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第71話 ケーキの食べ方

「そんなふうに思わないでください、奥さま……!」


恵美さんは慌てて言った。


「若さまがあなたを連れ戻したのは、きっと心に想いがあるからです。でなければ、最初から――」


「違いますよ、恵美さん」


鈴羽は微笑ともつかない表情を浮かべた。


「私が連れ戻されたのは、きっと、姉に似ているからです。代わり……いえ、予備、みたいなものです」


「奥さま……」


恵美さんは言葉を探したが、それ以上は何も言えなかった。


「もう大丈夫です、恵美さん」


彼女は伏し目がちに続けた。


「慰めようとしてくれてるのはわかってます。ですが……私は自分の立場もわかってるつもりです。

 お気遣い、ありがとうございます。……でも今は本当に食欲がないんですので、ちょっと横になります。

 お昼のことは気にしないでください。恵美さんも、少し休んでくださいね」


それだけ言って、鈴羽は静かに立ち上がり、重たい足取りで寝室へと向かった。


柔らかなブランケットに身をくるみながら、彼女はひとつ、ゆっくりと呼吸を吐き出した。



一方その頃――

徳川花怜は、茶室で水穂と並んで優雅なティータイムを過ごしていた。


花怜は長年の留学経験から、西洋文化の影響を色濃く受けており、普段はコーヒーや紅茶を好んで飲むタイプ。


一方の水穂は、日本の伝統文化を大切にしていて、とくに茶道には造詣が深い。


今日の茶室も、静謐で上質な空間。

茶道を学んだ女性スタッフが、丁寧に一服ずつ茶を差し出していた。


「これは最近のお気に入りの紅茶なんです。ダージリンの春摘み。とても香りが良くて、穏やかな気持ちになれますのよ」


水穂は笑みを浮かべながら、丁寧にカップを差し出す。


「ありがとうございます。ちょうど以前、ロンドンで休暇を過ごした際、朝は紅茶ばかりでしたわ」


そう答えて、花怜はカップを手に取り、わずかに一口――

そして、視線を水穂へと移した。


「お義母さまが今日お越しになったのは……やはり、昨夜の件で?」

「……ええ。ニュースを見たの。刹夜がまた……ほんと、困ったものね」


水穂は、星宮とのスキャンダルを案じて来たのだろう。


だが、それはまったくの杞憂だった。


水穂が知らないのも無理はない――

そもそも、星宮が刹夜に近づいたのは、花怜が許可を出したからだ。


「お気になさらず。私は気にしていませんわ。

 ありきたりな芸能人なんて、私と張り合える相手ではありませんわ」


花怜の声には、揺るがぬ自信と冷ややかな優越感がにじむ。


「そう言ってくれて安心したわ」


水穂はほっとしたように微笑む。


「少しだけ心配していたの。あなたが不安になるのではないかと」


花怜は窓の外を見つめながら、ゆっくりと言葉を選ぶ。


「正直……最初は不安だったの。でもそれは……星宮じゃなくて――あの女のほう。

 毎晩、刹夜が帰って行くあの家。どう考えても、気分がいいものになれないわ」


「あの子のこと、刹夜が本気にしているとは思えないわ。

 所詮は一時の相手。正式に婚約が決まれば、私が説得して追い出します」


「でも……刹夜が、あなたの言うことを素直に聞くかしら?」


問いかける声には、少しだけ皮肉が混ざる。

だが水穂は落ち着いて、微笑をたたえたまま答えた。


「……方法ならいくらでもありますわ」


その静かな一言に、花怜の唇もわずかに持ち上がった。


「それなら、ぜひお願いしたいわ。あの女だけは、本当に目障りなの」


その口ぶりからは、千紗という名前すら、もはや口にしたくないという徹底した嫌悪が感じられた。



ティータイムを終えた花怜は、午後の予定に合わせてジュエリー会社へ戻っていた。


「大村さんを呼んでちょうだい」


彼女は秘書に指示する。


やがて、黒いスーツに身を包んだ年配の男性――

徳川家専属のドライバー・大村が、無言で部屋に入ってきた。


「あなたに頼みたいことがあるの、大村さん」


白髪まじりの彼は静かに一礼する。



一時間後――

高級スーパーの一角で、恵美さんは日用品や食材の買い出しをしていた。


今の屋敷には、月島姉妹が二人とも住んでおり、彼女は二人の身の回りを一手に引き受けていた。


表に出せない存在だからこそ、外部の人間が関与できる領域ではない。

だからこそ、日用品の調達まで彼女自身が動く必要がある。


そのとき――

「恵美さん、ですよね。少し、お時間いただけませんか?」


背後から声がした。

振り返ると、見知らぬ男性が声をかけてきた。


「……どなたでしょうか?」

「徳川さまの専属運転手をしております。大村と申します」

「……徳川家の?」


恵美さんの表情が一瞬だけ険しくなる。


彼女はあくまで九条家の人間。

徳川とは常に一定の距離を保ち、警戒すべき存在だった。


「……ご用件は?」

「大切なお話ですので、できれば場所を変えてお話したいのですが」


