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第44話 認められた


「……まだあるか?」


流河が、鈴羽をじっと見て問いかけた。


「いえ、今日はそれだけしか作ってなくて……

それに、流河さまは一日なにも召し上がっていませんから、いきなりたくさん食べると逆に胃に負担がかかります。

もし気に入っていただけたなら、明日またお作りしますね」


鈴羽は少しおそるおそる、相手の機嫌をうかがうように言った。


「……美味しかった」


男の目は、先ほどの狂気がすっかり消え、穏やかさすら感じられた。


「……よかったです……」


思わず、鈴羽も胸をなで下ろす。


「どうやって作った? うちのシェフもたまに餃子を出すが、あれは酷かった。ひと口で吐きたくなる」


鈴羽はふふっと少し笑って、口元をほころばせた。


「これは私の得意料理なんです!

昔、祖母に教わったんですよ。若い頃に中国に住んでいたこともあって、餃子のレシピは本格的なんです。


それに、焼き餃子って言っても、私は油を一滴も使ってません。だから重くならないし、あっさりしてて食べやすいんです。


新鮮な白菜の甘みと、豚肉の香りが合わさると、すごくいい風味が出て……

あとは私の特製ダレで仕上げて……って、語りすぎちゃいましたね」


ほんの少しドヤげな笑みを浮かべながら語る鈴羽を、流河はしばらく黙って見ていたが――


「……よくやった。何か欲しいものはあるか?」

「えっ……?」


予想もしない言葉に、鈴羽は目を瞬いた。


「ご褒美のことだ」


男が補足する。


「あ、いえっ。そんな……私はお仕事で来てるだけですから。

やるべきことをやっただけです。それに、十分すぎるほどのお給料もいただいてますし……」


たとえ生活が苦しくても、今ここで何かを欲しがってしまったら、自分の価値が下がるような気がした。

その答えに、流河はもう何も言わなかった。


「えっと……ベッドまでお連れしましょうか?もう遅いですし」


鈴羽が静かに尋ねると、彼はぽつりと答えた。


「……水をくれ」

「はい。すぐにご用意します」


鈴羽はすぐに水を用意し、そっと差し出した。

流河の長い指がそのグラスを持ち、視線が再び彼女に向けられる。


「……君、この町の子じゃないな?」

「はい、違います」

「じゃあ、なぜこの町に?」

「……働きに来ました。いまは町のパン屋『大空』で働いています」

「家族も一緒に来たの?」


その問いに、鈴羽の表情が一瞬だけ揺れる。


「……妹と一緒に来ました」


――小豆蛍は、もう鈴羽にとって本当の妹のような存在だった。血のつながりはなくとも、心は深く通じている。

知り合って間もないのに、月島千紗よりもずっと親しい。


「……流河さま、足のケガはしっかり養生しないといけません。

おばあちゃんいわく、骨のケガは百日かけて治すものだって。

ご家族がわざわざここまで連れて来られたってことは、きっとあなたのことを本当に大切に思ってるんですよ。……どうか、焦らずに養生してくださいね」


しんと静まる部屋の中で――


「ふっ……」


低く、かすかな笑い声が漏れた。


「……僕を、大切に、か。

……そうかもしれないな。あいつら、僕を……愛しすぎて、死ねばいいと思ってるんだ」


静かな声だった。

鈴羽は息を飲んだが、それ以上何も聞かず、そっと話題を変えた。


「……流河さま、明日は何が食べたいですか?

また餃子にします? もしくはラーメンでも。私、麺類も得意なんですよ」


鈴羽がにっこりと笑うと、両頬には小さなえくぼが浮かぶ。


「……明日の朝、来られるか?」

「朝ですか……」


少しだけ、困った顔になる。


午前はパン屋の仕事があり、終わってからでないとこちらには来られない。

つまり、朝は本来仕事の時間外だ。


「朝は何にしましょう」


流河はしばらく黙っていたが、やがて小さく言った。


「……今日と同じのでいい。餃子。具材も同じで」

「わかりました。何時ごろお目覚めですか?」

「六時だけど……大丈夫か?」

「えっ……そんなに早く!?」


思わず驚いてしまう鈴羽に、流河は淡々と続ける。


「眠れないんだ。いつも四時台には目が覚めてる。でも……その時間じゃ、君も来られないだろう?」


彼の推察は正しかった。

こんな小さな町で通勤もバスなど必要ない。

ただ、大家さんから借りた古い自転車で移動している。


でも、四時はさすがに早すぎる。

街灯の少ないこの場所では、夜明け前の外出は少し怖い。


「……大丈夫です。明日の朝、六時ぴったりに朝食をお出しします。

絶対に食べてくださいね」


今日は、この数日間で一番気持ちよく働けた日だった。


たしかに途中は突き飛ばされたけれど――

最後にはフィエルに言われた任務をちゃんと達成できた。


……なんとかクビにならずにすんだ!


