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第68話 気が変わった


鈴羽はずっとおとなしくしていたのに、急に反抗的になったのがちょっと面白かった。


それに、その反抗はただご飯を作ってくれないだけだし。

刹夜もその程度で怒るわけがない。


彼が本当に怒るのは、彼女が逃げようとしたり、離れようとしたり、自分を大事に思っていないと感じた時だけだ。


「はいはい。でもホントに腹減ってんだ」

「外で豪華なディナーでも食べたんじゃないですか」


鈴羽は少し意地になった口調で言った。

刹夜はその言葉に一瞬驚いた顔を見せた。


「そんな目で見ないでくださいよ。別に尾行したわけじゃないんですから。……ニュースで見たんですっ」


鈴羽が言い終わると、リモコンでテレビをつけた。

ニュースチャンネルでは、彼と女性歌手とのディナーが取り上げられていた。


『――今夜、刹淵組の若頭・九条刹夜氏が歌手・星宮恋夏氏と共にディナーをしているところがキャッチされた。

刹淵組が彼女を他の組織から救ったという噂があり、その後二人の関係が取り沙汰されている。

交際しているかは不明で、星宮氏本人は肯定も否定もしておらず、刹淵組側もコメントはありません。続報をお待ちください』


このニュースが注目を集めた理由は、もちろん九条刹夜自身の手によるものだった。


彼は徳川花怜に見せつけるために仕掛けたのだが、

予想に反して、鈴羽がそのニュースに気にしている様子だった。


「なるほど……つまり俺が他の女と食事してるのが気に入らなくて、嫉妬したんだー」


刹夜はその口元を少し緩め、どこか得意げに言った。

図星を突かれ、鈴羽は途端に落ち着かなくなる。


「ちがうし!嫉妬なんてするわけないんじゃないですか!私……別にあなたと何の関係も……」


鈴羽が顔を背けようとしたその時、刹夜は一気に歩み寄り、彼女を無理矢理抱きしめた。


「ちょっ、なにするんですか!」


鈴羽は驚いて声を上げた。


「作ってくれないなら……キス、するぞ」


刹夜はそう言うと、鈴羽の唇を強引に奪った。

久しぶりに感じるその感覚が、一気に胸に押し寄せてくる。


実は刹夜だけでなく、鈴羽もまた、彼に近づく度に特別な匂いをほんのりと感じていた。


香水のようなものではなく、男特有の汗の匂いに近い……。

うまく言えないが、ネットで調べたところ「フェロモンの香り」だとか。


でも、なぜか不思議なことに、

他の男性といる時には全く感じなかった。


以前のパン屋の大空や、別荘で一緒だった神楽坂流河といるときには、全く感じなかった。


十数秒にも及ぶキスで、鈴羽の頭は真っ白になる。

刹夜を押し離し、息を荒げながら彼を見上げる。


「……どう? まだ飯作る気ないなら、これ以上キスしてほしいってことだよな。

 俺は全然続けても構わないけど……一応言っておく。

 俺も普通の男だからな。これ以上キスしたら、もっと進んじゃうかもなー」


言いながら、彼は自分のベルトをゆっくりと解き始めた。


もちろん、彼はただ鈴羽をからかっているだけ。

鈴羽が妊娠していることを知っているから、無茶なことはしない。


しかし、鈴羽はそれを知らず、本気だと思い込み、慌てて後ずさる。


「ちょっ、待ってよ! 作るから! 作ればいいんでしょ……!」


「ふん。はよ行って来い。じゃないと……」

「……っ!」


鈴羽はすぐさまキッチンへ駆け込んだ。

まるでウサギのように慌てて走る鈴羽の姿に、刹夜は思わず笑みを浮かべた。


しばらくして、彼はふと気づいた。

自分は生まれてから、あまり笑ったことがなかった。


組や家の中でも、両親や他の人といても、笑うことはなかった。


でも、鈴羽と一緒にいると、不思議と心からリラックスできる。

彼女には、なぜかそんな魔力があるような気がする。


30分後、鈴羽は料理を持って出てきた。

熱々のラーメンだった。


「食材があまり揃ってなくて、ちゃんとしたのは作れませんでしたけど……まあ、我慢してください」


鈴羽は本当に適当に作ったつもりだった。

それでも、彼女の手料理は刹夜にとって特別だ。


一緒に暮らしていた一年間、何度も食べてきた。

決して絶品というわけではないけれど、どこか温かくて、忘れられない味。


刹夜は黙ったままダイニングに座り、ラーメンを食べ始めた。

食べ方はとても上品で、ゆっくり静かだった。


鈴羽は、ついその顔をじっと見つめてしまう。

くっきりとした顔立ち、完璧な容姿。


しかもスタイルも良く、ファッションセンスも抜群だ。

どんな服を着ても、絶妙に似合っている。


「そんなに見てどうした? あー、もしかしてさっきので欲しくなった?」

「ち、ちがう!勝手に言わないでください!」


鈴羽は顔を真っ赤にして反応する。


「じゃあじーっと見ないで、さっさと水を持って来い」


鈴羽は急いでキッチンに向かい、速やかに水を持ってきた。

そのラーメン、刹夜は満足げに食べ終えた。


そして、食べ終わった後も帰る気配はなく、そのまま鈴羽のベッドに上がり込んだ。


鈴羽は呆れて、今夜は他の部屋で寝るつもりで寝室を出ようとする。


「待て」

「な、なんですか」

「一緒に寝ろ」


鈴羽は少し怒り気味に言った。

「九条さん、私はあなたの添い寝係ではありません。勘違いしないでください」


「……とにかく今夜は一緒に寝ろ」


鈴羽がまだ何か言おうとしたその時、刹夜が再び口を開いた。


「別に何もしない……ただ寝るだけ。お前が望まない限り、俺は手は出さないから」


「……っ。望んだりしませんよ……」


鈴羽は小声でぶつぶつ言いながらも、さすがにそれ以上は逆らえず、

変なことをされるのが怖くて、ベッドに戻った。


妊娠初期は無理をするとダメだと、鈴羽も分かっていた。


無言のまま、そっと隣に横になった。


思えば、こうして一緒に何もせず寝るのは久しぶりだった。


以前も、生理の日は刹夜が何もせず、ただ一緒に寝てくれていた。

あの静かな日々は、もう随分昔のことのように思える……。


ベッドに入って間もなく、刹夜の大きな手がそっと鈴羽の腰に回された。


心臓が跳ね上がる。

けど次の瞬間、隣からは静かな寝息が聞こえてきた。

とても穏やかで、ぐっすり寝ているようだった。


鈴羽はそっと顔を向けると、彼は本当に眠っていた。


思わず、ほっと息をつく。

鈴羽は両手を、自分のまだ平らなお腹にそっと当てた。


今日、彼女は急に決意を変えた。

もう、この子を諦めたくない。


いつかチャンスを見つけて、刹淵組からも九条刹夜からも離れるつもり。

そして、誰も知らない場所で、この子を産んで育てたい。


だって、これから先、九条刹夜ほどの男にはもう出会えない気がしたから。

父親がこれだけ格好いいなら、きっと子どもも可愛く生まれてくるに違いない。


どんな気持ちであれ――

鈴羽は、この子を残したいと思った。


「ねぇ、刹夜さん……あなた、実はもうすぐパパになるんだよ」


小さな声で、そっと呟いた。

隣で眠っていた男のまつげが、かすかに動いた。


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