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第69話 私が許すわ


午前四時。

空はまだ深い闇に包まれ、夜が明ける気配すらない。


鈴羽はすっかり深い眠りに落ちていた。


寝相はお世辞にもいいとは言えず、布団を半分蹴飛ばした状態で、だらしなく横たわっている。

それに、着ているパジャマも子供っぽい。


大人の女性なら、もう少し落ち着いた雰囲気のものを選びそうなものだけど……

鈴羽が着ていたのは、いちごの柄が散りばめられた、いかにも少女趣味なものだった。


彼女の心の奥には、まだあどけなさが残っているのかもしれない。


九条刹夜は、そんな鈴羽の寝顔をしばらくじっと見つめていた。


不思議と――少し、かわいいと思ってしまった。


たぶん、自分の周りで、唯一素のままで接してくれるのは鈴羽だけなのかもしれない。


他の人間は皆、仮面をかぶっている。


組の連中は、彼に対して常に緊張している。

両親もまた、どこかよそよそしく、適度な距離を保ち続けていた。


徳川花怜はプライドの塊で、強気の演技を崩さない。


星宮恋夏――あの歌手も、いかにも「いい子」を演じているのが見え見えだった。

芸能界の女性は、みんな自分のイメージを作っていて、素の自分をさらけ出すなんてことはしない。


――でも、鈴羽だけは違う。

昨夜、眠る直前にぽつりと口にしたあの言葉が、耳から離れない。


『ねぇ、刹夜さん……あなた、実はもうすぐパパになるんだよ』


そのひと言が、彼の心の奥を深く揺さぶった。

何かが、少しずつ、静かに溶けていくような感覚。


彼女の身体に宿っている命は、二人の繋がりの証だ。


その事実を思い出すたびに――

彼は、もう手を下すことなんてできなかった。


けれど同時に、冷静な自分がこう囁く。

この子どもを生ませることはあまりにも危うい、と。


徳川家も、九条家も。

どちらも、きっとこの子を許さない。


刹夜は、静かに視線を落とし、鈴羽の頬にかかる髪をそっと払った。

そして、誰にも気づかれないように寝室を後にした。


――夜が明ける前に、月島千紗のもとへ戻らなければならない。


鈴羽をここに移したのは、時間差を利用するため。

世間には、彼が毎晩千紗のそばで過ごしているという証拠が必要だ。


その夜の残りも、彼は屋敷の書斎に身を横たえていた。

やがて朝になり、千紗が彼に気づく。


ちょうど、恵美さんが来て朝食の準備をしていた頃だった。


「刹夜さまぁ~! いつ帰ってきたの?全然気づかなかった!」

「昨日の夜」

「えーっ!?じゃあなんで部屋で寝なかったのっ!」

と、千紗は不満そうに唇を尖らせた。


「お前の睡眠を邪魔したくなかっただけ」

「私は平気よ!むしろ、刹夜さまにぎゅってしてほしかったのに……」


そう言って、千紗は刹夜の腕に手をかけろうと――

が、彼は自然な動きでそれをかわした。


その瞬間、千紗の脳裏に昨晩見たニュースがふっとよぎる。


「……ねえ、昨夜は誰と食事してたの?」

「歌手の星宮」


刹夜は淡々と答えた。


「もしかして……その人のこと、気になってる?」

「ない」


「よかったぁ……。でも、あっちは絶対刹夜さまのこと狙ってるわよ!


 芸能界の女なんて、腹の中真っ黒なんだから。汚いったらないわよ。


 ああいう女はねぇ、売れるために何人の男と寝たか分からないし、性病のひとつやふたつ持ってるに決まってる!」


言葉遣いの荒さは、相変わらずだった。

一応、彼女もそれなりの大学も出ているのに、この口の悪さは直らない。


鈴羽は田舎育ちで、教育だって決して恵まれてはいなかったけれど――

少なくとも、見ず知らずの女性にここまでの悪意を向けるような人間じゃない。


……そこが、どうしても受け入れがたい。


「もう少し言葉を慎め」


刹夜は静かに眉をひそめた。


「だって、本当のことなんだもん!大げさに言ってるつもりなんてないのよ……!

