「あの日、若様が助けた女優です」
「……ああ、あの女か」
刹夜は興味なさそうに短く答えた。
「で? 何しに来た」
「詳しい内容はわかりません。ただ、“ぜひ一度お会いしたい”と」
「……通せ」
手を軽く振ると、平吾が星宮恋夏を連れて部屋に入ってきた。
今日の星宮は、明らかに入念な準備をしていた。
真紅のマーメイドドレスに白いショール。顔は完璧なフルメイク。
あの日のすっぴんで怯えた姿とはまるで別人のよう。
だが――
彼女はすっぴんのときこそ、少し鈴羽に似ていた。
こうして完璧に作り込まれた姿では、そのわずかな似ている雰囲気すら消えていた。
「九条さま、お久しぶりです」
星宮は明るく微笑んだ。
「覚えていらっしゃいますか?」
「……用件は?」
刹夜は表情ひとつ変えない。
彼女の華やかすぎる装いにも、一片の興味も示さなかった。
その冷たさに、星宮の笑顔がわずかに引きつる。
「……あの日は本当に状況がひどくて……きちんとお礼も言えなかったので、改めて命を救っていただいたお礼に伺いました」
「礼は結構だ」
ばっさりと切り捨てるような即答。
星宮は一瞬、息を呑む。
「で、ですが……母から“受けた恩は必ず返すように”と教えられて育ちました。
九条さまがどんなお立場であっても、私はそれを守りたいんです。
できる限りの方法で……お返しをしたくて」
「……ふーん。で、どうするつもり?」
刹夜は星宮を無表情で見つめた。
「わ、私……」
星宮の頬がうっすらと赤くなった。
「命の恩人には……身を捧げるのも一つの方法かなって……
もし九条さまがまだご結婚されていなければ……私のこと、受け入れていただけないかと思いまして……」
そう言い終えると、星宮の頬がさらに赤く染まった。
不思議なことに、刹夜はその照れた顔を見ていると、ふとあの女の姿が脳裏をよぎった。
あいつも、よく顔を赤くしていた。
何か言えばすぐに耳まで真っ赤にして、口ごもって。
彼女が照れるたびに、刹夜はなぜか可愛いと思っていた。
だが、目の前の星宮は――
見た目は鈴羽よりも華やかで魅惑的なはずなのに、全く心が動かなかった。
「……他に選択肢は?」
「え……?」
星宮がぽかんとした表情を浮かべる。
「だから。他に恩返しする方法はないのかって聞いてんだ」
刹夜は顔をそむけ、見ようともしない。
「えっと……じゃ、じゃあ……お金をお渡しするというのは……」
「いくら出せる」
刹夜はタバコを一本取り出し、口元にくわえる。
そのライターをつける動作さえ妙にカッコよく見えて、
星宮は思わず見とれてしまったが、刹夜はただ不機嫌そうに睨む。
「あっ、九条さまがご希望される額があれば……」
「お前の死亡保障金はいくらだ」
「し、死亡……? えっと、一億円、ですが……」
「じゃあその一億で」
星宮は完全に面食らった。
今日ここに来たのは、恩返しとして自分を差し出すため。
まさか現金で返せと言われるとは思わなかった。
「え、えっと……その……」
「多いなら五千万でいい。おい、平吾」
「はっ」
「振込案内しろ。恩返しに金をくれるってさ」
「かしこまりました。星宮さま、こちらへどうぞ」
「……」
星宮自身も、どうして話がこんな展開になったのか、よく分かっていなかった。
けれど――
ヤクザに逆らえる者など、この世に存在しない。
何かを言おうとしたが、その隙すら与えられず、
星宮は平吾に付き添われ、休憩室へと消えていった。
――このイケメンなヤクザの若頭に少しでもいい印象を残したい。
そんな一心で、星宮恋夏は思い切って一億円を差し出した。
けれど――
実際のところ、その金額など、九条刹夜にとっては塵にも等しい。
刹淵組は百年以上、裏社会の頂点を走り続けてきた。
勢力は海を越えて、アジア全土、欧州にも根を張り、
日々、莫大な金が雪崩のように流れ込んでくる。
一億など、彼の一年分の酒代にも満たない。
それでも本人がくれるというなら――もらってやろう。
「若様、星宮さまがお帰りになりましたが、お帰りの際、名刺を置いていかれました。“友達になりたいので、また連絡してください”と」
平吾は名刺を一枚差し出した。
刹夜は一瞥もくれず、そのままゴミ箱へポイ。
「……星宮さま、確かに地方ではトップの人気歌手で……歌唱力もあり、三ヶ国語も話せて、学歴も申し分ありません。もし愛人にするなら、なかなか――」
「愛人? 誰の? おまえのか?」
刹夜の声が、一瞬で凍りつく。
その鋭さに、平吾はびくりと肩を震わせた。
「い、いえっ、まさか……!」
「あっちはどうなってる」
苛立ちを隠しきれない声で刹夜が問う。
「え、ええと……月島さまは先ほど、運転手とともに屋敷へ戻られました。
昼食は取らず、ご両親には手ぶらで、滞在時間も三十分も――」
ガタン――!
机の上の茶器が、すべて床に叩き落とされた。
怒鳴り声が、部屋に響く。
「てめぇ、死にてぇのか」
刹夜の目に、明確な苛立ちと殺意が宿っていた。
彼が聞きたかったのは、月島千紗の些細なことではなく――
逃げた、あの女の――鈴羽の行方。
どうでもいい雑情報ばかり持ってくる部下たちに、彼の怒りは頂点に達していた。
「奥様の件は……まだ手がかりがなく、現在も追跡中です!」
平吾の声が震える。
それを聞いた刹夜は吐き捨てるように言った。
「消えろ」
――
――その頃。
小さな地方都市の住宅街。
鈴羽は今日も、何も知らずにいた。
昨日、四時間のピアノのレッスン。
指はこわばり、腕はじんじんと痺れている。
けれど幸いなことに、あの気まぐれな坊ちゃまは昨日は怒らず、灰皿も飛んでこなかった。
今日もまた介護士の仕事に向かう時間が近づき、無事に乗り切れるか少し不安を感じていた。
「坊ちゃまは、まだ何も口にされていません。水も飲まず、食事も拒否しています。
今日の四時間で食事を取らせなさい。失敗したら――明日から来なくていいわ」
フィエルは、また無表情に課題を突きつけてきた。
「……あの、どうしてなんですか? 坊ちゃま、何かあったんでしょうか」
「拒食症が再発したのよ」
その返答は、あまりにもあっさりしていた。
鈴羽は言葉を失った。
――さすが、金持ちの坊ちゃま。
わがままだけじゃなく、病まで厄介だなんて……。
「……わかりました。行ってきます」
制服に着替え、三階の会議室へと向かう。
そこでは、神楽坂流河がリモート会議を終えたばかりだった。
画面が切れた直後、彼は眉間を押さえ、椅子にもたれかかる。
温泉で療養中とはいえ、彼は今もなお家業の経営に手を抜くことはなかった。
顔色は悪い。
一日何も口にしていない胃が、彼を容赦なく蝕んでいた。
それでも、やはり食欲はわかない。
「流河さま」
鈴羽がドアを軽くノックする。
「……帰れ。今日はピアノを教える気力もない」
声は弱々しかった。
「……あの、流河さまって、何か好きな食べ物ありますか?私、料理はそこそこできますから……」
そう言って、鈴羽はそっと彼のもとに歩み寄った――。