帰る前、鈴羽はどうしても一言伝えたくなって、フィエルに話しかけた。


「フィエルさん。流河さま、餃子を八個全部食べてくださいました」

「わかりました」


フィエルの返事は、やっぱり冷たい。

でも、いつも通り、その日の報酬はきちんと手渡してくれた。


ここの介護スタッフは勤務期間が短いため、フィエルは日払いで給料を渡しているのだ。

鈴羽はそれを受け取り、我慢できずすぐに中を確認する。


――やっぱり、チップがたっぷり入っていた。


流河さまは扱いづらいけれど、お金だけはしっかり払ってくれる。

任務を無事に終えた鈴羽は、鼻歌まじりに自転車をこいで、下宿先へと帰っていった。


「蛍ちゃん、今日どうだった? 院で何か学べた?」

「うん! いっぱい学べたよ!

修道院にはね、すごくきれいなピアノがあって、今はシスターメルしか弾けないんだけど……

蛍がちゃんと聖書を読めるようになったら、無料で教えてくれるんだって!」


「へぇ~ 皆さんやさしいん!」


鈴羽は笑顔でうなずき、封筒からお金を取り出した。


「はい、蛍ちゃんに。ご飯が合わなかったら、おやつでも買ってね。今日はチップまで入ってたから!」


そう言って、封筒から数枚を蛍に差し出す。


「……いらないよ!お姉ちゃん、お金稼ぐのすごく大変なんでしょ……?」

「いいの。私たち、これからきっともっと良くなるんだから」


鈴羽はにっこりと笑って、そのお金を蛍の手に押し込んだ。


「今度の土曜日、昼間はお休みだから、一緒にお洋服を買いに行こう?

いつも同じ服ばかりじゃ、服もかわいそう……」

「そんなの……いいよ……蛍、気にしてないもん……!」


蛍の目が少しだけ潤んだ。

十二歳――まだ子どもだというのに、いろんなことを分かっている。


たとえ学校に通っていなくても、心はちゃんと育っている。

彼女はかつて、「お母さんがいつか迎えに来てくれる」と夢見ていた。


でも現実は、母親はとっくに亡くなっていた。もう戻ってはこない。


そして、父親は――

ただのクズなギャンブラー。


暴力ばかりで、娘を金に替えることしか考えていなかった。

路上で浮浪者に襲われそうになったことも何度もあったけど、父親は見て見ぬふり。


――あの頃の彼女は、本当に無力だった。

「誰か助けて…」って、何度も願った。


……そして、その天使は現れた。


それは空から降ってきたわけじゃなくて、

ほんの少し年上の、きれいなお姉さん。


あの真っ暗で汚れた歓楽街で――

蛍は、人生を救ってくれる天使に出会ったのだ。


「もう、そんな泣きそうな顔しないの。外の女の子たち、みんな可愛い服着てたでしょ? 私たちも夏を楽しまなきゃ」


「お姉ちゃん……」


蛍の声は震えていた。


「さ、そろそろ寝よう。お姉ちゃん、明日も早起きしないといけないから。蛍ちゃんも、ちゃんとお勉強するんだよ」


「うん……がんばる。大きくなったら、ぜったいお姉ちゃんに恩返しする……」


蛍はすすり泣きながら、そっとそう言った。

その声は小さかったけれど、鈴羽の耳にははっきり届いていた。


「お姉ちゃん、恩返しなんていらないよ。助けたときに見返りを期待してたら、最初から手なんて伸ばしてないもん」


「じゃあ……どうして、助けてくれたの……?」


蛍は鈴羽の胸に顔をうずめ、ぎゅっと抱きしめた。


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