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第74話 嫉妬の渦


「……あァ? なにぼーっとしてる。さっさと行け」

「は、はっ!」


平吾は刹夜の命令を受け、慌ただしくその場を離れていった。



一方その頃――

月島千紗は、川崎と密かに会っていた。


会うというより、密かに逢瀬を重ねる関係――つまり、“浮気”である。


川崎はというと、千紗から受け取った金で働かずとも食うには困らない生活を送っていた。


朝から晩までゲーム三昧。

食事はほとんどウーバー。


唯一の「運動」は、千紗との情事くらいだった。


何年も体を重ねてきたふたり。

互いの身体のすみずみまで知り尽くしている。


川崎は体力もあり、色々と工夫もしている。

千紗の弱点を熟知しており、その気にさせることなど朝飯前だった。


千紗は口では「ヒモ」「クズ」と罵るが、

快楽の最中には、そんなことはすべてどうでもよくなる。


「ふーん。俺って、ヒモでクズ男だったっけ?」


川崎は千紗をベッドに押し倒し、耳元で囁く。


「ち、違うッ……。私の……一番好きな男よ……ッッ」


千紗は息を乱し、か細い声で甘く応じた。


それから一時間後。

ふたりの悦楽がひと段落ついたあと――

千紗は、疲れたようにタバコに火をつけた。


――この行為は、九条刹夜の前では絶対にできない。

他人の吐いたタバコの匂いが嫌いだから。


家でこっそり吸っても、すぐにバレてしまう。

だから、こうして外でこそこそ吸うしかなかった。


「……ほんっと、やってらんないな」


白い煙を吐きながら、千紗はポツリとこぼした。


「どした?」


川崎は彼女の肩を抱き寄せ、頬にキスを落とす。


「刹夜の周りに女が増えすぎてるのよ。帰りも遅いし……。とくにあの歌手……図々しいにもほどがあるわ。ケーキまで作って、あざとすぎ」


川崎は肩をすくめる。


「そんなことでイライラすんなって。あんな立場の男、女が何人いたって普通だろ? 俺らみたいな庶民は女ひとりで十分だけどさ」


「……だから困ってんのよ」


千紗の声は低く、鋭さを帯びていた。


「女が増えれば、私の取り分が減るの。刹夜が私を気にかけてるから今の私があるのよ。

 でも、もしその気持ちが他の女に向いたら――

 お金も、立場も、何もかも失う」


川崎は軽く笑う。


「だったら、俺んとこに戻ってくりゃいいじゃん。そしたらまた昔みたいにさ――」

「……ふざけないで」


千紗は鋭い眼差しで川崎を睨んだ。


「九条刹夜がライオンだったら、あんたなんて野良犬よ。一度ライオンを知った女が、野良犬に戻れると思う?」


彼女は立ち上がり、バスローブを羽織りながら続ける。


「私はね、もう昔の月島千紗じゃないの。

 九条家の女になる。 九条刹夜の正式な“妻”になるの」


彼女もまた、名誉と権力を求めていた。

水穂みたいに……

いや、さすがに水穂ほどじゃなくても、和枝程度にはなりたい。


とにかく、九条家の本家に住み、刹淵組の人間に認められたい。

そしてできれば、九条刹夜の子どももたくさん産みたい。


今の千紗は、金を紙のように使う暮らしにどっぷり浸かっている。


運転手付きの車に乗り、ブランド品を纏う。

ヤクザの幹部ですら頭を下げる存在。


こんな特別扱い、川崎には一生与えられない。

もう、後戻りなんてできない。


「……九条家の奥さまなんて、そんな簡単になれるわけないだろ」


川崎がぽつりと呟いた。


「分かってる。だから、あんたが必要なの」

「……は?」


「私の邪魔をする女たちを、ちょっと引かせてほしいのよ。

たとえば――あの歌手とか。軽く脅して、二度と刹夜に近づけないようにして」


「え、それって……犯罪じゃねぇか?」


川崎はさすがに戸惑う。


「大げさね。ただちょびっと脅かすだけよ。何ビビってんの?」


千紗はそう言って、バッグから厚めの札束――

ドル紙幣を取り出すと、川崎の胸に押し当てた。


「ほい、これ。タダ働きはさせないわ。……あの女が刹夜にまとわりつくの、もう見てられないのよ」


「……わーったよ。やってみる」


川崎は黙って金を受け取り、タバコの煙の中で目を細めた。



千紗が部屋を出た後、川崎はすぐに行動を開始した。


星宮恋夏――

台湾ではそれなりに名の知れた芸能人だったが、

ここ日本では、まだ“ニュースに時折登場する若手歌手”程度の認知度しかない。


そのため、警備も甘く、身近にいるのはマネージャー一人。

専属のボディガードなどついていなかった。


現在彼女が滞在しているのは、徳川花怜のジュエリー会社近くにある高級ホテル。

