「……まだあるか?」
流河が、鈴羽をじっと見て問いかけた。
「いえ、今日はそれだけしか作ってなくて……
それに、流河さまは一日なにも召し上がっていませんから、いきなりたくさん食べると逆に胃に負担がかかります。
もし気に入っていただけたなら、明日またお作りしますね」
鈴羽は少しおそるおそる、相手の機嫌をうかがうように言った。
「……美味しかった」
男の目は、先ほどの狂気がすっかり消え、穏やかさすら感じられた。
「……よかったです……」
思わず、鈴羽も胸をなで下ろす。
「どうやって作った? うちのシェフもたまに餃子を出すが、あれは酷かった。ひと口で吐きたくなる」
鈴羽はふふっと少し笑って、口元をほころばせた。
「これは私の得意料理なんです!
昔、祖母に教わったんですよ。若い頃に中国に住んでいたこともあって、餃子のレシピは本格的なんです。
それに、焼き餃子って言っても、私は油を一滴も使ってません。だから重くならないし、あっさりしてて食べやすいんです。
新鮮な白菜の甘みと、豚肉の香りが合わさると、すごくいい風味が出て……
あとは私の特製ダレで仕上げて……って、語りすぎちゃいましたね」
ほんの少しドヤげな笑みを浮かべながら語る鈴羽を、流河はしばらく黙って見ていたが――
「……よくやった。何か欲しいものはあるか?」
「えっ……?」
予想もしない言葉に、鈴羽は目を瞬いた。
「ご褒美のことだ」
男が補足する。
「あ、いえっ。そんな……私はお仕事で来てるだけですから。
やるべきことをやっただけです。それに、十分すぎるほどのお給料もいただいてますし……」
たとえ生活が苦しくても、今ここで何かを欲しがってしまったら、自分の価値が下がるような気がした。
その答えに、流河はもう何も言わなかった。
「えっと……ベッドまでお連れしましょうか?もう遅いですし」
鈴羽が静かに尋ねると、彼はぽつりと答えた。
「……水をくれ」
「はい。すぐにご用意します」
鈴羽はすぐに水を用意し、そっと差し出した。
流河の長い指がそのグラスを持ち、視線が再び彼女に向けられる。
「……君、この町の子じゃないな?」
「はい、違います」
「じゃあ、なぜこの町に?」
「……働きに来ました。いまは町のパン屋『大空』で働いています」
「家族も一緒に来たの?」
その問いに、鈴羽の表情が一瞬だけ揺れる。
「……妹と一緒に来ました」
――小豆蛍は、もう鈴羽にとって本当の妹のような存在だった。血のつながりはなくとも、心は深く通じている。
知り合って間もないのに、月島千紗よりもずっと親しい。
「……流河さま、足のケガはしっかり養生しないといけません。
おばあちゃんいわく、骨のケガは百日かけて治すものだって。
ご家族がわざわざここまで連れて来られたってことは、きっとあなたのことを本当に大切に思ってるんですよ。……どうか、焦らずに養生してくださいね」
しんと静まる部屋の中で――
「ふっ……」
低く、かすかな笑い声が漏れた。
「……僕を、大切に、か。
……そうかもしれないな。あいつら、僕を……愛しすぎて、死ねばいいと思ってるんだ」
静かな声だった。
鈴羽は息を飲んだが、それ以上何も聞かず、そっと話題を変えた。
「……流河さま、明日は何が食べたいですか?
また餃子にします? もしくはラーメンでも。私、麺類も得意なんですよ」
鈴羽がにっこりと笑うと、両頬には小さなえくぼが浮かぶ。
「……明日の朝、来られるか?」
「朝ですか……」
少しだけ、困った顔になる。
午前はパン屋の仕事があり、終わってからでないとこちらには来られない。
つまり、朝は本来仕事の時間外だ。
「朝は何にしましょう」
流河はしばらく黙っていたが、やがて小さく言った。
「……今日と同じのでいい。餃子。具材も同じで」
「わかりました。何時ごろお目覚めですか?」
「六時だけど……大丈夫か?」
「えっ……そんなに早く!?」
思わず驚いてしまう鈴羽に、流河は淡々と続ける。
「眠れないんだ。いつも四時台には目が覚めてる。でも……その時間じゃ、君も来られないだろう?」
彼の推察は正しかった。
こんな小さな町で通勤もバスなど必要ない。
ただ、大家さんから借りた古い自転車で移動している。
でも、四時はさすがに早すぎる。
街灯の少ないこの場所では、夜明け前の外出は少し怖い。
「……大丈夫です。明日の朝、六時ぴったりに朝食をお出しします。
絶対に食べてくださいね」
今日は、この数日間で一番気持ちよく働けた日だった。
たしかに途中は突き飛ばされたけれど――
最後にはフィエルに言われた任務をちゃんと達成できた。
……なんとかクビにならずにすんだ!
