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第66話 買い物


『へぇ……ちゃんと覚えててくれたんだ。僕のこと』


神楽坂流河は皮肉めいた笑みを浮かべて言った。


『ヤクザの女なら、てっきりもう手の届かない存在かと思ってたよ』


彼の冷たい言葉にも、鈴羽は怒るどころか――逆に、ほんの少し希望を見出した。


……そう。

もしかしたら、逃げられるかもしれない――。


神楽坂家は、日本屈指の財閥だ。

もし流河が手を差し伸べてくれるなら……生き延びる可能性が、ほんのわずかでもあるかもしれない。


「流河さま、どうして私の居場所が……?」

『そんなの、僕や神楽坂家をなめてもらっちゃ困るなー』

「いえっ、ちょっとびっくりしただけで……」

『あの日すっぽかした理由もあの男のせいか?君を妊娠させた男の』


その一言に、鈴羽の心が大きく揺れた。


「……知ってたんですか」


彼は、彼女が妊娠していることさえも把握していた。


『この町なんて狭いもんだよ。僕が知りたいことを調べるなんて、朝飯前だ』

「……あの日は、わざとじゃなかったんです。あの時……っ」


言いかけたその瞬間――

電話が、一方的に切られた。


ツー、ツー、ツー――。


神楽坂流河は無言のまま、通話を終えた携帯を見つめる。

彼はもうかけ直そうとは思わなかった。


――大体、あの子の状況も立場も、想像がつく。



まさにその頃――

屋敷の玄関で、黒岩平吾がノックをしていた。


「奥さま」

「は、はい、どうぞ」


鈴羽は慌てて通話履歴を消し、平静を装ってドアを開けた。


「……何か、ありました?」

「いえ、本日は若のご命令で、奥さまをお買い物にお連れするようにと」

「買い物……?」

「はい。奥さまのお好きなお菓子や果物など、自由に選んで構わないと」


鈴羽には意図がよくわからなかったが、九条刹夜の指示とあっては断れなかった。


――1時間後。

ふたりは高級輸入スーパーにいた。


鈴羽はマスクを着けており、誰にも気づかれずに済む。


平吾は車から降りず、駐車場で待機していた。

人目につかないように配慮していただろう。


渡された買い物カードの上限は、なんと二百万円。

とても使いきれる金額ではなかったが……久しぶりの自由な買い物に、心が少し弾んだ。


妊娠しているせいか、やたらと酸っぱいものが食べたくなる。


梅干し、桃ジュースを数本、

さらにレモン味のキャンディー、レモン味のポテトチップスまでカゴに入れた。

果物は大好きな白桃とスイカをたっぷり。


車に戻ると、鈴羽は大きな買い物袋を黒岩平吾に渡した。


「あの……黒岩さん、お願いがあるんですが……」

「はい……?」

「こちらを……蛍ちゃんに届けてほしいんです。お菓子だけです」

「えっ……それはちょっと……」と、戸惑う平吾。


「お願いします……!今は会えないけど、どうしてもあの子に渡したいの。

あの子……無事ですよね?」


と、鈴羽は不安げに尋ねた。

平吾はすぐに答えた。


「はい、ご無事です。若も、彼女には手を出しませんから」

「よかった……。ありがとう、黒岩さん。いつもやさしく接してくれて」


そう言って彼を褒めちぎる鈴羽に、

(やさしいとかやめてくれ……俺は怖いヤクザなんだぞ)

