「花怜さん、まずは落ち着いてください。ご気分を損ねても、何の得にもなりませんわ。
私が思うに……たとえあの子が子どもを産んだとしても、あなたの立場が揺らぐことはありませんよ。いずれ刹夜さんと結婚なさるのはあなたですもの。
その子どもだって、あなたが引き取って育ててあげればいいんじゃありませんか」
そう言った和枝に、花怜の顔はみるみる青ざめていく。
「はぁっ!? あの女の腹から這い出てくるような汚らわしいガキを私が育てるですって!?
ふざけないでよ!そんなもん育てるくらいなら、野良犬でも拾って飼ったほうがマシよ!
いい!? 刹夜の子を産めるのは、この私だけよ!あの安っぽい女なんかに渡すものか……っ!」
烈火の如く怒り狂った花怜は、そのまま苛立ちを残してその場を立ち去った。
和枝はその後ろ姿を見送りながら――
にんまりと口元を吊り上げた。
これでいいのだ。
狙いはそこにある。
花怜を焚きつけ、九条刹夜の周囲を混乱させる。
混乱が続けば、あの男――九条貴司も刹夜に不信を抱くようになる。
そうなれば、自分の息子が九条家に返り咲くチャンスも生まれるというもの。
表では笑顔の和枝だが、腹の中には真っ黒な野望が渦巻いていた。
*
花怜が帰宅したときも、その怒りは冷めていなかった。
胸の奥に渦巻くのは、嫌悪と不安――そして、止めどない憎しみ。
あの女が本当に妊娠していたら……と思うだけで吐き気がする。
ちょうどその頃、父・徳川一成が外出先から戻ってきた。
リビングのソファに、うなだれて座っている娘の姿。
赤く腫れた目元に気づいた一成はすぐさま歩み寄る。
「花怜?どうしたんだ、そんな顔をして……」
「うるさい……放っておいて……」
花怜は鼻をすすりながらつぶやいた。
「……誰だ、うちの花怜を泣かせたのは?言ってごらん、パパが全部どうにかしてあげるから」
その言葉を聞いた瞬間、花怜は堪えきれなくなって、父の胸に飛び込んで泣き出した。
「パパ……! 私、他の女に……刹夜の子どもなんか、産んでほしくないのっ……!」
徳川氏は一瞬驚いたが、優しく娘の頭を撫でる。
「どうしてそう思うんだ?妊娠した情報でも……?」
「確証は……ない。けど、たぶん……あの女、もうすぐ妊娠すると思う。
安い女のくせに、男を惑わすことだけは得意で……。
刹夜も、最近は私に冷たくて……食事すら一緒にしてくれないのに、毎晩毎晩、あの女の元には帰ってるのよ!
なんで……!?あんな女のどこがいいの!?
顔も平凡、服のセンスもゼロ……大学もFランクよ!?私は名門校を卒業したのにっ……
なのに……刹夜様は、あの女を……っ。
もし子供なんか産まれたら……私は完全に忘れられてしまう……」
悔しさと怒り、愛と劣等感――
さまざまな感情が入り混じり、花怜は嗚咽を漏らしながら全てを吐き出した。
徳川氏は黙って話を聞き、静かにティッシュを取って娘の涙を拭った。
「……心配いらないさ、花怜。
あの女に子供を産ませることなど――絶対にさせない。
パパがいる限り、君は何も奪われたりしない。
刹夜との結婚も、私が進めておこう。できるだけ早く……来月中には、婚約を発表できるようにな」
「……ほんとう……?」
花怜は驚いたように父を見上げる。
「パパが今まで嘘をついたことがあるか?君が欲しいものなら、どんな手を使ってでも手に入れてやるさ」
「……でも……刹夜、納得してくれるかな……?」
「心配するな。九条家は我が徳川家の力を必要としている。
何より――刹夜の父親も、政界への進出を狙っている。そのためには、私の後押しが不可欠だからな」
「ふふっ……やっぱりパパが一番、頼りになる」
花怜の気分は一気に晴れやかになった。
父の約束があれば、もうすぐ大好きな人と婚約できる――そう思うと、食欲も戻ってきた。
腹ごしらえも終えた花怜は、再び海外にいる親友に電話をかけた。
親友は新しいアドバイスをくれた――
「誰かと手を組めばいいんじゃね?」
そう。独りで戦う必要なんてない。
味方を増やし、あの女を囲んで締め上げればいいのだ。
叩き潰すための材料なら、いくらでもある。
そうだ……最近、刹夜とスキャンダルになった歌手――星宮恋夏。
あの女を利用して、月島千紗とかいう女に思い知らせてやればいい。
そうして、花怜が経営するジュエリーブランドが突如発表したのは――
台湾で活躍している人気歌手・星宮恋夏を新たなイメージモデルに起用という驚きのニュースだった。
俳優ではなく、歌手を?
