「そんなふうに思わないでください、奥さま……!」
恵美さんは慌てて言った。
「若さまがあなたを連れ戻したのは、きっと心に想いがあるからです。でなければ、最初から――」
「違いますよ、恵美さん」
鈴羽は微笑ともつかない表情を浮かべた。
「私が連れ戻されたのは、きっと、姉に似ているからです。代わり……いえ、予備、みたいなものです」
「奥さま……」
恵美さんは言葉を探したが、それ以上は何も言えなかった。
「もう大丈夫です、恵美さん」
彼女は伏し目がちに続けた。
「慰めようとしてくれてるのはわかってます。ですが……私は自分の立場もわかってるつもりです。
お気遣い、ありがとうございます。……でも今は本当に食欲がないんですので、ちょっと横になります。
お昼のことは気にしないでください。恵美さんも、少し休んでくださいね」
それだけ言って、鈴羽は静かに立ち上がり、重たい足取りで寝室へと向かった。
柔らかなブランケットに身をくるみながら、彼女はひとつ、ゆっくりと呼吸を吐き出した。
*
一方その頃――
徳川花怜は、茶室で水穂と並んで優雅なティータイムを過ごしていた。
花怜は長年の留学経験から、西洋文化の影響を色濃く受けており、普段はコーヒーや紅茶を好んで飲むタイプ。
一方の水穂は、日本の伝統文化を大切にしていて、とくに茶道には造詣が深い。
今日の茶室も、静謐で上質な空間。
茶道を学んだ女性スタッフが、丁寧に一服ずつ茶を差し出していた。
「これは最近のお気に入りの紅茶なんです。ダージリンの春摘み。とても香りが良くて、穏やかな気持ちになれますのよ」
水穂は笑みを浮かべながら、丁寧にカップを差し出す。
「ありがとうございます。ちょうど以前、ロンドンで休暇を過ごした際、朝は紅茶ばかりでしたわ」
そう答えて、花怜はカップを手に取り、わずかに一口――
そして、視線を水穂へと移した。
「お義母さまが今日お越しになったのは……やはり、昨夜の件で?」
「……ええ。ニュースを見たの。刹夜がまた……ほんと、困ったものね」
水穂は、星宮とのスキャンダルを案じて来たのだろう。
だが、それはまったくの杞憂だった。
水穂が知らないのも無理はない――
そもそも、星宮が刹夜に近づいたのは、花怜が許可を出したからだ。
「お気になさらず。私は気にしていませんわ。
ありきたりな芸能人なんて、私と張り合える相手ではありませんわ」
花怜の声には、揺るがぬ自信と冷ややかな優越感がにじむ。
「そう言ってくれて安心したわ」
水穂はほっとしたように微笑む。
「少しだけ心配していたの。あなたが不安になるのではないかと」
花怜は窓の外を見つめながら、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「正直……最初は不安だったの。でもそれは……星宮じゃなくて――あの女のほう。
毎晩、刹夜が帰って行くあの家。どう考えても、気分がいいものになれないわ」
「あの子のこと、刹夜が本気にしているとは思えないわ。
所詮は一時の相手。正式に婚約が決まれば、私が説得して追い出します」
「でも……刹夜が、あなたの言うことを素直に聞くかしら?」
問いかける声には、少しだけ皮肉が混ざる。
だが水穂は落ち着いて、微笑をたたえたまま答えた。
「……方法ならいくらでもありますわ」
その静かな一言に、花怜の唇もわずかに持ち上がった。
「それなら、ぜひお願いしたいわ。あの女だけは、本当に目障りなの」
その口ぶりからは、千紗という名前すら、もはや口にしたくないという徹底した嫌悪が感じられた。
*
ティータイムを終えた花怜は、午後の予定に合わせてジュエリー会社へ戻っていた。
「大村さんを呼んでちょうだい」
彼女は秘書に指示する。
やがて、黒いスーツに身を包んだ年配の男性――
徳川家専属のドライバー・大村が、無言で部屋に入ってきた。
「あなたに頼みたいことがあるの、大村さん」
白髪まじりの彼は静かに一礼する。
*
一時間後――
高級スーパーの一角で、恵美さんは日用品や食材の買い出しをしていた。
今の屋敷には、月島姉妹が二人とも住んでおり、彼女は二人の身の回りを一手に引き受けていた。
表に出せない存在だからこそ、外部の人間が関与できる領域ではない。
だからこそ、日用品の調達まで彼女自身が動く必要がある。
そのとき――
「恵美さん、ですよね。少し、お時間いただけませんか?」
背後から声がした。
振り返ると、見知らぬ男性が声をかけてきた。
「……どなたでしょうか?」
「徳川さまの専属運転手をしております。大村と申します」
「……徳川家の?」
恵美さんの表情が一瞬だけ険しくなる。
彼女はあくまで九条家の人間。
徳川とは常に一定の距離を保ち、警戒すべき存在だった。
「……ご用件は?」
「大切なお話ですので、できれば場所を変えてお話したいのですが」
二人は、人気のないスーパー裏手の非常階段へと足を運んだ。
監視カメラもなく、周囲に人影はない。
その薄暗がりで――
大村は懐から、封筒をひとつ、静かに取り出した。
「こちらに二千万円、用意させていただきました。徳川お嬢様のご意向です」
桁違いの額面を目にした瞬間、恵美さんの表情が固まった。
けれど、彼女はその手を伸ばさなかった。
「申し訳ありませんが……私は、若様を裏切るつもりはありません」
「誤解しないでいただきたい」
大村の声色は穏やかだったが、どこか冷たさがにじんでいた。
「これは“裏切り”ではありません。ほんの少し、情報を共有していただきたいだけです。お嬢様は、月島さんの世話をずっとあなたがしていることをご存知です」
「……月島さん?」
恵美は一瞬たじろいだ。
まさか鈴羽のことが……?