と心の中で呟きつつ、結局断りきれずに引き受けた。


買い物を終えて屋敷に戻った鈴羽は、久しぶりに穏やかな気分だった。

一方、平吾はその一連の出来事をきちんと九条刹夜に報告した。


そのころ、刹夜は徳川花怜と水穂とともに食事中だった。

水穂の段取りで、三人での食事会となり、

花怜は今日もまた別のドレスに着替えていて、気品のあるイギリス風の小さな帽子を身につけていた。


どこから見ても、完璧なお嬢様。


……だが、刹夜の心は全然そこにはなかった。

彼の脳裏に浮かぶのは、ゴールデントライアングルに同行した、あの女の姿だけだった。


男装をして、ぶかぶかのスーツを着て、

妙に不器用で間抜けな、あの馬鹿な女――。


やがて平吾からメッセージが届く。


「若様、奥さまは買い物を終え、すでに戻られました。

お菓子や果物をたくさん買われて、機嫌も良さそうでした。

 それから……もう一袋多く買われて、小豆さんに届けてほしいと……。どういたしましょう?」


九条刹夜はスマホに目を落とし、メッセージを一瞥した後――


「届けてやれ」

とだけ返した。


「かしこまりました」


平吾はすぐに準備を整え、任務に向かった。


実際、蛍はもう学校に通っていた。


平吾にはわかっていた――

これは、刹夜が鈴羽のためにした配慮だと。


だが、刹夜の性格は厄介だ。

「蛍は学校に通っている」と言えば、鈴羽はきっと喜ぶはずなのに――

彼は絶対にそんなことは言わない。


むしろ、わざと冷たい言葉で鈴羽を怯えさせている。


平吾は独身で、女は多いがどれも一夜限りの相手ばかり。

恋愛なんてしたこともなければ、男女の感情なんて理解できない。

だからこそ、若と奥さまの関係もまったく理解できなかった。



――学校、昼休み。

昼休みの時間を使い、平吾は蛍にお菓子を届けに行った。


蛍が暮らしているのは、学校近くのアパート。

彼が手配した物件で、10畳ほどと小さめだが、環境は良く、生活に必要なものも揃っている。


家賃は全額支払ってあり、お小遣いも毎週欠かさず渡している。


今の生活は、彼女にとって夢のような日々だった。


ただ一つだけ――

鈴羽に会えないことを除いて。


「はい、これ。いっぱい食べな」


平吾が手渡すと、

「ありがとうございます、黒岩さん!」

と、蛍はぺこりと頭を下げた。


「俺に礼言う必要ないよ。俺じゃなく、おく……お姉ちゃんが買ったんだ」


平吾はあえて“奥さま”とは言わず、蛍にも分かるように伝えた。


「えっ、お姉ちゃん? 元気なんですか!?」


蛍の瞳が一気に輝く。


「うん、元気だよ。今日はスーパーにも行ってな、いっぱい買ってきたんだ。『蛍ちゃんに勉強頑張ってって』ってさ」


「……じゃあ、私、いつ会えるの?」


切なげな声で聞く蛍。


「まだ……しばらくは無理だけど……そのうち、きっとね」


平吾は多くを語らなかったが、蛍も勘がいい。

平吾たちがヤクザの人間であることも、刹夜が鈴羽お姉ちゃんの恋人であることも、うすうす理解していた。


「……わかりました。じゃあ、お姉ちゃんによろしく伝えてください…!」


蛍はお菓子と果物の袋を抱え、学校へ戻っていった。

平吾はその様子を見送りつつ、刹夜に報告のメッセージを送った。



――一方その頃。

豪華な個室のダイニングルームにて。


「刹夜、誰とチャットしてんの?」


徳川花怜が不機嫌そうに尋ねる。


「別に。組の仕事だ」


スマホをしまい、顔を上げる。


「ふーん。って刹夜、これ見てよ。お義母さまが贈ってくれたダイヤのネックレス!どう? 似合ってる?」


先日、花怜は一億円以上する腕時計を刹夜にプレゼントしていた。


それを知った刹夜の父も驚いたが、

水穂が代わりに礼を返す形で、数千万円もするダイヤモンドのネックレスを花怜に贈ったのだった。


当然、花怜は大喜び。


「ねえ、似合ってる? どう思う?」


花怜は嬉しそうに首を傾げた。


「……うん、まあな」 


刹夜は明らかに興味のない口調で答えた。

それを見た水穂が口を開く。


「刹夜、もう二人ともいい年なんだし、昔からの知り合いでもある。そろそろ婚約のことを考えてもいいんじゃない?

結婚まではまだでも、婚約式くらいはやってもいいでしょ」


花怜は頬を染め、刹夜を見つめる。


だが――

彼の答えは、冷たかった。


「……最近忙しい。しばらくは無理だ。後で考える」


その瞬間、花怜の表情が一変した。


「刹夜……まさかあの女のためじゃないでしょうね?

あのさ……あの女、全部演技なのよ!

あんたの前でおとなしいフリしてるだけ! 私の前では、とんでもなく無礼な態度取ってんだから!」


と、花怜は抑えきれない怒りをぶつけた。


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