「……だって、蛍ちゃんはね、私の子どもの頃にそっくりだったの。
――だから、私が救ったのはもしかしたら“昔の自分” 、かもしれないね」
鈴羽は、蛍の小さな背を抱きしめながら、一語一語をゆっくりと噛みしめるように語った。
その言葉の意味は深く、今の蛍にはまだ理解できない。
けれど、何年も先――
彼女がこの言葉を思い出すたびに、涙が止まらなくなるほど心に沁みるのだった。
自分の世界は、あちこち破れてボロボロで。
けれど、どこかの誰かが、その破れ目を縫ってくれている。
深夜、刹淵組本部――。
平吾が、一人の男を連れてきた。
男は全身傷だらけで、顔も腫れあがり、誰が見ても酷い有様だった。
「若様、奴を連れてきました」
黒いシャツのボタンを開けたまま、刹夜はソファに深くもたれかかり、目を閉じていた。
平吾の声を聞いた刹夜は、ゆっくりと目を開ける。
その瞳は美しい。
だが、冷たい刃のように鋭く、静かに相手を切り裂く光を宿していた。
――彼と五秒以上目を合わせられる者など、ほとんどいない。
「若……! お願いです、殺さないでください!
借金は……借金は必ず返しますから! 命だけは……!」
男は震えながら土下座し、何度も何度も頭を床に打ち付ける。
「……お前、小豆蛍の父親か?」と刹夜が低く問いかけた。
男の体がビクリと震える。
「は……はいっ、蛍は……俺の娘です」
「今、あいつがどこにいるか知ってるか?」
「……知らねぇです。もう何年も前に逃げちまったきりで……。
あのクソガキ、見つけたら俺がぶっ殺してやる」
その言葉は父親のものとは思えないほど、憎悪に満ちていた。
「……連絡は?」
「ないです! 若、もしかして……あいつ、何かやらかしました?
盗みでもしたなら、どうぞぶっ殺してください! あんなの、生まれたこと自体間違いなんだ!」
「……もういい、消えろ。もし彼女から連絡があったら、すぐに俺に知らせろ」
「は、はいっ、もちろんでございます!」
男は刹夜がなぜ自分の娘を探しているのか分からなかったが、余計な詮索はしなかった。
きっと若頭の大切なものを盗んだのだろう、と内心で勝手に推測する。
部屋を出る直前、男は平吾に媚びを売るように声をかけた。
「あの、黒岩さん……やっぱあのクソガキ、何か若の大事なもんを盗んだんですか?」
平吾はしばし黙ったあと、小さく頷いた。
ある意味では、そうかもしれない。
あのガキは――若様の“女”を連れ去ったのだから。
それも、ただの女じゃない。
彼女が消えて以来、刹夜の機嫌は誰の目にも明らかに荒れていた。
今の刹淵組では、誰もが彼の地雷を踏まぬよう、息をひそめている。
「クソガキめ……! 見つけたら、鎖で繋いででも若に渡してやる……若のためなら、俺はなんだってやるさ!」
「……うるせぇ、さっさと消えろ」
平吾も苛立っていた。
刹夜に与えられた猶予はあと一ヶ月――
だというのに、いまだにあの女の影すら掴めない。
あの女はまるでこの世から消えたかのように、どこにも痕跡がなかった。
今どき、あらゆる情報がデータ化されているにも関わらず、
ホテル、ショッピングモール、レストラン、空港——どこを探しても、その女の記録は見つからない。
田舎の祖母のもとにも見張りをつけているが、一度も連絡はなかった。
きっと、本気で若様から逃げるつもりなのだろう――。
翌日――
千紗は再び媚薬を用いて、“刹夜”の腕の中で甘く満ち足りた夜を過ごした。
心は春の花のように満開で、上機嫌だった。
だが、彼女には一つの問題があった。
薬の残りが、もうほとんどない。
次回分すら足りないほどに。
もう一度、和枝に頼るしかない――
とはいえ、世話になって手ぶらで行くのも気が引ける。
今や千紗は裕福な身分。
豪華な家に住み、運転手付きの車で移動し、刹夜のブラックカードで買い物三昧。
