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第73話 口移し


――蛍ちゃんに会いたい。

その一心で、鈴羽は覚悟を決めた。


けれど、

予想に反して、九条刹夜はまったく協力的ではなかった。


唇を固く閉じたまま、受け入れる気ゼロといった態度。


でも、ここで引き下がるわけにはいかない。

こんなときこそ、ちょっとしたテクニックが必要だ。


これまでに何度も、彼とそういう関係になってきた。


だからこそ、わかっている。

どんな風に彼の心をくすぐれば、受け入れてもらえるのかを――。


彼女はそっと舌先を動かし、刹夜の唇をやさしく押し開いた。

そのまま、口移しで温かい牛乳を渡す。

滑らかで、自然な動き。


刹夜は、最初はただ、鈴羽のぎこちない動きをからかうつもりだった。

しかし、そのキスひとつで、火がついてしまった。

ずっと我慢していた欲望が、堰を切ったようにあふれ出す。


彼女が戻ってきてからというもの、妊娠中の身体を気遣い、手を出すことはなかった。

けれど今、この瞬間――どうしようもなく、彼女を欲している自分がいた。


驚く鈴羽を無視し、彼は一気に主導権を握る。

彼女の身体をテーブルに押し倒し、貪るようにその香りを味わいはじめた――


「なっ……!?刹夜さん、やめ……っ」


我に返った鈴羽は、必死に抵抗しようとする。

けれど、刹夜は彼女の耳元に顔を寄せ、低く囁いた。


「……安心しろ。本気で最後まではしない。ただ、少しだけ我慢できなくなっただけだ」


そう言いながら、首筋から鎖骨へと唇を這わせていく。


これだけ長く禁欲を強いられたのだ。

少しくらい――“利子”をもらっても、罰は当たらないだろう。


鈴羽の身体がびくりと震える。

ぞくぞくとした刺激が、背筋を駆け抜けた。

抵抗したい気持ちと、もっと深く味わってみたい気持ちが入り混じる。


九条刹夜は、鈴羽が知る限り、いちばん顔がいい男だ。

だから、これまで彼とそういう関係になっていても――嫌悪感はなかった。


ただ、時々、彼が夢中になりすぎて少し痛みを感じることはあっても。

それ以外は、すべてが――極上の体験だった。


結局、刹夜は言葉通り、最後まではしなかった。

けれど、彼女の上半身はすっかりキスの跡に染められ――


シャツのボタンはすべて外れ、下着のストラップは肩から滑り落ち、

何もかもが、乱れていた。


顔は紅潮し、荒い息だけが胸元に残る。


恵美さんはすでに空気を読んで、庭へと避難していた。


彼が身を起こすと、鈴羽は慌てて服を直しながら問いかける。


「……これで、満足ですか? 蛍ちゃんに、会わせてくれますよね」


しかし――

刹夜はニヤリと口元を吊り上げた。


「――本気で信じたのかお前? バカだな」


鈴羽は雷に打たれたように動きを止めた。

そして、数秒後――目に怒りが宿る。


「どうだ? 騙される気分ってのは。悪くないだろ?」


刹夜の嘲りを前に、鈴羽は唇を噛みしめるしかなかった。

何も言えず、何も返せず――


彼が部屋を出ていくまで、ひとことも声を発さなかった。


そのまま朝食を放り出し、無言で寝室に戻る。

そして扉を閉め、鍵をかけた。



玄関先――


「若様!」


恵美さんが小走りで追いかけ、車のそばで彼を呼び止めた。


「なんだ」

「あの……徳川家の運転手、大村という男が……私に接触してきました」


彼女は声を潜めて告げる。


「……ほう?」


刹夜の眉がわずかに動く。


「二千万を差し出して、私の息子を人質のように持ち出し……徳川お嬢さまのために、内通してくれと迫られました」


「……あいつは、何を知りたいんだ」


「大村さんいわく……月島、千紗さんの行動を監視しろと。とくに、妊娠したかどうかを確認してほしいと……」


“月島”という姓を持つ人間は、今この屋敷に二人いる。

けれど、“鈴羽”の存在を知っているのは――平吾と恵美だけ。


「……なるほど。そういうことか」


刹夜は低く笑った。


「若様……私は、どうすれば……?」


恵美は一歩前に出て、控えめに問う。


