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第70話 ケーキ事件


「ええ、私が許します。あなたが刹夜を誘惑することを」


徳川花怜は、いつも通りの余裕をたたえた笑みを浮かべながら、ソファに座る星宮恋夏を見下ろしていた。


「でも……なぜ、そんな……?」


星宮は戸惑い、恐れすら感じていた。

そんな寛容な発言、到底信じられなかった。


徳川花怜は、どう見たってそんな度量の広い女性ではない。


いや、彼女のような令嬢でなくても――

普通の女性だって、自分の旦那を他の女に誘惑させるなんて、まずありえない。


まあ、正式に婚約したわけではないけど――

でも、九条家と徳川家の縁談は、世間ではすでに確定事項のように扱われている。


「星宮さん。私がやれと言ったらやりなさい。いちいち理由を聞くんじゃないわ。これはね……私の運命なのよ」


花怜は面倒そうに手を振る。


「ですが……」


星宮がさらに何かを口にしかけた瞬間――


「もう、“ですが”は聞き飽きたわ」


ピシャリと遮られる。


「せっかくチャンスをあげているの、感謝しなさいな。私が、誰にでもこんなにやさしいと思ったら大間違いよ?」


花怜の目に一瞬浮かんだ影が、星宮の胸にゾクリと冷たいものを走らせた。


――やっぱり、この人は怖い。

でも、逆らうわけにもいかない。


何と言っても、今の星宮にとって徳川花怜はスポンサーであり、業界的にも絶対に敵に回せない存在だ。


理由はどうあれ、刹夜への接近を許されたのは、むしろチャンス。


――もし本当に、刹夜が自分に心を傾けてくれたら?


男なんて、所詮は下半身で考える生き物。


芸能界で何年もやってきた星宮恋夏には、恋愛の駆け引きにはそれなりに自信がある。

だったら――やってみる価値はある。賭けてみよう。


花怜からお墨付きをもらった星宮は、これまでよりもさらに大胆になった。


彼女は、あえて自分と彼の関係が噂になっているのを知りながら――

堂々とケーキを届けに行ったのだった。


しかも、自らケーキショップへ足を運び、自分の手でピンク色のハート型ケーキを焼き上げたという徹底ぶり。


向かった先は、刹淵組が経営する系列会社。

スマートフォンなどを開発する、ハイテク系の企業だった。


「若様、星宮さまがお見えです」

「……星宮?」


刹夜は一瞬考え込む。

何度か顔を合わせたことはあるが、名前はまだ曖昧なままだった。


「あの……歌手の」

「……ああ。で、用件は?」


冷淡な目で平吾を一瞥する。


「差し入れをお持ちになったとかで……」


いつもの彼なら、迷わず「帰れ」と追い返すところだった。


だが、今は鈴羽が妊娠している。

世間の目を逸らすためにも、他の女が近くにいたほうが都合がいい。


そこへ、星宮恋夏――それなりに話題性があり、使える女が、わざわざ自分から飛び込んできたのだ。


「通せ」

「……かしこまりました」


平吾は刹夜の意図が読めず、少し困惑していた。

――明らかに興味なさそうなのに……なぜ?


そもそも、双子の姉・月島千紗のことすら、すでに扱いがぞんざいになっているのに。

なのに、なぜ今さら星宮を受け入れるのか。


問いただしたい気持ちが喉元までせり上がったが――

それを口にする勇気はなかった。


まさか刹夜が鈴羽の妊娠を知った上で、子どもを産ませるつもりで動いているとは……彼はまだ知らない。


それは、毎日彼女の傍に付き添う恵美さんすら、まだ知らされていない秘密だった。



この日、星宮恋夏はドルチェ&ガッバーナのオートクチュールのワンピースに身を包み、完璧なメイクと笑顔で刹夜のオフィスを訪れた。


手には、リボンで丁寧に飾られた小ぶりなケーキボックス。


「九条さま。昨夜は、お食事にお付き合いくださってありがとうございました」


「気にするな」


刹夜の声は抑揚なく、目も合わせない。


「本当なら、私がご馳走すべきだったのに……。お会計に行ったら、もう支払いが済んでて。すごく……申し訳なくて」


星宮はあくまで礼儀正しく振る舞った。


「女に金を出させる趣味はない」


刹夜は相変わらずの横柄な口調だった。


「ありがとうございます……。それで、これはその……お礼というか、気持ちだけなんですが。

 今朝、新曲のレコーディングが終わったあと、ケーキショップで自分で作ったんです」


そう言って、彼女はケーキの箱を開けた。

そこには、可愛らしいピンク色のハート型ケーキ。


彼女は刹夜の反応を、食い入るように見つめていた。

喜んでくれる――その一瞬を信じて。


けれど。

彼の顔には、微笑みどころか、何の感情も浮かんでいなかった。

冷たいほどに、無表情だった。


「そこに置け」


刹夜の目は一度もケーキを見なかった。


「えっと……せっかくだから、一口だけでもいかがですか……? 