彼女は運転手に命じて店へ向かい、二十万円を超えるバッグを購入した。
和枝は、刹夜の父の愛人。
水穂のような正妻とは立場が異なる。
そこまで贅沢に尽くす必要もないが、手土産としてはこれで十分だった。
そして、月島千紗は和枝をイタリアンレストランに招待した。
「和枝さん。今日のためにささやかなものを選んできました。よろしければ、どうぞ」
そう言って、品の良い紙袋を差し出す。
和枝はチラリと見ただけで、にっこりと微笑んだ。
「まぁ……こんなに丁寧にしてくださって。どうしたの? 月島さん、何か良いことでも?」
「……はい、実は……ようやく願いが叶ったんです。全部、和枝さんのおかげです」
「あら? もしかして……赤ちゃんができたの?」
「いえ、まだですが……もうすぐだと思います」
千紗は自信満々だった。
「ふふ、その薬、効いたでしょう?」
和枝はにやりと笑う。
「はい、本当に……すごかったです。ありがとうございます」
言葉は控えめだが、なんのことかすぐ分かる。
和枝は軽く笑みを浮かべるだけだったが、その目は観察者のそれだった。
「ところで……和枝さん、あの薬……まだありますか?
もしよければ、分けていただけないでしょうか。もちろん、お代は払います」
この時、和枝はようやく今日の招待の目的に気づいた。
――ふふ、やっぱりね。
「あるわよ。でもお金なんていらないわ。家族みたいなものなんだから、遠慮しないで。
刹夜さんの子を授かれば、あなたも九条家の一員。そのときは“お義母さん”って呼んでくれたら嬉しいわね」
――まさに、甘い夢を描かせる餌だった。
月島千紗はその言葉にすっかり有頂天。
すでに心の中では九条刹夜の正妻の座に座っていた。
「ありがとうございます、和枝さん!ですが、さすがにタダでは申し訳ないので……こちら、お茶代にでも」
そう言って、彼女は封筒に入れた十万円をそっと差し出した。
カード履歴を残さないため、現金で。
和枝はそれを自然な仕草で受け取った。
――大した額ではないが、信頼関係の演出にはちょうどいい。
そして、バッグも受け取り、満足げに笑った。
「じゃあせっかくだし、いただくわね。ちょうど今日、バッグに一本だけ薬を入れてきたの。まずはそれを使ってみて。なくなったらまたいつでも声をかけて」
「はいっ、ありがとうございます!」
千紗は目を輝かせながら、小瓶を抱きしめるように受け取った。
しかし――
そのわずか数時間後。
和枝はある人物と密会していた。
――それは、徳川花怜。
場所は、都内の高級茶室――人目を避けられる、完全個室。
「……和枝さん? 今日はどういったご用件で?」
花怜は内心この“妾”のような女を見下していた。
自分こそが正妻、水穂のように高貴な血筋。
和枝のような安っぽい愛人とは格が違う――そう思っていた。
「花怜さん、今日お時間いただいたのは……ちょっと、重要なお話がありまして……。
どうか、最後まで聞いてください。そして、このことは……くれぐれも内密に」
もったいぶるように言葉を続ける。
「一体何なんですか」
「例の“屋敷の女”、刹夜さんが大事にしている彼女……今、妊娠を望んでいるみたいで、近いうちに妊娠の噂が出るかもしれないって……」
「……は?」
花怜の顔色が、みるみるうちに変わった。
「な、何ですって……あの女が……!?刹夜は……そのこと、知ってるの?」
声が震え、唇が引きつる。
和枝はあえて、少し声を落とした。
「どうでしょうね。でも……同意の上じゃないかと私は思ってます。
だって、彼女のこと……本当に愛してるみたいですもの。もう一年以上もずっと一緒に暮らしてるのに、毎晩のように帰ってきて、一日たりとも離れないって話ですよし……」
――その言葉を聞いた瞬間、
ガタッ――!
花怜は激昂し、目の前の茶卓をひっくり返した。