だが、大村は構わず続けた。
「ええ。月島千紗さんは、九条さまが気にかけている女性だと承知しておりますが、お嬢様は、そのことに強い危機感を抱いておられます。
なにせ、徳川家と九条家の縁談は、すでに決定事項ですから。
だからこそ、月島さんの行動を逐一把握しておきたい。そして、もし彼女が妊娠した場合……すぐにお嬢様へご報告いただきたいだけです。
これは、決して九条さまへの裏切りではありません。
いずれお嬢様は、正式に“九条家の奥さま”になるお方。つまり、あなたにとっても将来の“ご主人様”です」
にこやかな笑顔のまま語られる言葉。
しかし、恵美さんはぞっとするほどの恐怖を覚えた。
「受け取っておいてください。あなたにとっても、悪い話ではないはずです」
大村はさらに一歩、間を詰めた。
「――私たちも、あなたの中学生の息子さんを巻き込みたくはありませんから」
その一言が落ちた瞬間――
時間が止まったかのようだった。
恵美さんの頬から、一気に血の気が引いていく。
これは、あからさまな脅しだった。
徳川家が本気を出せば――何が起きても不思議ではない。
長い沈黙の末、恵美さんは震える指先でその封筒を受け取った。
金額が大きすぎる。
だが、断る選択肢は、もはや存在しなかった。
息子だけは……守らなければ。
「お嬢様は、あなたの誠意を決して忘れません。よよろしくお願いいたします」
大村は、深々と一礼した。
そして、音もなくその場を後にした。
*
同じころ――
月島千紗のスマホに、ある記事が流れてきた。
それは、星宮恋夏が手作りケーキを持って九条刹夜のオフィスを訪れたという、話題のニュースだった。
「……はあっ!? なにこれっ!!」
千紗は叫び声を上げ、スマホをそのまま床に叩きつけた。
「この女ッ……ケーキくらいで何よ! 自分だけが特別とか思ってんの!?どうせ刹夜さまはそんなもん食べるわけないんだから!」
怒りは膨れ上がり、理性のフタを吹き飛ばす。
千紗は即座に裏アカウントを開き、SNSにログイン。
そして、記事のコメント欄に次々と書き込みを始めた。
――「みんな知らないだろうけど、この女ヤバいよ」
――「家は超貧乏、中学の頃からパパ活で金稼いでたって。変な病気ももらってるらしいし」
――「九条家の若さまにはもっとちゃんとした人がふさわしいよね」
すると、SNS上では星宮恋夏のファンから反撃のコメントが殺到した。
レスバは泥仕合と化し、千紗の指は止まらない。
そんな中――
九条刹夜が帰宅した。
……ただし、彼が向かったのは、千紗のいる母屋ではなく、離れの棟。
彼は静かに玄関を抜け、寝室を覗くと――
鈴羽は、まだブランケットにくるまって眠っていた。
彼女を起こさないように、そっと書斎に入る。
それからしばらくして――
やがて鈴羽が目を覚まし、リビングに出たとき。
テーブルの上には、見覚えのないピンク色のハート型ケーキ。
可愛らしいデコレーション。
そして、その隣には、九条刹夜のジャケット。
……瞬間、怒りが湧き上がった。
何も言わず、鈴羽はまっすぐケーキの前へと歩み寄り――
そのまま、手でケーキをぐしゃっと潰した。
クリームが指の間からあふれ、テーブルに散らばる。
ちょうどその時。
「……おい、何してんだ」
背後から聞こえた、低くも冷静な声。
振り返ると、そこには刹夜がいた。
「……ケーキを食べてるんですけど。見ればわかるんじゃないんですか」
鈴羽はむくれた表情でそう言いながら、手に付いたクリームをそのまま口に運んだ。
頬や口元にクリームをつけた姿は、どこか子どもっぽくて滑稽だったが――
それが彼女なりの、必死の抵抗だった。
きっと怒られる、そう思っていた。
だけど――
「ぷっ……」
予想に反して、刹夜は笑った。
「……お前、子どもか?ケーキを手で食うとか、独特な食べ方だなー」
と彼はからかう。
「…………」