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第65話 後悔と痛み


男は冷笑を浮かべて言った。


「ここ俺の家だぞ?来ていけないのか?」

「ち、違う、そういう意味じゃ……。ただその……どうして姉さんのところに行かないのかなと思って……」


彼女の声はだんだん小さくなっていった。


九条刹夜はそのまま歩み寄り、彼女をソファから無理やり引きずり起こした。


「どうしていつも俺を他の奴のところに行かせようとする。……俺が来るのがそんなに嫌か?」


「そんなことないよ」鈴羽はすぐに答えた。


「違うなら、ちゃんと俺を喜ばせろ。俺が機嫌よくなれば、お前のお願いも聞いてやれるかもしれない。

 たとえば……おばあちゃんに会いに行きたいとかな。それとも……もうあのガキに会いたくないのか?」


刹夜にそう言われて、鈴羽はさらに緊張を強める。


「お願い……無関係な人を巻き込まないで。みんな何も悪いことしてないの。

 あなたが憎んでいるのは、私だけですよね?だったら全部私にぶつければいいんじゃない」


刹夜は怒りを抑えきれず、彼女の顎をきつく掴んだ。


「お前にぶつけるって?……てめぇ、自分の命がいくつあると思ってるんだ」


鈴羽は痛みに顔をしかめながらも、唇を噛んで答えた。


「一つしかないけど、あげるよ」

「……つまり、死んでも俺と一緒にいたくないってことか」


刹夜は彼女の言葉をまたもや曲解し、怒りを増幅させていく。

鈴羽は頑なな性格で、誤解されても言い訳することを好まない。


そのまま二人の間に、沈黙と張り詰めた空気が流れる。


しばらく彼女の唇を見つめていた九条刹夜は、衝動に駆られたように顔を近づけた。


だが鈴羽は、さりげなく身を引いて、拒絶の意志を見せた。

――そのたったひとつの仕草が、彼のプライドを粉々に砕いた。


刹夜は怒りにまかせて彼女を突き飛ばす。

鈴羽は後ろによろけ、背後にあった花瓶を倒してしまった。


花瓶が床に落ちて割れ、鋭い破片が彼女の手の甲を裂いた。

白い肌を伝って、鮮やかな赤が一筋流れていく。


鈴羽はその痛みに耐えながら、じっと彼を見つめた。


「……気が済みました? 済んだなら……私は掃除しなきゃいけませんので、失礼します」


そう言って、傷口を押さえながら、モップを取りに行こうとする。


彼女は――本当に矛盾した存在。

怖がりなのに、彼を騙し、逃げる度胸まである。

大胆かと思えば、常に怯えたように縮こまり、耐えてばかりいる。


刹夜は、そんな彼女がときどきまったく理解できなかった。


ただ、月島千紗が現れるまでの一年間――

鈴羽と同じ屋根の下で過ごしていたあの日々は、思っていた以上に穏やかだった。


彼女は口数が少なく、騒がず、目立たず、問題を起こさない。

静かで従順で、まるで空気のように――


だが今、彼が彼女に少しでも関心を向けると、必ず反発してくる。


さっきもそうだ。

ただキスしたかっただけなのに。


彼女は自分をなんだと思ってんだ。

自分以外他の女が見つけられないとでも?


刹夜は、思えば思うほど腹が立ち、最後には扉を思い切り閉めてその場を去った。


そして、彼が去った後。

鈴羽は、ようやく静かに息をつくことができた。


以前は彼のことが怖かった。

けれど今は、それ以上に怖い。


何を言っても、何をしても、間違えてしまう気がする。


そして何より――

この男に惹かれてしまいそうな自分が、いちばん怖かった。


彼を好きになったら、それこそが本当の地獄の始まり。


自分と彼の間には、あまりにも大きな溝がある。

そこに「幸せ」も「平等な恋」も存在しない。


あるのはただ、彼が一方的に押し付ける支配と、理由なき独占欲だけ――。



九条刹夜が出て行ったあと、鈴羽は部屋を片づけ終えて、ベッドに横になった。

彼女はそっとお腹に手を当てる。


「聞こえてる……? ママの声、届いてるかな……。


 ……ほんとはね、ママ、あなたを産みたいの。

 でもね……ママじゃ、あなたを守れない気がする。


 きっと、あなたの誕生を許してくれない。姉さんも、徳川家のお嬢さんも、そして……あなたのパパも。


 みんなにとって、ママはただの……おもちゃ。

 おもちゃには、赤ちゃんを抱く資格なんてないのよ


 だから、ごめんね……。

 ママ、あなたに……さよなら、しなきゃいけないの……」


そんな思いを胸に、お腹の赤ちