「ええ、私が許します。あなたが刹夜を誘惑することを」
徳川花怜は、いつも通りの余裕をたたえた笑みを浮かべながら、ソファに座る星宮恋夏を見下ろしていた。
「でも……なぜ、そんな……?」
星宮は戸惑い、恐れすら感じていた。
そんな寛容な発言、到底信じられなかった。
徳川花怜は、どう見たってそんな度量の広い女性ではない。
いや、彼女のような令嬢でなくても――
普通の女性だって、自分の旦那を他の女に誘惑させるなんて、まずありえない。
まあ、正式に婚約したわけではないけど――
でも、九条家と徳川家の縁談は、世間ではすでに確定事項のように扱われている。
「星宮さん。私がやれと言ったらやりなさい。いちいち理由を聞くんじゃないわ。これはね……私の運命なのよ」
花怜は面倒そうに手を振る。
「ですが……」
星宮がさらに何かを口にしかけた瞬間――
「もう、“ですが”は聞き飽きたわ」
ピシャリと遮られる。
「せっかくチャンスをあげているの、感謝しなさいな。私が、誰にでもこんなにやさしいと思ったら大間違いよ?」
花怜の目に一瞬浮かんだ影が、星宮の胸にゾクリと冷たいものを走らせた。
――やっぱり、この人は怖い。
でも、逆らうわけにもいかない。
何と言っても、今の星宮にとって徳川花怜はスポンサーであり、業界的にも絶対に敵に回せない存在だ。
理由はどうあれ、刹夜への接近を許されたのは、むしろチャンス。
――もし本当に、刹夜が自分に心を傾けてくれたら?
男なんて、所詮は下半身で考える生き物。
芸能界で何年もやってきた星宮恋夏には、恋愛の駆け引きにはそれなりに自信がある。
だったら――やってみる価値はある。賭けてみよう。
花怜からお墨付きをもらった星宮は、これまでよりもさらに大胆になった。
彼女は、あえて自分と彼の関係が噂になっているのを知りながら――
堂々とケーキを届けに行ったのだった。
しかも、自らケーキショップへ足を運び、自分の手でピンク色のハート型ケーキを焼き上げたという徹底ぶり。
向かった先は、刹淵組が経営する系列会社。
スマートフォンなどを開発する、ハイテク系の企業だった。
「若様、星宮さまがお見えです」
「……星宮?」
刹夜は一瞬考え込む。
何度か顔を合わせたことはあるが、名前はまだ曖昧なままだった。
「あの……歌手の」
「……ああ。で、用件は?」
冷淡な目で平吾を一瞥する。
「差し入れをお持ちになったとかで……」
いつもの彼なら、迷わず「帰れ」と追い返すところだった。
だが、今は鈴羽が妊娠している。
世間の目を逸らすためにも、他の女が近くにいたほうが都合がいい。
そこへ、星宮恋夏――それなりに話題性があり、使える女が、わざわざ自分から飛び込んできたのだ。
「通せ」
「……かしこまりました」
平吾は刹夜の意図が読めず、少し困惑していた。
――明らかに興味なさそうなのに……なぜ?
そもそも、双子の姉・月島千紗のことすら、すでに扱いがぞんざいになっているのに。
なのに、なぜ今さら星宮を受け入れるのか。
問いただしたい気持ちが喉元までせり上がったが――
それを口にする勇気はなかった。
まさか刹夜が鈴羽の妊娠を知った上で、子どもを産ませるつもりで動いているとは……彼はまだ知らない。
それは、毎日彼女の傍に付き添う恵美さんすら、まだ知らされていない秘密だった。
*
この日、星宮恋夏はドルチェ&ガッバーナのオートクチュールのワンピースに身を包み、完璧なメイクと笑顔で刹夜のオフィスを訪れた。
手には、リボンで丁寧に飾られた小ぶりなケーキボックス。
「九条さま。昨夜は、お食事にお付き合いくださってありがとうございました」
「気にするな」
刹夜の声は抑揚なく、目も合わせない。
「本当なら、私がご馳走すべきだったのに……。お会計に行ったら、もう支払いが済んでて。すごく……申し訳なくて」
星宮はあくまで礼儀正しく振る舞った。
「女に金を出させる趣味はない」
刹夜は相変わらずの横柄な口調だった。
「ありがとうございます……。それで、これはその……お礼というか、気持ちだけなんですが。
今朝、新曲のレコーディングが終わったあと、ケーキショップで自分で作ったんです」
そう言って、彼女はケーキの箱を開けた。
そこには、可愛らしいピンク色のハート型ケーキ。
彼女は刹夜の反応を、食い入るように見つめていた。
喜んでくれる――その一瞬を信じて。
けれど。
彼の顔には、微笑みどころか、何の感情も浮かんでいなかった。
冷たいほどに、無表情だった。
「そこに置け」
刹夜の目は一度もケーキを見なかった。
「えっと……せっかくだから、一口だけでもいかがですか……?
使ったのは全部、輸入の高級クリームなんです。甘さも控えめで、最近北海道で話題の映えケーキに似てる味ですよ!」
自信たっぷりにそう語る彼女に対し、刹夜の返事は冷ややかだった。
「結構。今は食欲がない」
ばっさりと断られた。
一瞬、表情が引きつりかけた星宮だったが、すぐに笑顔を取り戻す。
「そうですか……では、お仕事が終わったあとにでも、ゆっくり召し上がってくださいね」
そう言って、礼儀正しく一礼し、彼女はオフィスを後にした。
*
エントランスを出た瞬間、フラッシュが弾ける。
「星宮さん、今日は九条さんとデートですか!?」
「交際が正式に始まったって本当ですか!?」
「最近、二人がとても親しいように見えますが、関係が進展していると考えてよいのでしょうか?」
記者たちの問いかけに、星宮はにこやかな微笑みを浮かべた。
「皆さん、ご関心ありがとうございます。
九条さまと私は……確かにとても仲の良い友人です。
昨晩のニュース、ご覧になった方も多いと思います。私が九条さまをお誘いしたんです。
でも、お支払いは彼がされて……。私、すごく恐縮で……。
それで今日は、ささやかながら手作りのケーキを差し入れに来たんです。
それ以外のことについては、皆さんあまり憶測しないでくださいね。
私へのご関心はとても光栄ですが、よろしければ――
ぜひ私の新曲『春に降る雪』にも注目してください。来週、アジア全域でリリースされますので、たくさん聴いていただけたら嬉しいです」
そう締めくくると、彼女は軽やかに手を振り、用意された車へと乗り込んでいった。
――さすが芸能界の人間、話術も処世も抜群。
誰も敵に回さず、それでいて言いたいことはしっかり言う。
「彼が支払った」ことも、「今日ケーキを持参した」ことも、
さりげなく印象に残しつつ、しっかり新曲のプロモーションまで。
この短いやり取りに、盛り込まれた情報はあまりにも多かった。
恋夏と刹夜の関係は、すぐさま“注目カップル”としてSNSを騒がせ始めた。
――ただし、それは彼女の知名度ゆえではない。
実際、彼女はこの土地ではまだそこまでの人気はない。
初のブランド契約も、徳川花怜のコネによるものだった。
だが、相手が“九条刹夜”となれば話は別。
彼は、街の若者たちの間で絶大な人気と関心を集めている。
最大勢力のヤクザ組織に生まれ、次代の頭首としてのカリスマ性。
加えて、洗練されたルックスに、徳川家の令嬢との噂。
そのすべてが、人々の好奇心と憧れをかき立てていた。
若くしてすべてを手にした男――
人生の頂点に立つ者とは、まさにこういう存在なのだろう。
*
その頃、テレビでは当日の星宮の映像が繰り返し流れていた。
淡いピンクのワンピースに笑顔を添えて、記者の問いかけに完璧な対応。
「……可愛い」「美人すぎる」「さすがプロ」「会話がうまい」――
テロップと視聴者の声が、画面を賑わせている。
テレビの前に座る鈴羽は、黙ったままその様子を見つめていた。
表情はまったく変わらない。
けれど、胸の奥では、言葉にならない感情が静かに渦巻いていた。
そのとき、後ろからやさしい声がかけられる。
「奥さま、何か召し上がりますか?」
「大丈夫です。今はあんまり食欲が……」
鈴羽はやんわりと答えた。
「それはいけませんよ。妊婦さんは、空腹を感じてからじゃ遅いんです。お腹の赤ちゃんにも、ちゃんと栄養をあげなくては」
そう言いながら、恵美さんもテレビに目をやった。
そこには、にこやかに記者に手を振る星宮の姿。
しばらく画面を眺めて――恵美さんはようやく気づく。
鈴羽が、なぜこんなにも元気をなくしているのか。
そっと鈴羽の隣に座り、少し声を落として言った。
「奥さま、どうかご安心ください。若様があの方に本気だなんて、ありえませんよ。
男の人って、社交の場では、ある程度の演技も必要なんです。……あれは付き合い。見せかけに過ぎません」
「そう、でしょうか……」
その声には、どこか力がなかった。
しばらく黙っていた鈴羽が、ふいにぽつりと呟く。
「でも……私には、彼が私といるときのほうが……演技してるように見えるんです」
その言葉には、
小さな痛みと、寂しさと――
そして、ほんのわずかなあきらめが混ざっていた。