 私が子供の頃、近所のお兄さんが女優と付き合って、梅毒をうつされたって――」


千紗の話が終わる前に、刹夜は無言で立ち上がり、部屋を出た。


「えっ……?刹夜さま……? どこ行くの?朝ごはんまだなのに……」


でも、彼の背中はすでに遠ざかっていた。


――吐き気がするほど、気分が悪かった。


扉が静かに閉まる音が、やけに重く響いた。


恵美さんは、呆れたように月島千紗を一瞥した。

――この子は決してただのバカじゃない。むしろ、時に驚くほど計算高い。


けれど、それを台無しにするのが、あまりにひどい言葉遣いだった。


「汚い女」「ビッチ」「性病」「梅毒」……。

男の気を引くためなら、女性を貶めるような言葉も平気で口にする。

――自分も女のはずなのに。


恵美さんは思い返す。

かつて一年間、鈴羽の身の回りの世話を任されていた。


その間、鈴羽がそんな下品な言葉を口にしたのを一度たりとも聞いたことがなかった。


――やっぱり、双子でも違うものね。

性格も、育ち方も、そして根っこの人間性も。


「月島さん。若様のご実家は由緒ある名家です。皆さま、上流階級の方々ばかり。下品な言葉は、慎まれたほうがよろしいかと。

 ……若様も、そういった女性をお好みにはならないでしょう」


あくまで穏やかに、恵美さんは諫めた。


けれど――


千紗は、逆にカッとなった。

手元にあった朝食を、勢いよく床に叩きつける。


「……あんた、何様のつもり?たかが家政婦のくせに、私に説教?

 身の程をわきまえなさいよ。私は刹夜さまの女よ?あんたみたいな下働きに口出しされる筋合いないから!」


怒気を込めた千紗の声に、恵美さんはただ小さくため息をついた。


「チッ、ほんとうっとうしい……。刹夜さまがやさしいからって、調子に乗ってんじゃないわよ。私だったらとっくに実家に帰らせてるわ。金さえ出せば、あんたより優秀な家政婦なんていくらでも雇えるんだから」


そう吐き捨てて、千紗は朝食も取らずに寝室へ戻り、服を着替えて外へ出ていった。


刹夜が自分に会いに来ない時は、千紗も意外と自由に過ごしている。


むしろ、金持ちになったことで、育ててくれた両親のことなどすっかり忘れてしまったかのように――

毎日買い物に出かけ、美容皮膚科で肌のメンテナンスをし、ジムに通い、ゴルフまで習い……。


そして、いかにも“上流夫人”といった雰囲気の人々と友達になり、アフタヌーンティーに出かける。

自分もその仲間入りをしようと必死に取り繕っていたようだ。



一方その頃――

徳川花怜は自分の経営するジュエリー会社に、星宮恋夏を呼び出していた。


昨夜の報道を見ていた星宮は、何の件かすぐに察した。


向かう道中、ずっと緊張で胸が苦しかった。

静まり返った社長室の扉を、恐るおそるノックする。


「お入りなさい」


花怜の声は、いつも通り静かで優雅だった。


「……徳川さま、今日はお呼びいただきありがとうございます」


星宮は深く頭を下げる。


「どうぞ、お掛けになって」

「失礼します」


彼女は緊張しながらも、ソファに腰を下ろす。


そのとき――

花怜が静かに歩み寄ってくる。

そして無言で手を伸ばし、星宮の顎をきゅっと掴んだ。


「……なるほど。確かに顔は悪くないわね。男をその気にさせる手も、多少は持ってるのかしら。刹夜を誘えるくらいには、ね」


「徳川さま、それは誤解で……!」


星宮は慌てて否定しようとした。

契約を切られたら、芸能人としての今後に大きな支障が出る――それだけは避けなければならない。


「……あら、何かを説明してくれるの?私の婚約者をどうやって口説いたのかでも?


 ……にしても大したものね。私の男だとちゃんと知ってたくせに、それでもこっそり手を出すなんて、いい度胸してるじゃない」


花怜の鋭い視線が、氷のように突き刺さる。


次の瞬間――

鋭く整えられた爪が、星宮の頬をひっかいた。


細く、浅い傷が一本――

そこから、にじむように血が滲んだ。


痛みよりも、恐怖のほうが勝っていた。

顔色が、さっと青ざめる。


「……徳川さま。たしかに、私は……九条さまのことが好きです。


 でも、あなたに敵うとも思っていません。あなたが婚約者だと分かっていますし、私なんかが張り合えるわけもないことくらい、分かってます。


 昨日は……ただ一緒に食事したかっただけなんです。本当にそれだけで……それ以上のことは何もしていません。信じてください……」


花怜はじっと星宮を見つめたまま、表情ひとつ変えなかった。

そして――


「……いいわ。あなた、彼を誘惑してもいいわ」

「……え?」


星宮はさすがに耳を疑った。


「九条刹夜を誘惑してもいいって言ってるのよ。私が許すわ」


その声音は、まるで刃物のように冷たく硬い。


「徳川さま……それ、本気でおっしゃってるんですか……?」


星宮は、信じられないというように唇を震わせた。


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