帰る前、鈴羽はどうしても一言伝えたくなって、フィエルに話しかけた。
「フィエルさん。流河さま、餃子を八個全部食べてくださいました」
「わかりました」
フィエルの返事は、やっぱり冷たい。
でも、いつも通り、その日の報酬はきちんと手渡してくれた。
ここの介護スタッフは勤務期間が短いため、フィエルは日払いで給料を渡しているのだ。
鈴羽はそれを受け取り、我慢できずすぐに中を確認する。
――やっぱり、チップがたっぷり入っていた。
流河さまは扱いづらいけれど、お金だけはしっかり払ってくれる。
任務を無事に終えた鈴羽は、鼻歌まじりに自転車をこいで、下宿先へと帰っていった。
「蛍ちゃん、今日どうだった? 院で何か学べた?」
「うん! いっぱい学べたよ!
修道院にはね、すごくきれいなピアノがあって、今はシスターメルしか弾けないんだけど……
蛍がちゃんと聖書を読めるようになったら、無料で教えてくれるんだって!」
「へぇ~ 皆さんやさしいん!」
鈴羽は笑顔でうなずき、封筒からお金を取り出した。
「はい、蛍ちゃんに。ご飯が合わなかったら、おやつでも買ってね。今日はチップまで入ってたから!」
そう言って、封筒から数枚を蛍に差し出す。
「……いらないよ!お姉ちゃん、お金稼ぐのすごく大変なんでしょ……?」
「いいの。私たち、これからきっともっと良くなるんだから」
鈴羽はにっこりと笑って、そのお金を蛍の手に押し込んだ。
「今度の土曜日、昼間はお休みだから、一緒にお洋服を買いに行こう?
いつも同じ服ばかりじゃ、服もかわいそう……」
「そんなの……いいよ……蛍、気にしてないもん……!」
蛍の目が少しだけ潤んだ。
十二歳――まだ子どもだというのに、いろんなことを分かっている。
たとえ学校に通っていなくても、心はちゃんと育っている。
彼女はかつて、「お母さんがいつか迎えに来てくれる」と夢見ていた。
でも現実は、母親はとっくに亡くなっていた。もう戻ってはこない。
そして、父親は――
ただのクズなギャンブラー。
暴力ばかりで、娘を金に替えることしか考えていなかった。
路上で浮浪者に襲われそうになったことも何度もあったけど、父親は見て見ぬふり。
――あの頃の彼女は、本当に無力だった。
「誰か助けて…」って、何度も願った。
……そして、その天使は現れた。
それは空から降ってきたわけじゃなくて、
ほんの少し年上の、きれいなお姉さん。
あの真っ暗で汚れた歓楽街で――
蛍は、人生を救ってくれる天使に出会ったのだ。
「もう、そんな泣きそうな顔しないの。外の女の子たち、みんな可愛い服着てたでしょ? 私たちも夏を楽しまなきゃ」
「お姉ちゃん……」
蛍の声は震えていた。
「さ、そろそろ寝よう。お姉ちゃん、明日も早起きしないといけないから。蛍ちゃんも、ちゃんとお勉強するんだよ」
「うん……がんばる。大きくなったら、ぜったいお姉ちゃんに恩返しする……」
蛍はすすり泣きながら、そっとそう言った。
その声は小さかったけれど、鈴羽の耳にははっきり届いていた。
「お姉ちゃん、恩返しなんていらないよ。助けたときに見返りを期待してたら、最初から手なんて伸ばしてないもん」
「じゃあ……どうして、助けてくれたの……?」
蛍は鈴羽の胸に顔をうずめ、ぎゅっと抱きしめた。