一方その頃――
月島千紗は、刹夜からの許可を得て、久しぶりに実家へ戻っていた。
実家は屋敷からそう遠くない。
車でわずか一時間ほどの距離。
千紗は両親が全力で育て上げた、期待の長女だった。
たとえかつて“男と駆け落ち”という大きな過ちを犯しても、責めることはなかった。
むしろ、その過去すら隠して庇った。
――それに比べて、双子の妹・鈴羽は何をしても「間違い」とされてきた。
玄関のチャイムが鳴り、ドアを開けた母は目を見開いた。
「ちーちゃん……!」
声に出して名を呼んだその瞬間、微笑が浮かぶ。
仕事で父が不在のため、家にいたのは主婦である母ひとりだった。
どうしてすぐに千紗だと分かったのか――
それは、自信が眉の形にまで滲み出ていたからだろう。
瓜二つの双子でも、放つ雰囲気は全く違う。
千紗は子供の頃から自信家で、誰に対しても怖いもの知らずだった。
それに対して鈴羽は、生まれつきの自信のなさが滲み出ていて、いつも誰かの顔色をうかがっている。
そして今も――
ブランド物に身を包み、堂々と玄関を踏みしめて入ってくるその姿。
千紗であることに疑いの余地すらなかった。
「パパは?」
手ぶらで現れたその態度も千紗らしかった。
あれほど贅沢な暮らしをしているのに、親への土産ひとつない。
刹夜のブラックカードを自由に使える今なら、
お土産のひとつやふたつ、いくらでも買えたはずなのに。
代わりに肩から下げていたのは、新品のエルメスのバッグ。
ざっと見積もっても200万はくだらない。
「パパは仕事に出てるわ。急にどうしたのちーちゃん?
もしかして…ケンカでもしたの?」
母は不安そうな様子で訊ねた。
――ヤクザを怒らせたら命に関わる。
娘の身が心配なのだ。
千紗はリビングのソファにドカッと腰を下ろし、
テーブルの上のリンゴを手に取って、かぶりついた。
「なにこのリンゴ、まずっ。安物じゃん。桃とかないの?」
「最近は桃が高くて……。でも食べたいなら今から買ってくるわよ」
母は少しだけうつむきながら言った。
「いいわよ。どうせ戻るころにはもう食べたくなくなってるし」
千紗は鬱陶しそうに手を振った。
「ていうかさ、あんたら本当に貧乏よね。子どものころからずーっと、安売りの果物しか家になかったじゃん。
ほんっと、よくあんな貧乏で子どもなんか作ろうとしたわよね。
まあ、私が出来のいい娘だからよかったけど、そうじゃなきゃあんたらと同じ貧乏人だったと思うとイライラする」
母はその暴言にも、反論することができなかった。
これまでずっと、千紗を甘やかし、叱らず、好きにさせてきた。
それが今、この傲慢な娘をつくった。
「ちーちゃん、本当に喧嘩してないのよね……?」
「さっきから何言ってんの?呪う気?縁起でもない」
千紗は眉を吊り上げ、母を睨んだ。
「ち、違うのよ。ママはただ、あなたが心配で……」
「心配なんていらない。私はうまくやってるわ。
刹夜さまは私のこと大事にしてくれてる。もしかしたら近いうちに――赤ちゃんができるかもしれないしね?」
「……えっ? も、もうそういう関係に?」
母の声は驚きに満ちていた。
「当たり前でしょ。私は刹夜さまに愛されてる女なの。ベッドでも、とても丁寧に扱ってくれるし、何度でも求められるわ」
と千紗は全く恥ずかしがる様子もなく、男女の話をさらりと言う。
このあたりも鈴羽と正反対だ。
鈴羽は極端な恥ずかしがり屋だが、千紗は全く気にしない。
「……それなら、よかったわね」
母はようやく、安堵のため息をこぼした。
「ねえ……最近、鈴羽から連絡あった?」
千紗が突然、低い声で問いかけた。
母は一瞬、目を瞬かせた。
「……どうして急にそんなこと……?」
「聞かれたことに答えなさいよ。そういう回りくどい言い方、ほんっとイライラするのよね」
語尾に怒気がにじんでいた。
母は慌てて首を振る。
「ち、違うのよ。ママはただ、急にそんなこと聞かれるから……ちょっと驚いただけで」
