「私がどんな食べ方をしようと……あなたに関係あるんですか?」
鈴羽はそう言って、テーブルの上に残っていたケーキの形を、無遠慮に手で崩した。
べちゃり、と音を立ててつぶれる、可愛らしいピンク色のハート型。
彼女は思った――
きっと、また刹夜が怒るだろうと。
だってこれは、あの女……彼の新しい女が、わざわざ手作りして持ってきたものなのだから。
ところが。
「……いや。まさか、お前がそんなにケーキ好きとはな」
刹夜はただ静かにそう呟いただけだった。
「……私、別に……」
“別にケーキが食べたかったわけじゃない”
“ただ他の女の人があなたにケーキを作るのが嫌なだけ――”
喉元まで出かけたその言葉。
でも、飲み込んだ。
――そんなこと言ったら、笑われるだけだ。
彼を好きになる資格なんて、ない。
そもそも、自分がここにいること自体、奇跡みたいなものなんだから。
結局鈴羽は、何も言わなかった。
*
その夜も、刹夜は鈴羽を抱き寄せた。
案の定、それ以上のことは何もなかった。
鈴羽ももう、最初のように緊張することはなかった。
どうせ拒んだって無駄――
だったら、いっそ無視して眠ってしまえばいい。
やがて、鈴羽の寝息が静かに部屋に響く。
彼女が眠りに落ちたのを確認すると、刹夜はそっと目を開けた。
彼女の長いまつ毛。
呼吸にあわせて、わずかに動く肩。
彼はふと、彼女の額に唇を落とした。
眠っているときの彼女は、逃げない。
反抗もしない。
言い返さない。怯えない。
ただ、静かに、素直で、可愛らしい。
*
午前四時すぎ。
刹夜はそっと離れを出ると、月島千紗のいる本邸へと戻っていた。
千紗は寝るのが早いせいで、彼の出入りに気づくことはない。
ときおり、夜に抱かれたがるが――
実際に彼女の相手をしているのは、別の男。
千紗はそのことに、まだ気づいていない。
*
翌朝。
ダイニングでは、千紗がご機嫌な様子で、刹夜と朝食をとっていた。
「ねぇ、刹夜さまって……子ども、好き?」
「……なんだ。妊娠したのか」
「ううん、まだだけど……たぶんすぐすると思うから、今のうちに聞いておこうかなっと思って」
楽しげに笑う千紗。
刹夜は、特に答えを返さない。
「じゃあさ、男の子と女の子、どっちがいい?」
「……どっちでも」
相変わらず淡々とした口調。
「え、意外~。てっきり男の子だけがいいって言うかと思ってた。跡継ぎとか、家の事情とかあるし」
千紗は楽しげに笑いながら、ふと呟くように続けた。
「うちの母ね、ほんとダメなお腹だったのよ。父は男の子が欲しかったのに、結局女の子二人。
で、その妹がどこ行ったのやら……でも何となくまだ生きてる気がしてたのよね。昨日の夜……夢に出てきたんだから」
千紗の取り留めのないおしゃべりは、本人にとっては何気ないものだった。
だが――
話す側は無意識でも、聞く側には重く響く。
刹夜は一瞬、心臓が跳ね上がるのを感じ、そっとスプーンを置き、顔を上げた。
「……夢?」
千紗は一生懸命思い出そうと頭を撫でながら答える。
「うん、内容はあんまり覚えてないんだけど……。
ここに戻ってきたの。なんか、隣に小さな女の子もいたような……もしかしたら、子どもだったのかも。
……まあ、夢だし。気味悪い話しちゃってごめんね。縁起でもないわよね」
それでも刹夜は興味を示す。
「……双子って、テレパシーみたいなもんがあるって聞いたことがあるけど。お前たちはそういうのなかったのか?」
「やだ、なにそれ。刹夜さま、まさかそういうの信じるタイプ?」
千紗はくすっと笑う。
「ありえないでしょ。だって、あの子は田舎育ちのド田舎娘。おばあちゃんもろくに学校行ってないような家で、育ちだって知れてるわ。
聞いた話だと、あの子、中学くらいから男と遊びまわってたらしいよ。
今も生きてるなら、どうせ水商売か援助交際でしょ? 知識も教養もない女なんて、体売るくらいしか生きる道ないんだから。
昨日夢に出てきた子どもだって、どっかのろくでもない男の子どもに決まってるわよ」
千紗の口調は辛辣で、笑いながらも毒があった。
だが――
目の前の男の顔色が、急速に変わっていることに気づいていなかった。
次の瞬間
――ガシャンッ!
