「あいつがどういう人間か、俺が一番よく分かってる」
九条刹夜の声は冷たかった。
「っ……お義母さま……!」
徳川花怜は今にも泣き出しそうだった。
水穂が婚約の話を持ち出した途端、刹夜の態度はあまりにも冷淡で、はっきりと拒絶までした。
自分に興味がないのは明らかだった。
すべては――月島千紗のせいだと、彼女は思っていた。
あの女のどこがいいのか、花怜には理解できない。
浪費家で、成金趣味がひどくて、言葉遣いも下品。
しかも、元カレまでいたと噂されている。
潔癖症で有名な刹夜が、なぜそんな「汚れた女」に惹かれるのか……。
まさか、親友が言っていたように――
“あの女、夜のテクニックがすごいって話よ。それで刹夜を虜にしたんじゃない?”
そんな下劣な手で気を引くなんて、自分は絶対に真似できない――。
だって自分は、徳川家の令嬢。
高貴な家の娘。
……たとえ九条刹夜が愛していなくても、必ず結婚する運命になる。
「……もういい!」
花怜は怒って立ち上がり、そのまま出て行った。
「花怜さん……」
水穂が追いかけようとしたが――
「追わなくていい。うるさいだけだ」
刹夜が冷たく言い放ち、制した。
水穂は何とも言えない表情で息子を見つめた。
「いずれにしろ花怜さんと結婚することになるのよ。いつまで逃げ続けるつもり?
もし、本当にあの女のせいで踏み出せないのなら……結婚してから彼女と付き合えばいいじゃない。誰にも邪魔されないわ。
徳川家との縁談だけは邪魔しないでくれない?」
その言葉に、九条刹夜は明らかな嫌悪を込めて母を見つめ――
「……母さんは、父さんのこと……愛してたの?」
水穂は一瞬、動揺した。
「愛していたなら――どうして、他の女がいたのに平然としていられたの?
他人と夫を分かち合うなんて、愛していたらできるはずがない。
もし愛していなかったのなら――どうして彼と結婚したの? 自分の人生を無駄にしてまで?」
水穂は何も答えられなかった。
そして、思わず自問した。
私は……愛していたのだろうか。
――きっと、若い頃は愛していたはず。
あの頃の彼もまた、若くて野心に溢れていた。
今の刹夜のように、何も恐れず、傲慢で、そして魅力的だった。
女は強い男に惹かれるもの――。
彼との間にも、確かに甘い時間はあった。
けれど、いつしか他の女たちが現れ、
それが自分たちの「宿命」なのだと思うようになった。
「刹夜……これが、私たちの宿命なのよ。あなたは九条家に生まれた。だからこそ、背負わなければならないものがある」
それを聞いた九条刹夜は、冷笑を浮かべながらゆっくりと立ち上がり、テーブルの白いナプキンで手を拭った。
「宿命なんて、俺が決める。
身を任せるなんてのは都合のいい言い訳だ。結局は、自分の損得勘定で選んでるだけだろ」
そう言い残し、彼は部屋を後にした。
水穂は溜息をつきながら、外へと出る。
白髪の老執事がすぐさま傘を差し出し、静かに声をかけた。
「奥さま……お気を落とさずに。
若様はまだ若いだけです。きっと、いつか分かってくださいますよ。奥様のお気持ちを」
水穂は無言で頷き、高級車に乗り込み、九条家へと戻っていった。
*
一方、刹夜は午後の支社の開業式に出席していた。
刹淵組は表向きは合法的な事業を展開しており、彼の名義で上場企業もいくつか存在する。
今回新たに始めたのは船舶運送業。
表向きは外貨取引の会社だが、裏では禁制品の輸送も担っていた。
そこで、再び彼は――星宮恋夏と出会う。
星宮は、花怜がプロデュースするジュエリーブランドの広告塔として一躍有名になったばかり。
その人気を利用し、頻繁に商業イベントにも顔を出している。
今回のイベントも、主催者が「九条刹夜と関係があるらしい」という噂を聞きつけ、喜ばせるために彼女を起用したのだった。
「九条さま……お久しぶりですね」
星宮は微笑みながら、やわらかな声で話しかけたが、
刹夜は軽く会釈するだけ。
「私のこと……覚えていらっしゃいますか?」
「ああ」
その返答は、実に素っ気なかった。
「海外に行かれたって聞いてたので……まさか、こんなに早くまたお会いできるなんて、驚きました」
