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第45話 関係を揺さぶる


「……だって、蛍ちゃんはね、私の子どもの頃にそっくりだったの。

――だから、私が救ったのはもしかしたら“昔の自分” 、かもしれないね」


鈴羽は、蛍の小さな背を抱きしめながら、一語一語をゆっくりと噛みしめるように語った。


その言葉の意味は深く、今の蛍にはまだ理解できない。


けれど、何年も先――

彼女がこの言葉を思い出すたびに、涙が止まらなくなるほど心に沁みるのだった。


自分の世界は、あちこち破れてボロボロで。

けれど、どこかの誰かが、その破れ目を縫ってくれている。



深夜、刹淵組本部――。


平吾が、一人の男を連れてきた。

男は全身傷だらけで、顔も腫れあがり、誰が見ても酷い有様だった。


「若様、奴を連れてきました」


黒いシャツのボタンを開けたまま、刹夜はソファに深くもたれかかり、目を閉じていた。


平吾の声を聞いた刹夜は、ゆっくりと目を開ける。

その瞳は美しい。

だが、冷たい刃のように鋭く、静かに相手を切り裂く光を宿していた。


――彼と五秒以上目を合わせられる者など、ほとんどいない。


「若……! お願いです、殺さないでください!

借金は……借金は必ず返しますから! 命だけは……!」


男は震えながら土下座し、何度も何度も頭を床に打ち付ける。


「……お前、小豆蛍の父親か?」と刹夜が低く問いかけた。


男の体がビクリと震える。


「は……はいっ、蛍は……俺の娘です」

「今、あいつがどこにいるか知ってるか?」

「……知らねぇです。もう何年も前に逃げちまったきりで……。

あのクソガキ、見つけたら俺がぶっ殺してやる」


その言葉は父親のものとは思えないほど、憎悪に満ちていた。


「……連絡は?」

「ないです! 若、もしかして……あいつ、何かやらかしました?