 使ったのは全部、輸入の高級クリームなんです。甘さも控えめで、最近北海道で話題の映えケーキに似てる味ですよ!」


自信たっぷりにそう語る彼女に対し、刹夜の返事は冷ややかだった。


「結構。今は食欲がない」


ばっさりと断られた。

一瞬、表情が引きつりかけた星宮だったが、すぐに笑顔を取り戻す。


「そうですか……では、お仕事が終わったあとにでも、ゆっくり召し上がってくださいね」


そう言って、礼儀正しく一礼し、彼女はオフィスを後にした。



エントランスを出た瞬間、フラッシュが弾ける。


「星宮さん、今日は九条さんとデートですか!?」

「交際が正式に始まったって本当ですか!?」

「最近、二人がとても親しいように見えますが、関係が進展していると考えてよいのでしょうか?」


記者たちの問いかけに、星宮はにこやかな微笑みを浮かべた。


「皆さん、ご関心ありがとうございます。

 九条さまと私は……確かにとても仲の良い友人です。


 昨晩のニュース、ご覧になった方も多いと思います。私が九条さまをお誘いしたんです。

 でも、お支払いは彼がされて……。私、すごく恐縮で……。


 それで今日は、ささやかながら手作りのケーキを差し入れに来たんです。


 それ以外のことについては、皆さんあまり憶測しないでくださいね。


 私へのご関心はとても光栄ですが、よろしければ――

 ぜひ私の新曲『春に降る雪』にも注目してください。来週、アジア全域でリリースされますので、たくさん聴いていただけたら嬉しいです」


そう締めくくると、彼女は軽やかに手を振り、用意された車へと乗り込んでいった。


――さすが芸能界の人間、話術も処世も抜群。

誰も敵に回さず、それでいて言いたいことはしっかり言う。


「彼が支払った」ことも、「今日ケーキを持参した」ことも、

さりげなく印象に残しつつ、しっかり新曲のプロモーションまで。


この短いやり取りに、盛り込まれた情報はあまりにも多かった。


恋夏と刹夜の関係は、すぐさま“注目カップル”としてSNSを騒がせ始めた。

――ただし、それは彼女の知名度ゆえではない。


実際、彼女はこの土地ではまだそこまでの人気はない。

初のブランド契約も、徳川花怜のコネによるものだった。


だが、相手が“九条刹夜”となれば話は別。

彼は、街の若者たちの間で絶大な人気と関心を集めている。


最大勢力のヤクザ組織に生まれ、次代の頭首としてのカリスマ性。

加えて、洗練されたルックスに、徳川家の令嬢との噂。


そのすべてが、人々の好奇心と憧れをかき立てていた。


若くしてすべてを手にした男――

人生の頂点に立つ者とは、まさにこういう存在なのだろう。



その頃、テレビでは当日の星宮の映像が繰り返し流れていた。

淡いピンクのワンピースに笑顔を添えて、記者の問いかけに完璧な対応。


「……可愛い」「美人すぎる」「さすがプロ」「会話がうまい」――

テロップと視聴者の声が、画面を賑わせている。


テレビの前に座る鈴羽は、黙ったままその様子を見つめていた。


表情はまったく変わらない。

けれど、胸の奥では、言葉にならない感情が静かに渦巻いていた。


そのとき、後ろからやさしい声がかけられる。


「奥さま、何か召し上がりますか?」

「大丈夫です。今はあんまり食欲が……」


鈴羽はやんわりと答えた。


「それはいけませんよ。妊婦さんは、空腹を感じてからじゃ遅いんです。お腹の赤ちゃんにも、ちゃんと栄養をあげなくては」


そう言いながら、恵美さんもテレビに目をやった。

そこには、にこやかに記者に手を振る星宮の姿。


しばらく画面を眺めて――恵美さんはようやく気づく。

鈴羽が、なぜこんなにも元気をなくしているのか。


そっと鈴羽の隣に座り、少し声を落として言った。


「奥さま、どうかご安心ください。若様があの方に本気だなんて、ありえませんよ。

 男の人って、社交の場では、ある程度の演技も必要なんです。……あれは付き合い。見せかけに過ぎません」


「そう、でしょうか……」


その声には、どこか力がなかった。

しばらく黙っていた鈴羽が、ふいにぽつりと呟く。


「でも……私には、彼が私といるときのほうが……演技してるように見えるんです」


その言葉には、

小さな痛みと、寂しさと――

そして、ほんのわずかなあきらめが混ざっていた。


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