二人は、人気のないスーパー裏手の非常階段へと足を運んだ。

監視カメラもなく、周囲に人影はない。


その薄暗がりで――

大村は懐から、封筒をひとつ、静かに取り出した。


「こちらに二千万円、用意させていただきました。徳川お嬢様のご意向です」


桁違いの額面を目にした瞬間、恵美さんの表情が固まった。

けれど、彼女はその手を伸ばさなかった。


「申し訳ありませんが……私は、若様を裏切るつもりはありません」

「誤解しないでいただきたい」


大村の声色は穏やかだったが、どこか冷たさがにじんでいた。


「これは“裏切り”ではありません。ほんの少し、情報を共有していただきたいだけです。お嬢様は、月島さんの世話をずっとあなたがしていることをご存知です」


「……月島さん?」


恵美は一瞬たじろいだ。

まさか鈴羽のことが……?


だが、大村は構わず続けた。


「ええ。月島千紗さんは、九条さまが気にかけている女性だと承知しておりますが、お嬢様は、そのことに強い危機感を抱いておられます。

 なにせ、徳川家と九条家の縁談は、すでに決定事項ですから。


 だからこそ、月島さんの行動を逐一把握しておきたい。そして、もし彼女が妊娠した場合……すぐにお嬢様へご報告いただきたいだけです。


 これは、決して九条さまへの裏切りではありません。

 いずれお嬢様は、正式に“九条家の奥さま”になるお方。つまり、あなたにとっても将来の“ご主人様”です」


にこやかな笑顔のまま語られる言葉。

しかし、恵美さんはぞっとするほどの恐怖を覚えた。


「受け取っておいてください。あなたにとっても、悪い話ではないはずです」


大村はさらに一歩、間を詰めた。


「――私たちも、あなたの中学生の息子さんを巻き込みたくはありませんから」


その一言が落ちた瞬間――

時間が止まったかのようだった。

恵美さんの頬から、一気に血の気が引いていく。


これは、あからさまな脅しだった。


徳川家が本気を出せば――何が起きても不思議ではない。


長い沈黙の末、恵美さんは震える指先でその封筒を受け取った。


金額が大きすぎる。

だが、断る選択肢は、もはや存在しなかった。


息子だけは……守らなければ。


「お嬢様は、あなたの誠意を決して忘れません。よよろしくお願いいたします」


大村は、深々と一礼した。

そして、音もなくその場を後にした。



同じころ――

月島千紗のスマホに、ある記事が流れてきた。


それは、星宮恋夏が手作りケーキを持って九条刹夜のオフィスを訪れたという、話題のニュースだった。


「……はあっ!? なにこれっ!!」


千紗は叫び声を上げ、スマホをそのまま床に叩きつけた。


「この女ッ……ケーキくらいで何よ! 自分だけが特別とか思ってんの!?どうせ刹夜さまはそんなもん食べるわけないんだから!」


怒りは膨れ上がり、理性のフタを吹き飛ばす。


千紗は即座に裏アカウントを開き、SNSにログイン。

そして、記事のコメント欄に次々と書き込みを始めた。


――「みんな知らないだろうけど、この女ヤバいよ」

――「家は超貧乏、中学の頃からパパ活で金稼いでたって。変な病気ももらってるらしいし」

――「九条家の若さまにはもっとちゃんとした人がふさわしいよね」


すると、SNS上では星宮恋夏のファンから反撃のコメントが殺到した。


レスバは泥仕合と化し、千紗の指は止まらない。


そんな中――

九条刹夜が帰宅した。


……ただし、彼が向かったのは、千紗のいる母屋ではなく、離れの棟。


彼は静かに玄関を抜け、寝室を覗くと――

鈴羽は、まだブランケットにくるまって眠っていた。


彼女を起こさないように、そっと書斎に入る。


それからしばらくして――

やがて鈴羽が目を覚まし、リビングに出たとき。


テーブルの上には、見覚えのないピンク色のハート型ケーキ。

可愛らしいデコレーション。

そして、その隣には、九条刹夜のジャケット。


……瞬間、怒りが湧き上がった。


何も言わず、鈴羽はまっすぐケーキの前へと歩み寄り――

そのまま、手でケーキをぐしゃっと潰した。


クリームが指の間からあふれ、テーブルに散らばる。

ちょうどその時。


「……おい、何してんだ」


背後から聞こえた、低くも冷静な声。

振り返ると、そこには刹夜がいた。


「……ケーキを食べてるんですけど。見ればわかるんじゃないんですか」


鈴羽はむくれた表情でそう言いながら、手に付いたクリームをそのまま口に運んだ。


頬や口元にクリームをつけた姿は、どこか子どもっぽくて滑稽だったが――

それが彼女なりの、必死の抵抗だった。


きっと怒られる、そう思っていた。

だけど――


「ぷっ……」


予想に反して、刹夜は笑った。


「……お前、子どもか?ケーキを手で食うとか、独特な食べ方だなー」


と彼はからかう。


「…………」


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