しかも恋夏は、業界でトップというわけではない。
その意外性に、世間はざわめいた。
だが――
当の本人である星宮恋夏は、むしろ歓喜していた。
「ねえ、これって……九条さまの意向だったりするのかな?」
と、控室でマネージャーに囁く。
「え?この会社って九条さんの系列でしたっけ?」
「わからないけど……でも、刹淵組と同じ都市にあるし、もしかしてって思って!」
嬉しそうに微笑む恋夏に、マネージャーもつられて声を弾ませた。
「可能性はゼロじゃありませんね。それなら、このチャンス……絶対に逃さないようにしましょう、星宮さん!
九条家って、東アジアでも指折りの資産家です。もし彼と親密になれたら、あなたのキャリアも一気に上がりますよ!」
とマネージャーも彼女を励ました。
星宮は期待に胸を膨らませ、ジュエリーのイベントで刹夜に直接お礼を言うチャンスを狙っていた。
一方その頃――
鈴羽は久しぶりの休日を利用して、蛍と一緒に街へ出ていた。
蛍には洋服を三着、自分には一着だけ。それも一番安いやつ。
街を歩き回ったあと、蛍の憧れだったマッ◯へ。
やっぱり子どもはハンバーガーが大好きだ。
「おいし〜〜!ハンバーガーって、こんなにふわふわなの!?」
無邪気に笑う蛍を見て、鈴羽は心から思った。
――この笑顔を守るためなら、どんなことだってできる。
「蛍ちゃん……お父さんのこと、会いたかったりしない? こんなに長く出てきてるし、電話くらいは……」
言った瞬間、蛍の顔色がサッと変わる。
「……お姉ちゃん、なんでそんな人の話するの……? 会いたくないよ。というか、居なくなればいいのに」
吐き捨てるような声音だった。
「でも……一応、血が繋がってるし……蛍ちゃん、もしかしたら心配してるのかなって……」
そう言いかけた鈴羽を、蛍は真っ直ぐな目で遮った。
「絶対にない!あの男は、人間の皮を被った化け物なんだもん。
お姉ちゃんも、そんなこと考えちゃだめだよ、危ないから!
いい?一度でもあいつに見つかったら、私たち売られるの。お姉ちゃんだって、危険に巻き込まれる」
鈴羽は息を呑んだ。
自分は、どれだけ甘かったのだろう。
守っていたつもりが、守られていたのは自分の方だった。
「……うん。わかった。もう言わない、ごめんね」
「私にはお姉ちゃんしかいないんだ。ずっと、ふたりで生きていけたらいいの……!」
蛍は最近、ようやく安心して暮らせる日々を手に入れた。
このままずっと、鈴羽と静かな町で暮らしていきたい――そう願うようになっていた。
辛い思いも、もう二度としたくない。
「そうだね。二人で幸せになろう」と鈴羽も頷いた。
そのとき――
ポケットの中のスマホが不穏に震えた。
画面には、あの名――「フィエル」の文字。
「坊ちゃまが、今すぐ別荘に来るようにと仰ってます」
フィエルの声はいつも通り冷静だった。
「え? 夜からじゃなかったんですか…? 通常の勤務時間外ですけど……」
「坊ちゃまのご命令です。追加報酬も出ます」
「で、ですが今は……」
『鈴羽、今すぐこい』
電話を奪った流河の声――低く、命令のように鋭い。