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第43話 危険な賭け


「ああ、そのことか。――うん、俺だけど」


刹夜はあっさりと認めた。


「……刹夜って、その人みたいなタイプが好きなの? ……あの屋敷にいる女よりも?」


花怜の視線は真剣だった。


“屋敷の女”

――そう言われて、刹夜の脳裏にまず浮かんだのは千紗ではなかった。

あの日、何も言わずに消えた、あの女――鈴羽の顔だった。


そのことを思い出すと、もう食欲など一切湧かない。

刹夜はナイフとフォークを、テーブルにガチャンと無造作に置いた。


「……会計」


片手を挙げてウェイターを呼ぶ。


「え、ちょ、ちょっと……まだ食べ終わってないのに……」


花怜は驚いて声を上げた。


「ゆっくり食えばいい。足りなかったら好きに追加しろ。

俺は用事があるから先に帰る」


刹夜はもう食事を続ける気分にはなれなかった。

花怜の話題にも全く興味が湧かない。


どんなに彼女が着飾っていようと――

視線を向ける気すら起きなかった。


刹夜が去ったあと、花怜はしばらくその場に座り込んだまま、唇を噛みしめていた。


そして、限界が来たようにワイングラスを置き、スマホを取り出す。


『なんで……なんで刹夜は私にだけこんな冷たいの……!』


その夜、彼女は海外にいる親友へ、怒りと悔しさを綴ったメッセージを送る。


『どうして九条刹夜は他の女なら好きになれるくせに、私のことは何とも思ってないの!?

 あの女優、歌が下手くそすぎて聞いてられないし、屋敷にいるあの女なんて、Fラン大卒の地味女よ!?ダサいし垢抜けてないし……!

