男は冷笑を浮かべて言った。
「ここ俺の家だぞ?来ていけないのか?」
「ち、違う、そういう意味じゃ……。ただその……どうして姉さんのところに行かないのかなと思って……」
彼女の声はだんだん小さくなっていった。
九条刹夜はそのまま歩み寄り、彼女をソファから無理やり引きずり起こした。
「どうしていつも俺を他の奴のところに行かせようとする。……俺が来るのがそんなに嫌か?」
「そんなことないよ」鈴羽はすぐに答えた。
「違うなら、ちゃんと俺を喜ばせろ。俺が機嫌よくなれば、お前のお願いも聞いてやれるかもしれない。
たとえば……おばあちゃんに会いに行きたいとかな。それとも……もうあのガキに会いたくないのか?」
刹夜にそう言われて、鈴羽はさらに緊張を強める。
「お願い……無関係な人を巻き込まないで。みんな何も悪いことしてないの。
あなたが憎んでいるのは、私だけですよね?だったら全部私にぶつければいいんじゃない」
刹夜は怒りを抑えきれず、彼女の顎をきつく掴んだ。
「お前にぶつけるって?……てめぇ、自分の命がいくつあると思ってるんだ」
鈴羽は痛みに顔をしかめながらも、唇を噛んで答えた。
「一つしかないけど、あげるよ」
「……つまり、死んでも俺と一緒にいたくないってことか」
刹夜は彼女の言葉をまたもや曲解し、怒りを増幅させていく。
鈴羽は頑なな性格で、誤解されても言い訳することを好まない。
そのまま二人の間に、沈黙と張り詰めた空気が流れる。
しばらく彼女の唇を見つめていた九条刹夜は、衝動に駆られたように顔を近づけた。
だが鈴羽は、さりげなく身を引いて、拒絶の意志を見せた。
――そのたったひとつの仕草が、彼のプライドを粉々に砕いた。
刹夜は怒りにまかせて彼女を突き飛ばす。
鈴羽は後ろによろけ、背後にあった花瓶を倒してしまった。
花瓶が床に落ちて割れ、鋭い破片が彼女の手の甲を裂いた。
白い肌を伝って、鮮やかな赤が一筋流れていく。
鈴羽はその痛みに耐えながら、じっと彼を見つめた。
「……気が済みました? 済んだなら……私は掃除しなきゃいけませんので、失礼します」
そう言って、傷口を押さえながら、モップを取りに行こうとする。
彼女は――本当に矛盾した存在。
怖がりなのに、彼を騙し、逃げる度胸まである。
大胆かと思えば、常に怯えたように縮こまり、耐えてばかりいる。
刹夜は、そんな彼女がときどきまったく理解できなかった。
ただ、月島千紗が現れるまでの一年間――
鈴羽と同じ屋根の下で過ごしていたあの日々は、思っていた以上に穏やかだった。
彼女は口数が少なく、騒がず、目立たず、問題を起こさない。
静かで従順で、まるで空気のように――
だが今、彼が彼女に少しでも関心を向けると、必ず反発してくる。
さっきもそうだ。
ただキスしたかっただけなのに。
彼女は自分をなんだと思ってんだ。
自分以外他の女が見つけられないとでも?
