「ああ、そのことか。――うん、俺だけど」
刹夜はあっさりと認めた。
「……刹夜って、その人みたいなタイプが好きなの? ……あの屋敷にいる女よりも?」
花怜の視線は真剣だった。
“屋敷の女”
――そう言われて、刹夜の脳裏にまず浮かんだのは千紗ではなかった。
あの日、何も言わずに消えた、あの女――鈴羽の顔だった。
そのことを思い出すと、もう食欲など一切湧かない。
刹夜はナイフとフォークを、テーブルにガチャンと無造作に置いた。
「……会計」
片手を挙げてウェイターを呼ぶ。
「え、ちょ、ちょっと……まだ食べ終わってないのに……」
花怜は驚いて声を上げた。
「ゆっくり食えばいい。足りなかったら好きに追加しろ。
俺は用事があるから先に帰る」
刹夜はもう食事を続ける気分にはなれなかった。
花怜の話題にも全く興味が湧かない。
どんなに彼女が着飾っていようと――
視線を向ける気すら起きなかった。
刹夜が去ったあと、花怜はしばらくその場に座り込んだまま、唇を噛みしめていた。
そして、限界が来たようにワイングラスを置き、スマホを取り出す。
『なんで……なんで刹夜は私にだけこんな冷たいの……!』
その夜、彼女は海外にいる親友へ、怒りと悔しさを綴ったメッセージを送る。
『どうして九条刹夜は他の女なら好きになれるくせに、私のことは何とも思ってないの!?
あの女優、歌が下手くそすぎて聞いてられないし、屋敷にいるあの女なんて、Fラン大卒の地味女よ!?ダサいし垢抜けてないし……!
私のどこが劣ってるっていうの!? 何がいいのか、本当に理解できない!!』
一方、レストランを出た後、刹夜は屋敷には戻らなかった。
そのまま刹淵組本部へと向かい、休むことにした。
最近はたまにしか屋敷に顔を出さない。
たとえ月島千紗が薬を盛ってきても、あえて気づかないふりをしている。
薬が効き始めるころ、彼は巧妙に“すり替え”を行っていた。
それを、月島千紗は全く知らない。
いまだに、ベッドで自分を求めてくる男が「九条刹夜」だと信じて疑っていなかった。
――
一方その頃――小さな町の邸宅では。
時刻はもうすぐ夜の十時。
あと三十分で鈴羽の勤務時間が終わる。
餃子を作るのに、予想以上に時間がかかった。
けれど、流河の食欲を少しでも刺激したくて、彼女は手を抜かなかった。
冷凍の市販品なんて使わず、小麦粉からこねて、餡もすべて手作り。
白菜と豚ひき肉のバランスも自分で調整して、一つひとつ丁寧に包んだ。
正直、時間はかかったけれど――
パリッと香ばしい焼き上がりになったとき、鈴羽の口元には自然と微笑みが浮かんだ。
おしゃれなフレンチの白い皿に、焼きたての餃子をきれいに並べて――
彼女は再び、三階の会議室へと向かった。
――その頃、流河は。
胃が痙攣を起こし、ソファにぐったりと横たわっていた。
一日中、何も口にしておらず、
胃は空っぽのまま、胃酸に焼かれ、痛みによる痙攣が始まっている。
こうなるのは、これで何度目だろうか。
最もひどい時は――
五日間、水すら受けつけず、血糖が下がりすぎて意識を失った。
そのときは、フィエルが家庭医を呼び、点滴で命をつないだのだった。
だから、もうこんな状態にも慣れてしまっている。
「流河さま。お食事をお持ちしました、さっき作り終えたばかりです」
「……まだ帰ってなかったのか」
流河の声はひどく弱々しかった。
「はい、帰ってません。焼き餃子を作ったんです。全部手作りで、ちょっと時間はかかりましたけど……絶対お口に合うと思います。ぜひ、食べてみてください」
鈴羽が餃子を流河の目の前に差し出した、そのとき――