 私のどこが劣ってるっていうの!? 何がいいのか、本当に理解できない!!』



一方、レストランを出た後、刹夜は屋敷には戻らなかった。

そのまま刹淵組本部へと向かい、休むことにした。


最近はたまにしか屋敷に顔を出さない。

たとえ月島千紗が薬を盛ってきても、あえて気づかないふりをしている。


薬が効き始めるころ、彼は巧妙に“すり替え”を行っていた。


それを、月島千紗は全く知らない。

いまだに、ベッドで自分を求めてくる男が「九条刹夜」だと信じて疑っていなかった。


――


一方その頃――小さな町の邸宅では。


時刻はもうすぐ夜の十時。

あと三十分で鈴羽の勤務時間が終わる。


餃子を作るのに、予想以上に時間がかかった。

けれど、流河の食欲を少しでも刺激したくて、彼女は手を抜かなかった。


冷凍の市販品なんて使わず、小麦粉からこねて、餡もすべて手作り。

白菜と豚ひき肉のバランスも自分で調整して、一つひとつ丁寧に包んだ。


正直、時間はかかったけれど――

パリッと香ばしい焼き上がりになったとき、鈴羽の口元には自然と微笑みが浮かんだ。


おしゃれなフレンチの白い皿に、焼きたての餃子をきれいに並べて――

彼女は再び、三階の会議室へと向かった。


――その頃、流河は。

胃が痙攣を起こし、ソファにぐったりと横たわっていた。


一日中、何も口にしておらず、

胃は空っぽのまま、胃酸に焼かれ、痛みによる痙攣が始まっている。


こうなるのは、これで何度目だろうか。


最もひどい時は――

五日間、水すら受けつけず、血糖が下がりすぎて意識を失った。


そのときは、フィエルが家庭医を呼び、点滴で命をつないだのだった。

だから、もうこんな状態にも慣れてしまっている。


「流河さま。お食事をお持ちしました、さっき作り終えたばかりです」

「……まだ帰ってなかったのか」


流河の声はひどく弱々しかった。


「はい、帰ってません。焼き餃子を作ったんです。全部手作りで、ちょっと時間はかかりましたけど……絶対お口に合うと思います。ぜひ、食べてみてください」


鈴羽が餃子を流河の目の前に差し出した、そのとき――

料理の匂いに刺激されて、流河は突然、「うっ……!」と嘔吐した。


吐き出されたのは、ただの水。

――あまりにも長く何も食べていなかったため、胃にはもう何も残っていなかった。


「どけ……近寄るな」


鋭く言い放った彼の声には、怒りと苛立ちが滲んでいた。


「ですが、一口だけでも、食べたら少し楽になるかもしれません……」


「黙れッ!出ていけって言ってんだろ!」


流河が吠えるように怒鳴り、鈴羽の身体を突き飛ばした。

鈴羽は倒れながらも、必死に胸の中に餃子の皿を抱え込んで守った。


幸いにも、料理は無傷だった。けれど――


「……痛っ……!」


以前に痛めた肋骨が、どうやら今の衝撃でまたひどくなったようだった。


息をするたびに、肋骨が軋む。

痛みで涙が浮かび、声も出ない。


あんなに綺麗な銀髪と紫の瞳を持つ男が――

どうして怒ると、こんなに恐ろしくなるのだろう……。


鈴羽は地べたに倒れたまま、呻いていたが――

男は何一つ気にかけることもなく、ただ黙ってソファに寝転がっていた。


どれくらい経っただろうか。ようやく鈴羽は体を起こす。


流河はまだ、ソファに横たわったまま。

彼の視線は虚空を彷徨い、

紫色の瞳は天井を見つめたまま、何の感情もなかった。


鈴羽は、今ここで何かを言っても逆効果だと悟った。

……ならもう、賭けに出るしかない。


どうせ明日、食べさせられなければクビになる。

怒らせてしまっても、結果は同じだ。


なら、もう怖がる必要なんてない。


そう腹を括ると、鈴羽はゆっくり流河に近づいた。


そして、餃子を素早く一つ手に取り、

そのまま彼の口に、無理やり押し込んだ。


「なっ……」


男は言葉を発しようとしたが、その口は鈴羽の両手でしっかりと塞がれた。


「吐いちゃダメっ!ちゃんと噛んでみて……信じて。絶対、美味しいから」


流河の瞳が、驚愕で大きく見開かれた。


この女、強引に飯を食わせるなんて、何様のつもりだ。

しかも、吐き出されないように、両手で口を覆ったまま離さない。


怒りが頂点に達し、脳内では鈴羽をどう殺すかのイメージが100通りくらい浮かんでいた。


だがそのとき――

ふわりと、口の中にひろがる香ばしい香り。

彼の思考が、ピタリと止まった。


……なんだ、これ。


自然と、彼の顎が動いた。

ゆっくりと――咀嚼しはじめたのだ。


鈴羽も驚いた。

まさか本当に食べ始めるなんて――


慌てて手を放す。


流河は黙ったまま餃子を噛みしめながら、餃子の香りを味わう……

いままで食べたことのない味だった。


なんとも言えない、懐かしい温かさ。

これが「家庭の味」というものだろうか。


神楽坂家は世界に名だたる大富豪。

流河が口にしてきたのは、どれも一流シェフの最高級料理ばかり。


選び抜かれた食材に、手間暇かけた一皿一皿。


それなのに――

今、目の前の女が作ったこの焼き餃子こそが、「本物の食べ物」の味がした。


「……もう一つくれ」


しばらく沈黙のあと、流河が静かに言った。


「えっ……?」


今度は鈴羽の方が呆然とした。

だが彼は、すでに自分で起き上がり、次の餃子に手を伸ばしていた。


そして一口、また一口。


気づけば、皿に並べられていた餃子を、八個すべて食べきっていた。

最後の一つを口に運びながら、流河がぽつりとつぶやく。


「……まだあるか?」


男は、まだ物足りなそうな顔をする。


鈴羽はあまりの驚きに、言葉も出ない。


彼女は、怒鳴られたり、追い出されたりする覚悟でここにいた。

せめて一個だけでも口に入れてもらえれば……


そう思っていたのに――

まさか、全部完食するなんて。


拒食症って、そういうもんか……?


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