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第72話 双子のテレパシー

「私がどんな食べ方をしようと……あなたに関係あるんですか?」


鈴羽はそう言って、テーブルの上に残っていたケーキの形を、無遠慮に手で崩した。

べちゃり、と音を立ててつぶれる、可愛らしいピンク色のハート型。


彼女は思った――

きっと、また刹夜が怒るだろうと。


だってこれは、あの女……彼の新しい女が、わざわざ手作りして持ってきたものなのだから。


ところが。


「……いや。まさか、お前がそんなにケーキ好きとはな」


刹夜はただ静かにそう呟いただけだった。


「……私、別に……」


“別にケーキが食べたかったわけじゃない”

“ただ他の女の人があなたにケーキを作るのが嫌なだけ――”


喉元まで出かけたその言葉。

でも、飲み込んだ。


――そんなこと言ったら、笑われるだけだ。


彼を好きになる資格なんて、ない。

そもそも、自分がここにいること自体、奇跡みたいなものなんだから。


結局鈴羽は、何も言わなかった。



その夜も、刹夜は鈴羽を抱き寄せた。

案の定、それ以上のことは何もなかった。


鈴羽ももう、最初のように緊張することはなかった。


どうせ拒んだって無駄――

だったら、いっそ無視して眠ってしまえばいい。


やがて、鈴羽の寝息が静かに部屋に響く。

彼女が眠りに落ちたのを確認すると、刹夜はそっと目を開けた。


彼女の長いまつ毛。

呼吸にあわせて、わずかに動く肩。


彼はふと、彼女の額に唇を落とした。


眠っているときの彼女は、逃げない。


反抗もしない。

言い返さない。怯えない。


ただ、静かに、素直で、可愛らしい。



午前四時すぎ。

刹夜はそっと離れを出ると、月島千紗のいる本邸へと戻っていた。


千紗は寝るのが早いせいで、彼の出入りに気づくことはない。


ときおり、夜に抱かれたがるが――

実際に彼女の相手をしているのは、別の男。


千紗はそのことに、まだ気づいていない。



翌朝。

ダイニングでは、千紗がご機嫌な様子で、刹夜と朝食をとっていた。


「ねぇ、刹夜さまって……子ども、好き?」

「……なんだ。妊娠したのか」

「ううん、まだだけど……たぶんすぐすると思うから、今のうちに聞いておこうかなっと思って」


楽しげに笑う千紗。

刹夜は、特に答えを返さない。


「じゃあさ、男の子と女の子、どっちがいい?」

「……どっちでも」


相変わらず淡々とした口調。


「え、意外~。てっきり男の子だけがいいって言うかと思ってた。跡継ぎとか、家の事情とかあるし」


千紗は楽しげに笑いながら、ふと呟くように続けた。


「うちの母ね、ほんとダメなお腹だったのよ。父は男の子が欲しかったのに、結局女の子二人。


で、その妹がどこ行ったのやら……でも何となくまだ生きてる気がしてたのよね。昨日の夜……夢に出てきたんだから」


千紗の取り留めのないおしゃべりは、本人にとっては何気ないものだった。


だが――

話す側は無意識でも、聞く側には重く響く。


刹夜は一瞬、心臓が跳ね上がるのを感じ、そっとスプーンを置き、顔を上げた。


「……夢?」


千紗は一生懸命思い出そうと頭を撫でながら答える。


「うん、内容はあんまり覚えてないんだけど……。


 ここに戻ってきたの。なんか、隣に小さな女の子もいたような……もしかしたら、子どもだったのかも。


 ……まあ、夢だし。気味悪い話しちゃってごめんね。縁起でもないわよね」


それでも刹夜は興味を示す。


「……双子って、テレパシーみたいなもんがあるって聞いたことがあるけど。お前たちはそういうのなかったのか?」


「やだ、なにそれ。刹夜さま、まさかそういうの信じるタイプ?」


千紗はくすっと笑う。


「ありえないでしょ。だって、あの子は田舎育ちのド田舎娘。おばあちゃんもろくに学校行ってないような家で、育ちだって知れてるわ。


 聞いた話だと、あの子、中学くらいから男と遊びまわってたらしいよ。


 今も生きてるなら、どうせ水商売か援助交際でしょ? 知識も教養もない女なんて、体売るくらいしか生きる道ないんだから。


 昨日夢に出てきた子どもだって、どっかのろくでもない男の子どもに決まってるわよ」


千紗の口調は辛辣で、笑いながらも毒があった。


だが――

目の前の男の顔色が、急速に変わっていることに気づいていなかった。


次の瞬間


――ガシャンッ!