盗みでもしたなら、どうぞぶっ殺してください! あんなの、生まれたこと自体間違いなんだ!」


「……もういい、消えろ。もし彼女から連絡があったら、すぐに俺に知らせろ」

「は、はいっ、もちろんでございます!」


男は刹夜がなぜ自分の娘を探しているのか分からなかったが、余計な詮索はしなかった。

きっと若頭の大切なものを盗んだのだろう、と内心で勝手に推測する。


部屋を出る直前、男は平吾に媚びを売るように声をかけた。


「あの、黒岩さん……やっぱあのクソガキ、何か若の大事なもんを盗んだんですか?」


平吾はしばし黙ったあと、小さく頷いた。


ある意味では、そうかもしれない。

あのガキは――若様の“女”を連れ去ったのだから。


それも、ただの女じゃない。

彼女が消えて以来、刹夜の機嫌は誰の目にも明らかに荒れていた。

今の刹淵組では、誰もが彼の地雷を踏まぬよう、息をひそめている。


「クソガキめ……! 見つけたら、鎖で繋いででも若に渡してやる……若のためなら、俺はなんだってやるさ!」

「……うるせぇ、さっさと消えろ」


平吾も苛立っていた。


刹夜に与えられた猶予はあと一ヶ月――

だというのに、いまだにあの女の影すら掴めない。


あの女はまるでこの世から消えたかのように、どこにも痕跡がなかった。


今どき、あらゆる情報がデータ化されているにも関わらず、

ホテル、ショッピングモール、レストラン、空港——どこを探しても、その女の記録は見つからない。


田舎の祖母のもとにも見張りをつけているが、一度も連絡はなかった。

きっと、本気で若様から逃げるつもりなのだろう――。



翌日――

千紗は再び媚薬を用いて、“刹夜”の腕の中で甘く満ち足りた夜を過ごした。

心は春の花のように満開で、上機嫌だった。


だが、彼女には一つの問題があった。

薬の残りが、もうほとんどない。

次回分すら足りないほどに。


もう一度、和枝に頼るしかない――

とはいえ、世話になって手ぶらで行くのも気が引ける。


今や千紗は裕福な身分。

豪華な家に住み、運転手付きの車で移動し、刹夜のブラックカードで買い物三昧。


彼女は運転手に命じて店へ向かい、二十万円を超えるバッグを購入した。


和枝は、刹夜の父の愛人。

水穂のような正妻とは立場が異なる。


そこまで贅沢に尽くす必要もないが、手土産としてはこれで十分だった。

そして、月島千紗は和枝をイタリアンレストランに招待した。


「和枝さん。今日のためにささやかなものを選んできました。よろしければ、どうぞ」


そう言って、品の良い紙袋を差し出す。

和枝はチラリと見ただけで、にっこりと微笑んだ。


「まぁ……こんなに丁寧にしてくださって。どうしたの? 月島さん、何か良いことでも?」


「……はい、実は……ようやく願いが叶ったんです。全部、和枝さんのおかげです」


「あら? もしかして……赤ちゃんができたの?」

「いえ、まだですが……もうすぐだと思います」


千紗は自信満々だった。


「ふふ、その薬、効いたでしょう?」


和枝はにやりと笑う。


「はい、本当に……すごかったです。ありがとうございます」


言葉は控えめだが、なんのことかすぐ分かる。

和枝は軽く笑みを浮かべるだけだったが、その目は観察者のそれだった。


「ところで……和枝さん、あの薬……まだありますか?

もしよければ、分けていただけないでしょうか。もちろん、お代は払います」


この時、和枝はようやく今日の招待の目的に気づいた。

――ふふ、やっぱりね。


「あるわよ。でもお金なんていらないわ。家族みたいなものなんだから、遠慮しないで。

刹夜さんの子を授かれば、あなたも九条家の一員。そのときは“お義母さん”って呼んでくれたら嬉しいわね」


――まさに、甘い夢を描かせる餌だった。


月島千紗はその言葉にすっかり有頂天。

すでに心の中では九条刹夜の正妻の座に座っていた。


「ありがとうございます、和枝さん!ですが、さすがにタダでは申し訳ないので……こちら、お茶代にでも」


そう言って、彼女は封筒に入れた十万円をそっと差し出した。

カード履歴を残さないため、現金で。


和枝はそれを自然な仕草で受け取った。

――大した額ではないが、信頼関係の演出にはちょうどいい。


そして、バッグも受け取り、満足げに笑った。


「じゃあせっかくだし、いただくわね。ちょうど今日、バッグに一本だけ薬を入れてきたの。まずはそれを使ってみて。なくなったらまたいつでも声をかけて」


「はいっ、ありがとうございます!」


千紗は目を輝かせながら、小瓶を抱きしめるように受け取った。



しかし――

そのわずか数時間後。


和枝はある人物と密会していた。

――それは、徳川花怜。


場所は、都内の高級茶室――人目を避けられる、完全個室。


「……和枝さん? 今日はどういったご用件で?」


花怜は内心この“妾”のような女を見下していた。


自分こそが正妻、水穂のように高貴な血筋。

和枝のような安っぽい愛人とは格が違う――そう思っていた。


「花怜さん、今日お時間いただいたのは……ちょっと、重要なお話がありまして……。

 どうか、最後まで聞いてください。そして、このことは……くれぐれも内密に」


もったいぶるように言葉を続ける。


「一体何なんですか」

「例の“屋敷の女”、刹夜さんが大事にしている彼女……今、妊娠を望んでいるみたいで、近いうちに妊娠の噂が出るかもしれないって……」


「……は?」


花怜の顔色が、みるみるうちに変わった。


「な、何ですって……あの女が……!?刹夜は……そのこと、知ってるの?」


声が震え、唇が引きつる。

和枝はあえて、少し声を落とした。


「どうでしょうね。でも……同意の上じゃないかと私は思ってます。

 だって、彼女のこと……本当に愛してるみたいですもの。もう一年以上もずっと一緒に暮らしてるのに、毎晩のように帰ってきて、一日たりとも離れないって話ですよし……」


――その言葉を聞いた瞬間、


ガタッ――!


花怜は激昂し、目の前の茶卓をひっくり返した。


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