花怜と親しくなってから、彼女はそのホテルを拠点にしていた。


その日――

星宮がエレベーターを降り、ロビーへ向かおうとした瞬間。

背後から、突然誰かに腕を掴まれ、非常階段の奥へと強引に引きずり込まれた。


マネージャーはまだ1階で待っていた。

叫ぶ暇も、助けを呼ぶ時間もなかった。


「だ……だれ!? な、何のつもりよ!!」


恐怖で声が裏返る。

星宮は過去に誘拐された経験があり、それ以来、突然の接触には強い恐怖反応を示す。


相手は黒いキャップにマスク姿。顔のほとんどは隠されている。

男はおもむろにナイフを取り出し、彼女の腰元へ押し当てた。


「……伝言だ。九条刹夜に近づくな。これ以上まとわりつくと――命の保証はできない」


「……だ、誰の……伝言?」


震える声で尋ねる恋夏。


「詮索は無用だ。あの男は、お前みたいな芸能界の安い女が関わっていい人間じゃねぇ。……分かったら、さっさと台湾に帰れ」


その瞬間、廊下の方から足音が近づいてくる。


「た、助けてっ!! 誰か――っ!!」


星宮が叫んだ瞬間、男は舌打ちしながら手を放し、その場から逃げ出した。



ロビーを飛び出し、車にたどり着いた星宮恋夏は、蒼白な顔で震えていた。


「ど、どうしたんですか!? 星宮さん!」


駆け寄ってきたマネージャーに、彼女は怯えながら事の顛末を語る。

話を聞いたマネージャーは顔をしかめ、ぽつりと漏らした。


「そんなん……もしかして、徳川さんの仕業じゃないでしょうか? 昨日のケーキのニュース、見てたのかもしれませんし……」


マネージャーの推測に、星宮は首を横に振る。


「いえ。絶対に徳川さまじゃありません」


花怜は、ほんの数日前「刹夜を誘惑してもいい」と許可をくれたばかりだ。

今さらこんな手を使ってくるはずがない。


きっと、九条刹夜の他の女だろう。


――あの、九条刹夜の“本命”と噂される女。


星宮も、その存在を噂で聞いたことがある。

屋敷に一年以上も匿われ、夜ごと彼が会いに行く特別な存在。


(――絶対、あの女の仕業だ)


そんな確信が、星宮の中で静かに膨らんでいく。


「……どうしましょう……」


マネージャーが不安そうに尋ねる。


恋夏は唇を噛みしめ、はっきりと答えた。


「――とにかく、徳川さまに相談します」


徳川花怜と手を組まなければ、あの女には勝てない――。



徳川花怜のジュエリーブランド本社――


応接室で向かい合うふたり。

星宮恋夏は、震える手でカップを握りしめながら、今日の出来事を語った。


その内容を聞き終えた瞬間、花怜は椅子から身を乗り出し、声を荒げた。


「――なんですって!? あの女、よくもそんな真似を……!

自分が何様のつもりなの!? 刹夜の婚約者は私よ? いったいどんな立場で、あなたを脅すなんてことができるのよ!?」


「ただ……証拠はないから、断定はできませんけど……」


と恋夏は慎重な口ぶりで補足する。

だが花怜は、即座に切り捨てた。


「絶対あの女に違いないわ。刹夜に甘やかされて、調子乗ってんだから」


花怜は顔を紅潮させて怒りを露わにした。


「徳川さま……これから私はどうすればいいでしょうか? やはりしばらく九条さまに近づかない方がいいのでしょうか……」


おずおずと尋ねる星宮に、花怜はきっぱりと答えた。


「――そんな必要ないわ。むしろ、今まで以上に堂々と近づいてちょうだい。

 あの女なんて、権力も後ろ盾もない、ただの庶民。脅しなんて、所詮ハッタリよ」


花怜は唇の端を冷たく吊り上げて笑った。



同日・九条家本邸――

徳川花怜は父とともに、昼食会のため九条家を訪れていた。


由緒ある大広間。重厚な調度に囲まれたテーブルには、親族や重役たちが揃い、格式ある空気が漂っている。


その席で、花怜は突然話を切り出した。


「刹夜、少し言わせてもらうけど。あなた、あの月島さんって女、ちゃんと管理した方がいいわよ?


 今日、彼女が人を雇って、星宮さんをナイフで脅したのよ。

 あの子、今や私のブランドのものなのに、信じられないわ。 私に対する明確な敵意に違いない。


 私、前から言ってたでしょう? あの女、見た目はおとなしいけど、中身は全然違うの。


 裏ではナイフを使って脅迫……。そんな人間が、九条家の名を背負うに相応しいと思う?」


花怜の言葉に、周囲の視線が刹夜に集まった。

しかし、刹夜本人は表情を崩さない。


「……それ、本当なのか?」


九条家の当主――刹夜の父・九条貴司が、低い声音で問いかけた。

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