「そう」
――興味のない人間にしかける最低限の返事だった。
「あの……九条さま、以前お送りしたメッセージ……ご覧になりましたか?」
「……メッセージ?」
彼は一瞬考えたが、記憶になかった。
その時適当に目を通し、ゴミ箱にまとめて消してしまった。
星宮恋夏の顔がこわばった。
「……いえ、なんでも……」
その後、開業式が始まる。
二人が話す機会はもうなかった。
約一時間後、イベントは無事に終了。
刹夜が帰ろうと車に向かうと、星宮があきらめきれず後を追ってきた。
「く、九条さま!よかったら……今夜、ご一緒に夕食でもいかがですか?」
普通なら、彼は即座に断るはずだった。
けれど、ほんの一瞬だけ、彼は躊躇し――
そして頷いた。
さらにそのディナーの様子は、わざとらしくカメラに撮らせていた。
どうせ花怜がこっちを監視しているのなら、ますます混乱させてやればいい。
徳川家が自ら手を引くなら、それが一番いい。
――そう、彼は徳川花怜と結婚する気はない。婚約すら望んでいなかった。
なぜそんなに強く拒絶してしまうのか、自分でもよくわからない。
ただ、気がつけば、頭の中にはどうしてもある女性の顔が浮かんでくる。
星宮恋夏は当然大喜びだった。
刹夜が自分に気があるのだと思い込んだ彼女は、
食事中もさりげなく自分が今生理中ではないことを匂わせてみせた。
「あの……九条さま、アイスコーラを頼んでもいいですか? 冷たいものを飲んでもいい日なので……」
星宮は可愛らしく笑ってみせる。
刹夜はその意図に気づいていながら、あえてスルー。
仕方なく、彼女は結局自分で店員を呼び、コーラを注文した。
けれど、食事が終わった後――
刹夜は何も言わず、さっさと車に乗って帰ってしまった。
星宮はその場に取り残された。
呆然と立ち尽くしながら、頭の中で必死に答えを探す。
――何がいけなかったの?
メイク? 服装? 話し方?
それとも徳川花怜の目を気にして、自分に手を出せなかったの?
一時間後。
ようやく気を取り直した彼女は、勇気を出して再びメッセージを送った。
――「私たちの間に何があっても、徳川さまには決して言いません。九条さまは、私にとってずっと特別な存在ですから」
……皮肉なことに、そのメッセージを最初に見たのは鈴羽だった。
その頃、刹夜は夕食を終えたあと、そのまま鈴羽の元を訪れていた。
部屋に入るなり、何も言わず風呂場へ直行。
スーツのジャケットとスマホをリビングのソファに無造作に置いたまま。
鈴羽は彼の上着をクローゼットにかけようと手に取ったとき――
スマホが震え、画面にメッセージの通知が浮かび上がった。
名前の登録はなく、差出人は不明。
けれど、そこに綴られていた言葉を見れば、誰が送ったのかは一目瞭然だった。
……徳川花怜ではない。
けれど、その徳川と顔見知りらしい口ぶり。
――なぜかイライラしてしまう。
でも、鈴羽は自分に言い聞かせるように、呟いた。
「……おかしいよね。誰と一緒にいようと私には関係ない。私なんてただのおもちゃなんだから、気にするのはむしろ姉さんの方……」
「何ブツブツ言ってる?」
ちょうどその時、刹夜が風呂から出てきた。
突然の声に、鈴羽はびくっとする。
「べ、別に……」
「豚骨ラーメ食いてぇ。作れ」
命令のような言い方に、鈴羽は眉をひそめた。
「家に具材とかないよ」
その答えに、刹夜の手が一瞬止まった。
バスローブの紐を結びかけていたその手が、ピクリと動く。
「……今日スーパーに行ったんじゃねぇのか?」
「うん。でも自分が食べたいものしか買ってませんよ。お菓子とか、果物とか。
だってあなたが来るなんて思ってませんでしたし。ラーメン食べたいなら、姉さんのところに行けば?」
そう言って、鈴羽は一歩、二歩と後ずさりした。
再び花瓶を投げられたり怒鳴られるのが怖かったのだ。
その子供じみた仕草に、刹夜は呆れながらも少しだけ口元が緩んだ。
「な、殴られても、ないものはないの。ていうかあっても作らないからねっ」
鈴羽はきっぱり言い放つ。
認めたくはないけれど、さっきのメッセージを見て腹が立っている。
だから絶対にラーメンなんか作ってやるもんか。