――蛍ちゃんに会いたい。
その一心で、鈴羽は覚悟を決めた。
けれど、
予想に反して、九条刹夜はまったく協力的ではなかった。
唇を固く閉じたまま、受け入れる気ゼロといった態度。
でも、ここで引き下がるわけにはいかない。
こんなときこそ、ちょっとしたテクニックが必要だ。
これまでに何度も、彼とそういう関係になってきた。
だからこそ、わかっている。
どんな風に彼の心をくすぐれば、受け入れてもらえるのかを――。
彼女はそっと舌先を動かし、刹夜の唇をやさしく押し開いた。
そのまま、口移しで温かい牛乳を渡す。
滑らかで、自然な動き。
刹夜は、最初はただ、鈴羽のぎこちない動きをからかうつもりだった。
しかし、そのキスひとつで、火がついてしまった。
ずっと我慢していた欲望が、堰を切ったようにあふれ出す。
彼女が戻ってきてからというもの、妊娠中の身体を気遣い、手を出すことはなかった。
けれど今、この瞬間――どうしようもなく、彼女を欲している自分がいた。
驚く鈴羽を無視し、彼は一気に主導権を握る。
彼女の身体をテーブルに押し倒し、貪るようにその香りを味わいはじめた――
「なっ……!?刹夜さん、やめ……っ」
我に返った鈴羽は、必死に抵抗しようとする。
けれど、刹夜は彼女の耳元に顔を寄せ、低く囁いた。
「……安心しろ。本気で最後まではしない。ただ、少しだけ我慢できなくなっただけだ」
そう言いながら、首筋から鎖骨へと唇を這わせていく。
これだけ長く禁欲を強いられたのだ。
少しくらい――“利子”をもらっても、罰は当たらないだろう。
鈴羽の身体がびくりと震える。
ぞくぞくとした刺激が、背筋を駆け抜けた。
抵抗したい気持ちと、もっと深く味わってみたい気持ちが入り混じる。
九条刹夜は、鈴羽が知る限り、いちばん顔がいい男だ。
だから、これまで彼とそういう関係になっていても――嫌悪感はなかった。
ただ、時々、彼が夢中になりすぎて少し痛みを感じることはあっても。
それ以外は、すべてが――極上の体験だった。
結局、刹夜は言葉通り、最後まではしなかった。
けれど、彼女の上半身はすっかりキスの跡に染められ――
シャツのボタンはすべて外れ、下着のストラップは肩から滑り落ち、
何もかもが、乱れていた。
顔は紅潮し、荒い息だけが胸元に残る。
恵美さんはすでに空気を読んで、庭へと避難していた。
彼が身を起こすと、鈴羽は慌てて服を直しながら問いかける。
「……これで、満足ですか? 蛍ちゃんに、会わせてくれますよね」
しかし――
刹夜はニヤリと口元を吊り上げた。
「――本気で信じたのかお前? バカだな」
鈴羽は雷に打たれたように動きを止めた。
そして、数秒後――目に怒りが宿る。
「どうだ? 騙される気分ってのは。悪くないだろ?」
刹夜の嘲りを前に、鈴羽は唇を噛みしめるしかなかった。
何も言えず、何も返せず――
彼が部屋を出ていくまで、ひとことも声を発さなかった。
そのまま朝食を放り出し、無言で寝室に戻る。
そして扉を閉め、鍵をかけた。
*
玄関先――
「若様!」
恵美さんが小走りで追いかけ、車のそばで彼を呼び止めた。
「なんだ」
「あの……徳川家の運転手、大村という男が……私に接触してきました」
彼女は声を潜めて告げる。
「……ほう?」
刹夜の眉がわずかに動く。
「二千万を差し出して、私の息子を人質のように持ち出し……徳川お嬢さまのために、内通してくれと迫られました」
「……あいつは、何を知りたいんだ」
「大村さんいわく……月島、千紗さんの行動を監視しろと。とくに、妊娠したかどうかを確認してほしいと……」
“月島”という姓を持つ人間は、今この屋敷に二人いる。
けれど、“鈴羽”の存在を知っているのは――平吾と恵美だけ。
「……なるほど。そういうことか」
刹夜は低く笑った。
「若様……私は、どうすれば……?」
恵美は一歩前に出て、控えめに問う。
「そのまま、彼女のために動いてやれ」
