組が女一人見つけられないなんて、噂になったらどうなる」
「必ず見つけます、ご安心ください!」
平吾は強く拳を握りしめた。
刹夜の気性を知っている彼は、もし本当に見つけられなければ、ここにいてもいられないことを理解していた。
田舎に帰るのもいいが、あんなの凶悪な自分に向いてるわけがない…。
とにかく、早く奥様を見つけるしかない。
さもなければカシラがますます狂ってしまうだろう。
あの夜、人違いが発覚した瞬間の刹夜の表情、怒りというより発狂寸前だった。
正直平吾でさえ本気でビビった。
あの感情を二度と引き出してはいけないと、
平吾は改めて命がけの覚悟を決めた。
一方、鈴羽は普通にパン屋で働いていた。
彼女はとても真面目で、作るパンもアイディアにあふれている。
そのおかげで、大空のパン屋は以前よりもかなり売り上げが上がった。
「そういや鈴羽ちゃん、妹さんの学校のこと、どうなった?」
大空がふと尋ねる。
「大家さんが、しばらく修道院で勉強させてくれるよう手配してくれました」
「それは良かったじゃない。あそこのシスターたち、大学院出も多いって聞くし」
「はい!」
鈴羽は控えめに微笑んだ。
「……で、そのおでこ、どうしたの?」
大空の声が少しだけ鋭くなった。
鈴羽の前髪の隙間から見えた腫れ。
朝は帽子で隠していたが、この暑さで脱いだ今、隠しきれなかった。
「もしかして、昨日のバイト先で何かされたんじゃ……?」
「い、いえ……私がドジで転んだだけです」
鈴羽は少しだけ視線を逸らした。
「嘘、言ってない? 叔母が言ってたけど、あの別荘、雇い主がちょっと変わってるって……。もし辛いなら、別のバイト先紹介するから」
「だ、大丈夫です! もう少しだけ、頑張ってみますから……!」
実は――
今朝、フィエルから渡された封筒を開けたとき。
中には、昨夜の4時間分の給料・4万円に加え、
なんと10万円ものチップが入っていた。
10万円。
パン屋で何週間も働かないと稼げない額。
それが、一晩で。
お金が必要だから、多少のケガなんてどうでもいい。
鈴羽はそう思っていた。
それを見て、大空はそれ以上何も聞かなかった。
テレビではちょうど、人気女優が「命の恩人を探している」というニュースが流れていた。
パンを買いに来た客たちは、そのゴシップに花を咲かせ、軽やかに笑い合っていた。
けれど鈴羽には、そんなことどうでもよかった。
自分には縁遠い世界の話だけだった。
いま彼女にとって大切なのは、蛍を守ること、そして生活費を稼ぐこと――
ただ、それだけだった。
夜。
パン屋での仕事を終えた鈴羽は、店に残ったパンを少しだけ口にし、
そのまま静かに別荘へ向かった。
フィエルは、相変わらず無表情で淡々とした口調だった。
「坊ちゃまは二階の音楽室にいらっしゃいます」
それだけ告げて、フィエルは音もなく去っていった。
鈴羽は静かに介護士用の制服に着替え、
指定された部屋――音楽室へと向かった。
途中、廊下に響くのは断続的なピアノの旋律。
そのメロディーは、彼女も知っていた。
《告白》。
ヴァイオリンの演奏で有名になった曲。
一度聴いたら記憶に残るような、印象的な旋律。
ネットでもよく流れていたが、ピアノバージョンを聴くのは初めてだった。
彼女はそっと音楽室の扉の前に立った。
ドアは開け放たれていて、中の様子がよく見える。
夜の月明かりの中――
銀髪の少年が白と黒の鍵盤の上で、指を優雅に滑らせている。
それはまるで、絵画のような光景だった。
鈴羽は見とれてしまっていた。
それがこの幻想的な光景なのか、音楽の力なのか――わからない。
だが突然、音が止んだ――
彼女が顔を上げると、彼は扉の方を見つめていた。
「来たのか」
その声は昨日のものとはまるで違っていた。
穏やかで、どこか柔らかな声音だった。
「は、はい……。あの、何かお手伝いできることがあれば……
あっ、お飲み物とか……コーヒー?それとも紅茶……?」
緊張した鈴羽は、言葉を繋ぎながら一歩も踏み出せずにいた。
またあのクリスタルの灰皿が飛んでくるのでは――そんな恐怖がよぎる。
だが――
「こっちに来い」
その一言とともに、彼は目元に小さな笑みを浮かべた。
鈴羽は一瞬だけ戸惑ったが、やがてそっと歩を進めた。
「ピアノ、弾けるか?」
彼の問いに、鈴羽は静かに首を振る。
ピアノどころか、楽器に触れたことすらない。
田舎の生活は厳しく、祖母にはそんな高価な習い事をさせる余裕などなかった。
音楽なんて、お金持ちの子の趣味。
彼女には、縁のない世界だった。
――けれど、姉の千紗は違った。
両親は、姉を愛していた。
裕福ではなかったが、できる限り姉に良い教育を与えようとしていた。
だが千紗は、何をやっても続かず、
ピアノも、バレエも、バイオリンも――
すべて途中で投げ出してしまった。
「学んでみたいか?」
唐突な問いに、鈴羽は俯いたまま、小さく答えた。
「きっと無理です。私……すごく不器用なので」
「君は不器用かもしれない。でも、教えるのが上手い人間が相手なら――
案外、できるかもしれないよ」
「坊ちゃま、でも私……」
「鈴羽。もう“坊ちゃま”って呼ぶな」
彼はまっすぐ彼女を見つめ、静かに告げた。
「流河――と呼べ」
鈴羽は驚いて目を見開く。
「神楽坂流河。僕の名前だ」
なんて美しい名前なんだろう。
彼の姿そのもののように、どこか幻想的で現実味がなかった。
「……流河、さま」
思わずそう呼ぶと、流河はふっと笑い、彼女の頭に手を伸ばしかけた。
だが、その手は触れる寸前で止まり、ふわりと降ろされた。
「……さあ、教えてやる」
「ですが……」
断ろうとしたその瞬間。
「いいから、黙って四時間。俺のピアノに付き合え。それで今夜の仕事は終わりにしてやる」
――またその手か。
けれど早くこの四時間を終わらせて、早く休みたかったのも本音だった。
彼女がまだ迷っている間に、流河は大きな手で鈴羽の手をそっと取った。
そのまま、鍵盤の上をなぞるようにゆっくり滑らせていく。
「これを覚えて。いつか僕に――君の指で、弾いてみせて」
ささやくような、魔法の声。
そして――
すぐそばにある彼の気配と吐息が、頬にふわりとかかる。
あまりにも近くて、あまりにも静かで――
少し、危ういほどに。