刹夜は、思えば思うほど腹が立ち、最後には扉を思い切り閉めてその場を去った。
そして、彼が去った後。
鈴羽は、ようやく静かに息をつくことができた。
以前は彼のことが怖かった。
けれど今は、それ以上に怖い。
何を言っても、何をしても、間違えてしまう気がする。
そして何より――
この男に惹かれてしまいそうな自分が、いちばん怖かった。
彼を好きになったら、それこそが本当の地獄の始まり。
自分と彼の間には、あまりにも大きな溝がある。
そこに「幸せ」も「平等な恋」も存在しない。
あるのはただ、彼が一方的に押し付ける支配と、理由なき独占欲だけ――。
*
九条刹夜が出て行ったあと、鈴羽は部屋を片づけ終えて、ベッドに横になった。
彼女はそっとお腹に手を当てる。
「聞こえてる……? ママの声、届いてるかな……。
……ほんとはね、ママ、あなたを産みたいの。
でもね……ママじゃ、あなたを守れない気がする。
きっと、あなたの誕生を許してくれない。姉さんも、徳川家のお嬢さんも、そして……あなたのパパも。
みんなにとって、ママはただの……おもちゃ。
おもちゃには、赤ちゃんを抱く資格なんてないのよ
だから、ごめんね……。
ママ、あなたに……さよなら、しなきゃいけないの……」
そんな思いを胸に、お腹の赤ちゃんに語りかけながら眠りについたせいだろうか。
鈴羽は、夢を見た――。
それは広い、果てしない草原だった。
心地よい風が吹き抜けて、とても気持ちがよかった。
少し離れたところから、白いワンピースを着た小さな女の子が、ツインテールを揺らしながら駆けてくる。
「ママ――! ママ、だっこして!」
その愛らしい声に、鈴羽の胸に溢れるような母性が広がっていった。
彼女は両手を広げて、女の子を抱きしめる。
その顔をじっと見つめる。
……とても綺麗な顔立ち。
目元や鼻筋は、刹夜にそっくり。
でも、口元はどこか自分にも似ている気がした。
「ママだーいすき!ずっとそばにいてもいい?」
その無垢な瞳で見上げられて、胸がきゅうっと締めつけられた。
――でも、答える前に、夢はふっと途切れた。
時計を見ると、たったの一時間しか経っていなかった。
*
一方――
九条刹夜は、歩いて屋敷へと向かっていた。
そこは、月島千紗が住んでいる場所だった。
千紗は深く眠っていて、刹夜が戻ってきたことにも気づいていなかった。
刹夜は書斎に入り、そこで、先ほど鈴羽の部屋で割れたものと同じ花瓶を見つける。
次の瞬間、彼はその花瓶を思い切り叩き割った。
そして、飛び散った破片を自分の手の甲に当てて、わざと傷つけた。
眉ひとつ動かさない。
こんな小さな傷など、彼にとっては何でもない。
でも――
さっき、あの女はきっと痛かっただろう。
刹夜は、自分の衝動を悔いていた。
だから自分への罰のように、同じことを繰り返したのだった。
彼の中で、鈴羽の存在はいつも矛盾に満ちている。
この時の刹夜はまだ認めていない。
自分が彼女を、“愛している”なんてことを。
ただ、嘘をついた彼女を罰しているだけだと、自分に言い聞かせていた。
*
――翌朝。
千紗は刹夜が戻ってきたことに気づき、嬉しそうに声をかけた。
「帰ってきたんですね、刹夜さま!もう……なんで起こしてくれなかったの?」
「……仕事してた」と、刹夜は適当に答える。
そのとき、恵美が朝食を運んできて、二人はテーブルについた。
朝食を終えると、千紗は次々に何枚もワンピースを着替え始める。
「刹夜さま~どれが似合うと思う?」
「……どれでも」と、彼は興味なさそうに返す。
「ねえ、ひとつくらい選んでよぉ~」
千紗は甘えた声でせがむ。
刹夜は視線を上げることもなく、適当に指差す。
「……それ」
「ふふっ、じゃあ今日はこれにするね♪
今日ね、水穂さんに会いに行こうと思ってるんだ」
「あまり、あの人とは深入りしないほうがいい」
「え?どうして? だって、刹夜さまのお母さんでしょう?」と千紗は不思議そうに聞く。
「……好きにしろ」
千紗には、いつも素っ気ない態度だった。
朝食のあと、二人は一緒に家を出た。
その様子を、鈴羽は離れの窓越しに目にしてしまう。
ちょうど刹夜が見上げ、ふたりの視線が重なった。
彼女に嫉妬させたいのか、何かを思わせたいのか――
刹夜は突然わざと千紗に優しく振る舞ってみせる。
鈴羽は二階の窓から、その光景を見下ろしながら、胸が張り裂けそうだった。
昨夜、あの人は私の部屋から出て、すぐに姉さんのところへ行ったんだ――。
……じゃあ、きっと、ふたりはそういう関係になったんだろう。
想像した瞬間、ぽろぽろと涙がこぼれた。
つらい。気持ち悪い。苦しい。
でも、この気持ちから逃げられない。
そのとき、部屋の固定電話が鳴った。
この番号を知っているのは、恵美さんくらいのはず。
受話器を取って、鈴羽は声をかけた。
「恵美さん?」
――けれど、返ってきたのは、まったく別の声だった。
「鈴羽……君は約束を破って、僕を騙したね。ずっと待ってたんだ」
鈴羽の胸に、戦慄が走った。
この声……まさか、神楽坂流河……!?
でもどうして……。
どうして彼が、ここのことを――