乾いた衝撃音が、朝の静けさを切り裂いた。


刹夜は無言で朝食の食器をテーブルごとなぎ払い、足で蹴り飛ばしたのだ。

熱いミルクがこぼれ、千紗の腕にかかる。


「きゃっ!あっつ……!! せ、刹夜さま、どうしたのいきなり……!? 痛っ……!!」


だが、刹夜は答えなかった。


一言もなく、鋭い視線を残したまま背を向け、無言で部屋を出て行った。


扉が乱暴に閉まる音だけが、いつまでも耳に残る。


しばらく呆然としていた千紗は、ようやく我に返り、救急箱を探した。

左手の甲が真っ赤に腫れ上がり、ヒリヒリと焼けつく痛みに顔を歪める。


刹夜がなぜあんなに怒ったのか、彼女には分からなかった。

別に大したことは言ってないのに……。


汚い言葉を使ったのは確かだが、あれくらいでここまで怒るとは思わなかった。


……あの人、下品な言葉遣い相当嫌いなのかも。

そう結論づけるしかなかった。


九条刹夜という男は、本当に矛盾だらけだ。


昼は氷のように冷たく、ほとんど会話もしないのに、

夜になると、熱に浮かされたみたいに求めてくる。


飲み込まれそうになるほどに。


いくら自分も欲求が強いほうとはいえ、最近はさすがに体がついていかない。

朝になれば、腰や脚にだるさが残って、動きたくなくなる。


――川崎の誘いにすら、もう興味がわかなくなった。


そう思いながら、千紗は外出の準備をした。


だが、その背後で。

彼女は気づいていない。


九条刹夜はまだ屋敷にいた。

――母屋ではなく、敷地内の離れに。



その頃、鈴羽は一人で朝食をとっていた。


食事を口に運びながらも、どこか上の空で、表情にはぼんやりとした影が差している。


彼女が何を考えていたのか――

目の前の目玉焼きが突然誰かの手によってさらわれるまでは、何も意識していなかった。


「ちょっ……! え……? なんで……?」


思わず声が出る。

この時間に、刹夜がここにいるなんて、まったく想定外だった。


最近は、彼の行動パターンがなんとなく読めるようになってきていた。

夜になると彼は必ず自分の元に来るけれど、朝には決まって姉のいる別邸へと戻っていく。


朝食を共にするなんて、これまで一度もなかった。

だから鈴羽はいつも一人で食べることに慣れていた。


幸い、惠美さんの作る料理はどれも美味しい。

それに、妊婦のせいか最近はとにかくお腹が空く。朝ごはんはしっかり食べないと気が済まなかった。


「……意外と、よく食うな」


刹夜はそう言って、鈴羽を一瞥する。


「だってお腹空くし……」


鈴羽は少し気恥ずかしそうに目を伏せた。


「お前さ……あのガキに会いたいか?」


ふいに投げかけられた言葉に、鈴羽は思わず目を見開いた。


「えっ……会ってもいいの?」

「さあな。お前の態度次第だ」


――また、それ。


この人はいつもそうだ。

素直に優しい言葉をくれるわけじゃない。いつも何かの条件付き。


「……どう態度を見せればいいのかわかりませんので、やっぱりやめておきます」


何をしても文句をつけられそうな気がしてしまう。

態度次第なんて、簡単なようで一番難しい。


「もう諦めるのか?」


項垂れる鈴羽の姿が、彼にはなぜだか妙に可愛く見えた。


鈴羽は何も答えず、黙ってホットミルクを口にする。

すると――


「……俺にも飲ませろ」


ぽつりと落とされた刹夜の一言に、鈴羽の手が止まった。


「……え?」

「それくらいしてくれたら、願いを聞いてやってもいいかもしれんな」


鈴羽は一瞬ぽかんとして、思わず彼の顔を見つめた。

そんな簡単なことでいいの?


でも試す価値はあるかもしれない。


疑いの目を向けながら、彼女はもう一つのカップを取り出し、牛乳を半分だけ注いで刹夜の前に差し出した。


……だが。


「俺が言ってるのは、口で飲ませろってことだ」

「……っ」


一気に顔が熱を持ち、真っ赤に染まる。


「な、何言ってるんですか……! 惠美さんもいるのに……!」


鈴羽が慌てて言いかけたその瞬間――


「恵美さん、後ろを向いててくれ」

「かしこまりました」


即答で背を向ける恵美さん。


「これでいいんだろ?」


刹夜はおかしそうに笑いながら、鈴羽を見つめていた。


羞恥で頭が爆発しそうだった。

朝からいったい、何をさせようというの……。


口移しなんてしたくない。

でも、蛍に会いたい気持ちが勝ってしまう。


その想いに背中を押されて、鈴羽は小さくため息をついた。

そして決意を込めて、カップを手に取る。


そっと、ほんの少しだけ牛乳を口に含む。

それから、目を閉じて、静かに身を寄せていった――。


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