「そのまま、彼女のために動いてやれ」

「……え?」


思わず、恵美さんは目を瞬いた。


「金も受け取っておけ。お前の家族のことは俺が守る。誰にも指一本触れさせねぇよ」

「あ、ありがとうございます!」


恵美さんの胸にじんわりと熱が灯る。


徳川花怜がどれだけ狡猾であろうと、この刹淵組においては無力。


ここでの王は、ただ一人――

九条刹夜なのだから。


「若様、もうひとつ……お伝えしてもよろしいでしょうか?」

「……何だ」


刹夜は少し不機嫌そうに眉をひそめた。

もともと、回りくどい話は好きではない。


「奥さま、最近よく猫の番組をご覧になっていて……。周りの野良猫に餌をあげたりもしているんです。


 一人で過ごすことが多いせいか、少し寂しそうで……。猫でも飼ってみたらどうかと思いまして……。気分転換にもなるかと思います」


「猫の毛って、妊婦には良くないんじゃないのか?」


刹夜は珍しく少し考え込む。


恵美さんの中で、その反応は意外だった。

まさか、そんな細かいことまで気にするとは――。


「体質によるそうです。絶対にダメというわけではないみたいで……」


刹夜は何も答えず、ただ手をひらりと振る。

合図に従い、車が静かに走り出す。


――判断を保留にされた。

恵美さんにはそう受け取れた。


だが、彼女の見立ては間違っていなかった。

鈴羽は本当に猫が好きだ。


幼い頃、祖母の家で白い猫を飼っていた。

人懐こくて、賢くて、絶対に爪を立てない子だった。


やがて老衰で天寿を全うしたその子の死を、鈴羽と祖母は何日も泣いて見送った。

その喪失の痛みに、しばらくはペットを飼う勇気が持てなくなった。



そのまま――

刹夜は刹淵組の本部へと向かい、仕事に取りかかっていた。


一方の鈴羽は、朝の出来事で深く傷つき、部屋にこもって食事を拒んでいた。

恵美さんが用意した豪華な昼食にも、まったく手をつけない。


「奥さま……蒸し魚を作りました。妊婦さんに良いそうですし、少しだけでも召し上がりませんか?」


「……ありがとうございます。でも、大丈夫です」

ベッドに横になったまま、鈴羽はかすかに声を返す。


「それに、恵美さん、もう“奥さま”って呼ばないでください。私……そんな立場じゃありませんから。あの人にとって、私はおもちゃみたいなものでしかなくて……」


静かに涙がこぼれる。

声は震え、言葉の先が詰まった。


「若様は……もともと、ああいう方なんです。悪気があったわけじゃないと思います。……何も食べないのは良くないです。赤ちゃんのためにも、少しだけでも――」


何を言っても、返事はなかった。

恵美さんは困り果てて、最後の頼みの綱――平吾に電話をかけた。


平吾は電話を受け、しばらく悩んだ末に、刹夜に報告することにした。



その頃、刹夜はアメリカから来たビジネスマンと商談中だった。


流暢な英語で、交渉をスムーズにまとめていたそのとき――

平吾が静かに近づき、低い声で耳打ちした。


「若様……恵美さんから連絡がありまして……奥さまが部屋に閉じこもって、食事をまったく摂っていないそうです」


「……勝手に餓死でもしてろ」


苛立ったように、刹夜は吐き捨てた。


(……言うと思った)

心の中で、平吾はため息まじりにツッコむ。


「あれだけ狂ったように探し回っていたくせに……」(ボソボソ)


「何か言ったか?」


「い、いえ……!ただ、妊娠中の絶食は、かなりリスクが高いと聞きます。万が一のことがあれば……母子ともに危険が……」


「で、どうしろってんだ。俺が口開けて食わせろってか?」


苛立ったように眉間を押さえながら、刹夜は指先で無造作にテーブルを叩いた。


そう言いつつ、頭の中には朝のキスがよぎる。

思い出すたびに、どうしようもなく胸がざわつく。


(……面倒くせぇ女だ)


彼女が怒っている理由も、もちろん分かっている。

それでも謝る気などない。


「……小豆ってガキを屋敷に連れて行け。あいつに会わせてやれ」

「えっ?」


平吾は一瞬きょとんとした。

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