乾いた衝撃音が、朝の静けさを切り裂いた。
刹夜は無言で朝食の食器をテーブルごとなぎ払い、足で蹴り飛ばしたのだ。
熱いミルクがこぼれ、千紗の腕にかかる。
「きゃっ!あっつ……!! せ、刹夜さま、どうしたのいきなり……!? 痛っ……!!」
だが、刹夜は答えなかった。
一言もなく、鋭い視線を残したまま背を向け、無言で部屋を出て行った。
扉が乱暴に閉まる音だけが、いつまでも耳に残る。
しばらく呆然としていた千紗は、ようやく我に返り、救急箱を探した。
左手の甲が真っ赤に腫れ上がり、ヒリヒリと焼けつく痛みに顔を歪める。
刹夜がなぜあんなに怒ったのか、彼女には分からなかった。
別に大したことは言ってないのに……。
汚い言葉を使ったのは確かだが、あれくらいでここまで怒るとは思わなかった。
……あの人、下品な言葉遣い相当嫌いなのかも。
そう結論づけるしかなかった。
九条刹夜という男は、本当に矛盾だらけだ。
昼は氷のように冷たく、ほとんど会話もしないのに、
夜になると、熱に浮かされたみたいに求めてくる。
飲み込まれそうになるほどに。
いくら自分も欲求が強いほうとはいえ、最近はさすがに体がついていかない。
朝になれば、腰や脚にだるさが残って、動きたくなくなる。
――川崎の誘いにすら、もう興味がわかなくなった。
そう思いながら、千紗は外出の準備をした。
だが、その背後で。
彼女は気づいていない。
九条刹夜はまだ屋敷にいた。
――母屋ではなく、敷地内の離れに。
*
その頃、鈴羽は一人で朝食をとっていた。
食事を口に運びながらも、どこか上の空で、表情にはぼんやりとした影が差している。
彼女が何を考えていたのか――
目の前の目玉焼きが突然誰かの手によってさらわれるまでは、何も意識していなかった。
「ちょっ……! え……? なんで……?」
思わず声が出る。
この時間に、刹夜がここにいるなんて、まったく想定外だった。
最近は、彼の行動パターンがなんとなく読めるようになってきていた。
夜になると彼は必ず自分の元に来るけれど、朝には決まって姉のいる別邸へと戻っていく。
朝食を共にするなんて、これまで一度もなかった。
だから鈴羽はいつも一人で食べることに慣れていた。
幸い、惠美さんの作る料理はどれも美味しい。
それに、妊婦のせいか最近はとにかくお腹が空く。朝ごはんはしっかり食べないと気が済まなかった。
「……意外と、よく食うな」
刹夜はそう言って、鈴羽を一瞥する。
「だってお腹空くし……」
鈴羽は少し気恥ずかしそうに目を伏せた。
「お前さ……あのガキに会いたいか?」
ふいに投げかけられた言葉に、鈴羽は思わず目を見開いた。
「えっ……会ってもいいの?」
「さあな。お前の態度次第だ」
――また、それ。
この人はいつもそうだ。
素直に優しい言葉をくれるわけじゃない。いつも何かの条件付き。
「……どう態度を見せればいいのかわかりませんので、やっぱりやめておきます」
何をしても文句をつけられそうな気がしてしまう。
態度次第なんて、簡単なようで一番難しい。
「もう諦めるのか?」
項垂れる鈴羽の姿が、彼にはなぜだか妙に可愛く見えた。
鈴羽は何も答えず、黙ってホットミルクを口にする。
すると――
「……俺にも飲ませろ」
ぽつりと落とされた刹夜の一言に、鈴羽の手が止まった。
「……え?」
「それくらいしてくれたら、願いを聞いてやってもいいかもしれんな」
鈴羽は一瞬ぽかんとして、思わず彼の顔を見つめた。
そんな簡単なことでいいの?
でも試す価値はあるかもしれない。
疑いの目を向けながら、彼女はもう一つのカップを取り出し、牛乳を半分だけ注いで刹夜の前に差し出した。
……だが。
「俺が言ってるのは、口で飲ませろってことだ」
「……っ」
一気に顔が熱を持ち、真っ赤に染まる。
「な、何言ってるんですか……! 惠美さんもいるのに……!」
鈴羽が慌てて言いかけたその瞬間――
「恵美さん、後ろを向いててくれ」
「かしこまりました」
即答で背を向ける恵美さん。
「これでいいんだろ?」
刹夜はおかしそうに笑いながら、鈴羽を見つめていた。
羞恥で頭が爆発しそうだった。
朝からいったい、何をさせようというの……。
口移しなんてしたくない。
でも、蛍に会いたい気持ちが勝ってしまう。
その想いに背中を押されて、鈴羽は小さくため息をついた。
そして決意を込めて、カップを手に取る。
そっと、ほんの少しだけ牛乳を口に含む。
それから、目を閉じて、静かに身を寄せていった――。