「……え?」
思わず、恵美さんは目を瞬いた。
「金も受け取っておけ。お前の家族のことは俺が守る。誰にも指一本触れさせねぇよ」
「あ、ありがとうございます!」
恵美さんの胸にじんわりと熱が灯る。
徳川花怜がどれだけ狡猾であろうと、この刹淵組においては無力。
ここでの王は、ただ一人――
九条刹夜なのだから。
「若様、もうひとつ……お伝えしてもよろしいでしょうか?」
「……何だ」
刹夜は少し不機嫌そうに眉をひそめた。
もともと、回りくどい話は好きではない。
「奥さま、最近よく猫の番組をご覧になっていて……。周りの野良猫に餌をあげたりもしているんです。
一人で過ごすことが多いせいか、少し寂しそうで……。猫でも飼ってみたらどうかと思いまして……。気分転換にもなるかと思います」
「猫の毛って、妊婦には良くないんじゃないのか?」
刹夜は珍しく少し考え込む。
恵美さんの中で、その反応は意外だった。
まさか、そんな細かいことまで気にするとは――。
「体質によるそうです。絶対にダメというわけではないみたいで……」
刹夜は何も答えず、ただ手をひらりと振る。
合図に従い、車が静かに走り出す。
――判断を保留にされた。
恵美さんにはそう受け取れた。
だが、彼女の見立ては間違っていなかった。
鈴羽は本当に猫が好きだ。
幼い頃、祖母の家で白い猫を飼っていた。
人懐こくて、賢くて、絶対に爪を立てない子だった。
やがて老衰で天寿を全うしたその子の死を、鈴羽と祖母は何日も泣いて見送った。
その喪失の痛みに、しばらくはペットを飼う勇気が持てなくなった。
*
そのまま――
刹夜は刹淵組の本部へと向かい、仕事に取りかかっていた。
一方の鈴羽は、朝の出来事で深く傷つき、部屋にこもって食事を拒んでいた。
恵美さんが用意した豪華な昼食にも、まったく手をつけない。
「奥さま……蒸し魚を作りました。妊婦さんに良いそうですし、少しだけでも召し上がりませんか?」
「……ありがとうございます。でも、大丈夫です」
ベッドに横になったまま、鈴羽はかすかに声を返す。
「それに、恵美さん、もう“奥さま”って呼ばないでください。私……そんな立場じゃありませんから。あの人にとって、私はおもちゃみたいなものでしかなくて……」
静かに涙がこぼれる。
声は震え、言葉の先が詰まった。
「若様は……もともと、ああいう方なんです。悪気があったわけじゃないと思います。……何も食べないのは良くないです。赤ちゃんのためにも、少しだけでも――」
何を言っても、返事はなかった。
恵美さんは困り果てて、最後の頼みの綱――平吾に電話をかけた。
平吾は電話を受け、しばらく悩んだ末に、刹夜に報告することにした。
*
その頃、刹夜はアメリカから来たビジネスマンと商談中だった。
流暢な英語で、交渉をスムーズにまとめていたそのとき――
平吾が静かに近づき、低い声で耳打ちした。
「若様……恵美さんから連絡がありまして……奥さまが部屋に閉じこもって、食事をまったく摂っていないそうです」
「……勝手に餓死でもしてろ」
苛立ったように、刹夜は吐き捨てた。
(……言うと思った)
心の中で、平吾はため息まじりにツッコむ。
「あれだけ狂ったように探し回っていたくせに……」(ボソボソ)
「何か言ったか?」
「い、いえ……!ただ、妊娠中の絶食は、かなりリスクが高いと聞きます。万が一のことがあれば……母子ともに危険が……」
「で、どうしろってんだ。俺が口開けて食わせろってか?」
苛立ったように眉間を押さえながら、刹夜は指先で無造作にテーブルを叩いた。
そう言いつつ、頭の中には朝のキスがよぎる。
思い出すたびに、どうしようもなく胸がざわつく。
(……面倒くせぇ女だ)
彼女が怒っている理由も、もちろん分かっている。
それでも謝る気などない。
「……小豆ってガキを屋敷に連れて行け。あいつに会わせてやれ」
「えっ?」
平吾は一瞬きょとんとした。