「……どうでもいいから。早く答えて」
「……あったわよ。この前、電話で“おばあちゃんの様子を見に行って”って言ってきたの」
「――やっぱ……死んでなかったのね」
千紗はずっと妹の行方を気になっていた。
刹夜は何も言わない、自分からも聞けなかった。
けれど、どうにも妹が簡単に死ぬはずがない気がしていた。
それが、どうにも気に入らない。
自分と全く同じ顔を持つ女がこの世にいること。
生きている限り、いつ何時何かを奪ってくるかわからない。
「で、居場所は?」
「それは……教えてくれなかったわ。ただ、少なくとも九条さまとは一緒にいないと思う。
だってあの子、“もしおばあちゃんの様子を見に行ってくれなかったら、刹夜さんのところに行って迷惑かける”って……脅すような言い方をしてきたの。
あなたたちの関係が壊されたくなくて……ママ、その通りにした」
千紗の表情が一変し、吐き捨てるように言った。
「……やっぱりクズね。人の感情を人質にするなんて、最低」
「……そうね……ママも嫌だったけど、仕方なくて……」
「それで、何か他に連絡は?」
「ないわ。それっきり」
「そのとき使ってた番号、覚えてる?」
「あるにはあるけど……たぶん本人のじゃないわ」
母はスマホを取り出し、履歴を開いて見せた。
千紗はその番号に電話をかけてみた――が、やはり繋がらない。
「いいわ。とりあえず、次にまた鈴羽から連絡が来たら――絶対に、居場所を聞き出して。あの子がどこに潜んでるか知らないと……落ち着かないの」
「……わかった、聞いてみるわ。でも、ちーちゃん……まさか、何かするつもりじゃないでしょうね?
すずちゃんももう屋敷から追い出されたんだし、放っておけばそのうち消えるんじゃない?あなたたち、双子なのよ……血を分けた姉妹なんだから……」
母も別に鈴羽のことを庇うわけではない。
でも、長女の表情にはあまりにも強い敵意があり――
彼女の中に、ぞくりとした不安が芽生えた。
――まさか、本当に妹を殺そうとしてる?
いくらなんでも、それは人としてどうかと思う。
「そのへんはあんたが気にしなくていい。言われた通りにしてればいいの。
それと――これから先、刹夜さまに何を聞かれても、余計なことは絶対に言わないで」
「……ええ、わかってる」
「そうだ、川崎から連絡あった?」
「川崎? いいえ、一度も」
「それならいいわ。あの貧乏男が、万が一にも連絡してきたら――すぐ私に報告して。私が、始末するから」
「……わかったわ」
「じゃ、もう用はないから帰るわ。運転手が待ってるの」
千紗は今日も、高級車で実家に乗りつけていた。
近所の人たちの視線も、当然集まる。
誰が見てもわかる。
――あの娘、金持ちの男に囲われてるなと。
それくらい、乗っている車は高級で、堂々としていた。
「ちーちゃん、お昼食べていかない?あなたが子どもの頃大好きだった厚切り牛タンとサンマの塩焼きを作ってあげようと思って」
母はどこか必死に、懸命に娘の機嫌を取ろうとしていた。
だが――
千紗はあからさまな軽蔑の目で母を見下ろした。
「……それ、貧乏人が喜ぶ献立じゃない?私が食べるわけないでしょ。バッカみたい。
マジでさ、自分の立場わかってる?あんたみたいな惨めな女が母親なんて……恥ずかしいにもほどがあるわ」
母はその場に凍りついた。
ただ、娘に温かい昼食を――
と思っただけなのに。
「もう行くわ。今後、私が来なくても、絶対にそっちから連絡してこないで。
私はいま刹夜さまのおかげでテレビにだって出る立場にいるの。そんな私に、“貧乏で惨めな親がいる”なんて、バレたら終わりなのよ。
……本当に。徳川家みたいな親だったらよかったのに」
千紗は徳川花怜の裕福な家を羨ましそうに呟いた。
――
一方その頃――
刹淵組本部。
黒岩平吾が刹夜に報告に来た。
「若様。……星宮恋夏さまが、ご面会を希望されています」
「……誰?」
刹夜は眉をひそめて聞き返した。