料理の匂いに刺激されて、流河は突然、「うっ……!」と嘔吐した。
吐き出されたのは、ただの水。
――あまりにも長く何も食べていなかったため、胃にはもう何も残っていなかった。
「どけ……近寄るな」
鋭く言い放った彼の声には、怒りと苛立ちが滲んでいた。
「ですが、一口だけでも、食べたら少し楽になるかもしれません……」
「黙れッ!出ていけって言ってんだろ!」
流河が吠えるように怒鳴り、鈴羽の身体を突き飛ばした。
鈴羽は倒れながらも、必死に胸の中に餃子の皿を抱え込んで守った。
幸いにも、料理は無傷だった。けれど――
「……痛っ……!」
以前に痛めた肋骨が、どうやら今の衝撃でまたひどくなったようだった。
息をするたびに、肋骨が軋む。
痛みで涙が浮かび、声も出ない。
あんなに綺麗な銀髪と紫の瞳を持つ男が――
どうして怒ると、こんなに恐ろしくなるのだろう……。
鈴羽は地べたに倒れたまま、呻いていたが――
男は何一つ気にかけることもなく、ただ黙ってソファに寝転がっていた。
どれくらい経っただろうか。ようやく鈴羽は体を起こす。
流河はまだ、ソファに横たわったまま。
彼の視線は虚空を彷徨い、
紫色の瞳は天井を見つめたまま、何の感情もなかった。
鈴羽は、今ここで何かを言っても逆効果だと悟った。
……ならもう、賭けに出るしかない。
どうせ明日、食べさせられなければクビになる。
怒らせてしまっても、結果は同じだ。
なら、もう怖がる必要なんてない。
そう腹を括ると、鈴羽はゆっくり流河に近づいた。
そして、餃子を素早く一つ手に取り、
そのまま彼の口に、無理やり押し込んだ。
「なっ……」
男は言葉を発しようとしたが、その口は鈴羽の両手でしっかりと塞がれた。
「吐いちゃダメっ!ちゃんと噛んでみて……信じて。絶対、美味しいから」
流河の瞳が、驚愕で大きく見開かれた。
この女、強引に飯を食わせるなんて、何様のつもりだ。
しかも、吐き出されないように、両手で口を覆ったまま離さない。
怒りが頂点に達し、脳内では鈴羽をどう殺すかのイメージが100通りくらい浮かんでいた。
だがそのとき――
ふわりと、口の中にひろがる香ばしい香り。
彼の思考が、ピタリと止まった。
……なんだ、これ。
自然と、彼の顎が動いた。
ゆっくりと――咀嚼しはじめたのだ。
鈴羽も驚いた。
まさか本当に食べ始めるなんて――
慌てて手を放す。
流河は黙ったまま餃子を噛みしめながら、餃子の香りを味わう……
いままで食べたことのない味だった。
なんとも言えない、懐かしい温かさ。
これが「家庭の味」というものだろうか。
神楽坂家は世界に名だたる大富豪。
流河が口にしてきたのは、どれも一流シェフの最高級料理ばかり。
選び抜かれた食材に、手間暇かけた一皿一皿。
それなのに――
今、目の前の女が作ったこの焼き餃子こそが、「本物の食べ物」の味がした。
「……もう一つくれ」
しばらく沈黙のあと、流河が静かに言った。
「えっ……?」
今度は鈴羽の方が呆然とした。
だが彼は、すでに自分で起き上がり、次の餃子に手を伸ばしていた。
そして一口、また一口。
気づけば、皿に並べられていた餃子を、八個すべて食べきっていた。
最後の一つを口に運びながら、流河がぽつりとつぶやく。
「……まだあるか?」
男は、まだ物足りなそうな顔をする。
鈴羽はあまりの驚きに、言葉も出ない。
彼女は、怒鳴られたり、追い出されたりする覚悟でここにいた。
せめて一個だけでも口に入れてもらえれば……
そう思っていたのに――
まさか、全部完食するなんて。
拒食症って、そういうもんか……?