「……いらない。出てけ」
流河の声には明らかに苛立ちと疲弊がにじんでいた。
顔色はひどく蒼く、目の下にはくっきりとした影が浮いている。
そして、彼は乱暴に鈴羽の肩を押しやった。
「もう帰れ」と、冷たく言い放つ。
だが、鈴羽にはそのまま引き下がる理由がなかった。
フィエルから命令されたのだ――
「食事を摂らせろ。できなければ明日から来なくていい」と。
この仕事は、彼女にとって生活の糧。
ここで諦めるわけにはいかない。
何があっても、食べてもらうしかない。
「流河さま……フィエルさまが流河さまが今日一日何も召し上がっていないと仰っていました。このままでは胃に負担がかかります。せめて、温かいお水だけでも……」
返事はなかった。
だが鈴羽は諦めず、そっと温かい水を用意して彼の元へ差し出した。
「どうぞ、少しだけでも……」
「だからっ、いらねぇって言ってんだろ!」
次の瞬間――
彼の手が、カップをはじいた。
パリン、と甲高い音が響き、
ガラスは床に砕け、水が四方に飛び散った。
もし他の女の子なら、泣いて逃げ出していたかもしれない。
でも――彼女は鈴羽だ。
あの九条刹夜と、1年間も同居してきた鈴羽だ。
罵倒や物が飛ぶくらいでは、もう驚かない。
刹夜も機嫌が悪ければ、熱湯すら投げてくることがあったのだから――
そのおかげで、こうしたことにはもう動じなくなっていた。
彼女はすぐに白いハンカチを取り出し、しゃがみ込んで丁寧に床を拭き始めた。
「流河さま、ガラスの破片がけっこう飛んでます。危ないので、動かないでくださいね」
その声は、終始やわらかく、穏やかだった。
流河は、割れるような頭痛に眉を寄せながらも、ふと目の前の少女を見つめていた。
これまで、自分の癇癪で何人もの介護士が辞めていった。
皆、怖がって、怯えて、逃げていった。
でも――
この少女は、ただ淡々と後始末をしている。
まるで、それが当然かのように。
「……なんでまだ帰らないんだよ」
「今日の私の役目は、流河さまに何か食べていただくこと。それだけです」
「……言ったよな、食えないんだよ。
お前、学校で勉強してなかったのか? 拒食症って意味、分かんないならスマホで調べろよ。少しは知識つけろっての」
鈴羽は黙ってガラス片を片づけ、濡れた床を丁寧に拭き取る。
そして立ち上がり、小さく息を吐いた。
「知ってますよ。拒食症がどれだけ苦しいかも。
でも、食べなきゃ胃がどんどん壊れて、もっと痛くなります」
男は冷笑した。
「胃が壊れる?僕は死ぬことすら怖くないんだよ。
そんなことでビビると思ってんのか?……ああ、笑わせんな。さっさと出てけ。顔も見たくない」
「流河さま、麺類はお好きですか? それとも……餃子のほうがいいですか?」
「……は? なに言ってんだお前、マジで言葉通じねぇのか!」
「餃子なら、白菜と豚肉の組み合わせがいちばんおいしいです。私は中華料理を学んだこともあるので、ジューシーで美味しい餡を作れます。
麺なら、得意な野菜と卵のラーメンがあります。あっさりしてて、食べやすいです」
流河が口を開こうとした瞬間――
「いや、もう私が決めますね。今は餃子が一番いいと思います。パリッと香ばしくて、ヘルシーで美味しいですよ」
そう言い終えると、鈴羽はひらりと背を向け、何事もなかったようにスタスタと部屋を出ていった。
流河は呆然と立ち尽くしていた。
だがその直後、また胃の奥から込み上げるような吐き気に襲われる。
食べ物のことを考えただけで、身体が拒絶する――。
それが彼の拒食症。
発作は突発的で、うつ病や不安障害の発作とセットでやってくる。
昨夜――
“あの女“から電話があって以来、彼の精神はずっと不安定だった。
眠れぬまま朝を迎え、吐き気で何も喉を通らず、水さえ戻してしまう始末だった。
フィエルはそんな彼の状態に慣れており、わざとこの難しい仕事を鈴羽に任せた。
幸い、鈴羽は本当に料理が得意だった。
彼女はすぐにキッチンへ向かって、準備を始めた。
「……何をしてる?」
冷たい声が背後から投げられた。フィエルだった。
「えっ……流河さまに食べてもらえるように、ご飯を作ってます」
「本人が食べたいって言った?」
「いえ……まだです。でも、作ってから様子を見ようと思って……」
フィエルは鼻で笑った。
「どうせゴミ箱行きよ。無駄な努力ね」
その言葉に、鈴羽の中で何かがカチリと音を立てた。
「――じゃあ、どうすればいいんですか?」
フィエルは一瞬、目を見開いた。
「だって言いましたよね、食べさせられなければ明日から来なくていいって。
だったら、作るのは当然じゃないですか。
なのに“無駄”だの“ゴミ箱行き”だのって……じゃあ私にどうしろと?」
フィエルは冷ややかに言い返す。
「それを考えるのがあなたの仕事でしょ」
「だったら、私のやり方にいちいち口を出さないでいただけます?」
「あなた……」
フィエルも、まさかこの小動物のような彼女が言い返してくるとは思っていなかったのだろう。
言葉が詰まり、そのまま黙って踵を返し去っていった。
だが――鈴羽は気にしていなかった。
この人に媚びても、何も得るものはない。
だったら、最低限の礼儀さえ守っていればいい。関わらずに済ませるのが最善だ。
もちろん、彼女も分かっている。
自分が作った料理を流河が食べるとは限らない。
けれど――やらなければ、始まらない。
ここでの労働時間は一日4時間だけ。
何もせずにその時間をやり過ごすなんて、できない。
高い給料をもらっているのに、何もしないで帰るなんて、良心が許さないのだ。
*
その頃――
九条刹夜は徳川花怜とディナーを共にしていた。
花怜が海外から帰国してからというもの、徳川家は再び華やかさを取り戻し、
彼女自身もジュエリー業界に進出し、あっという間に自身のブランド「LM」を立ち上げている。
その夜、ふたりは高級レストランの窓際に座っていた。
大きな窓の外には、きらめく都会の夜景が広がっている。
「刹夜、さっきからぼーっとしてるけど……どうかした?」
「……いや、別に」
刹夜はフォークでステーキを突き刺し、どこか投げやりに口へ運ぶ。
心の中には、さっきから鈴羽の姿が浮かんでいた。
――そういえば、あいつをこういう店に連れてきたこと、あったか。
高級な料理に戸惑いながら、きっと目を輝かせて喜んだだろう。
そう考えると、なぜか胸の奥がざわついた。
「刹夜、来週ね、香港で展示会があるの。パパが不在で、私一人じゃ不安なの……付き添ってもらえない?」
「来週は無理だ」
刹夜は窓の外を見つめたまま、あっさりと断った。
花怜は落胆を隠しきれず、手元のワイングラスに視線を落とす。
どれだけ努力しても、なぜこの人の心は動かないのか――。
ふと、最近のゴシップを思い出す。
「ねぇ刹夜、最近話題のあの歌手知ってる?大金をかけて誰かを探してるていう。
で、みんな言ってるのよ――
助けたのは九条刹夜じゃないかって」
花怜は刹夜の顔を真正面から見つめた。
「それ、本当なの?」