目次
ブックマーク
応援する
12
コメント
シェア
通報

第41話 恩返し


「あの日、若様が助けた女優です」

「……ああ、あの女か」


刹夜は興味なさそうに短く答えた。


「で? 何しに来た」

「詳しい内容はわかりません。ただ、“ぜひ一度お会いしたい”と」

「……通せ」


手を軽く振ると、平吾が星宮恋夏を連れて部屋に入ってきた。


今日の星宮は、明らかに入念な準備をしていた。

真紅のマーメイドドレスに白いショール。顔は完璧なフルメイク。

あの日のすっぴんで怯えた姿とはまるで別人のよう。


だが――

彼女はすっぴんのときこそ、少し鈴羽に似ていた。

こうして完璧に作り込まれた姿では、そのわずかな似ている雰囲気すら消えていた。


「九条さま、お久しぶりです」


星宮は明るく微笑んだ。


「覚えていらっしゃいますか?」

「……用件は?」


刹夜は表情ひとつ変えない。

彼女の華やかすぎる装いにも、一片の興味も示さなかった。

その冷たさに、星宮の笑顔がわずかに引きつる。


「……あの日は本当に状況がひどくて……きちんとお礼も言えなかったので、改めて命を救っていただいたお礼に伺いました」


「礼は結構だ」


ばっさりと切り捨てるような即答。

星宮は一瞬、息を呑む。


「で、ですが……母から“受けた恩は必ず返すように”と教えられて育ちました。

九条さまがどんなお立場であっても、私はそれを守りたいんです。

できる限りの方法で……お返しをしたくて」


「……ふーん。で、どうするつもり?」


刹夜は星宮を無表情で見つめた。


「わ、私……」


星宮の頬がうっすらと赤くなった。


「命の恩人には……身を捧げるのも一つの方法かなって……

もし九条さまがまだご結婚されていなければ……私のこと、受け入れていただけないかと思いまして……」


そう言い終えると、星宮の頬がさらに赤く染まった。


不思議なことに、刹夜はその照れた顔を見ていると、ふとあの女の姿が脳裏をよぎった。


あいつも、よく顔を赤くしていた。

何か言えばすぐに耳まで真っ赤にして、口ごもって。


彼女が照れるたびに、刹夜はなぜか可愛いと思っていた。


だが、目の前の星宮は――

見た目は鈴羽よりも華やかで魅惑的なはずなのに、全く心が動かなかった。


「……他に選択肢は?」

「え……?」


星宮がぽかんとした表情を浮かべる。


「だから。他に恩返しする方法はないのかって聞いてんだ」


刹夜は顔をそむけ、見ようともしない。


「えっと……じゃ、じゃあ……お金をお渡しするというのは……」

「いくら出せる」


刹夜はタバコを一本取り出し、口元にくわえる。


そのライターをつける動作さえ妙にカッコよく見えて、

星宮は思わず見とれてしまったが、刹夜はただ不機嫌そうに睨む。


「あっ、九条さまがご希望される額があれば……」

「お前の死亡保障金はいくらだ」

「し、死亡……? えっと、一億円、ですが……」

「じゃあその一億で」


星宮は完全に面食らった。

今日ここに来たのは、恩返しとして自分を差し出すため。

まさか現金で返せと言われるとは思わなかった。


「え、えっと……その……」

「多いなら五千万でいい。おい、平吾」

「はっ」

「振込案内しろ。恩返しに金をくれるってさ」

「かしこまりました。星宮さま、こちらへどうぞ」


「……」


星宮自身も、どうして話がこんな展開になったのか、よく分かっていなかった。


けれど――

ヤクザに逆らえる者など、この世に存在しない。


何かを言おうとしたが、その隙すら与えられず、

星宮は平吾に付き添われ、休憩室へと消えていった。


――このイケメンなヤクザの若頭に少しでもいい印象を残したい。

そんな一心で、星宮恋夏は思い切って一億円を差し出した。



けれど――

実際のところ、その金額など、九条刹夜にとっては塵にも等しい。


刹淵組は百年以上、裏社会の頂点を走り続けてきた。

勢力は海を越えて、アジア全土、欧州にも根を張り、

日々、莫大な金が雪崩のように流れ込んでくる。


一億など、彼の一年分の酒代にも満たない。


それでも本人がくれるというなら――もらってやろう。


「若様、星宮さまがお帰りになりましたが、お帰りの際、名刺を置いていかれました。“友達になりたいので、また連絡してください”と」


平吾は名刺を一枚差し出した。

刹夜は一瞥もくれず、そのままゴミ箱へポイ。


「……星宮さま、確かに地方ではトップの人気歌手で……歌唱力もあり、三ヶ国語も話せて、学歴も申し分ありません。もし愛人にするなら、なかなか――」


「愛人? 誰の? おまえのか?」


刹夜の声が、一瞬で凍りつく。

その鋭さに、平吾はびくりと肩を震わせた。


「い、いえっ、まさか……!」

「あっちはどうなってる」


苛立ちを隠しきれない声で刹夜が問う。


「え、ええと……月島さまは先ほど、運転手とともに屋敷へ戻られました。

昼食は取らず、ご両親には手ぶらで、滞在時間も三十分も――」


ガタン――!

机の上の茶器が、すべて床に叩き落とされた。

怒鳴り声が、部屋に響く。


「てめぇ、死にてぇのか」


刹夜の目に、明確な苛立ちと殺意が宿っていた。


彼が聞きたかったのは、月島千紗の些細なことではなく――

逃げた、あの女の――鈴羽の行方。


どうでもいい雑情報ばかり持ってくる部下たちに、彼の怒りは頂点に達していた。


「奥様の件は……まだ手がかりがなく、現在も追跡中です!」


平吾の声が震える。

それを聞いた刹夜は吐き捨てるように言った。


「消えろ」


――


――その頃。

小さな地方都市の住宅街。

鈴羽は今日も、何も知らずにいた。


昨日、四時間のピアノのレッスン。

指はこわばり、腕はじんじんと痺れている。


けれど幸いなことに、あの気まぐれな坊ちゃまは昨日は怒らず、灰皿も飛んでこなかった。


今日もまた介護士の仕事に向かう時間が近づき、無事に乗り切れるか少し不安を感じていた。


「坊ちゃまは、まだ何も口にされていません。水も飲まず、食事も拒否しています。

今日の四時間で食事を取らせなさい。失敗したら――明日から来なくていいわ」


フィエルは、また無表情に課題を突きつけてきた。


「……あの、どうしてなんですか? 坊ちゃま、何かあったんでしょうか」

「拒食症が再発したのよ」


その返答は、あまりにもあっさりしていた。

鈴羽は言葉を失った。


――さすが、金持ちの坊ちゃま。

わがままだけじゃなく、病まで厄介だなんて……。


「……わかりました。行ってきます」


制服に着替え、三階の会議室へと向かう。


そこでは、神楽坂流河がリモート会議を終えたばかりだった。

画面が切れた直後、彼は眉間を押さえ、椅子にもたれかかる。


温泉で療養中とはいえ、彼は今もなお家業の経営に手を抜くことはなかった。


顔色は悪い。

一日何も口にしていない胃が、彼を容赦なく蝕んでいた。


それでも、やはり食欲はわかない。


「流河さま」


鈴羽がドアを軽くノックする。


「……帰れ。今日はピアノを教える気力もない」


声は弱々しかった。


「……あの、流河さまって、何か好きな食べ物ありますか?私、料理はそこそこできますから……」


そう言って、鈴羽はそっと彼のもとに歩み寄った――。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?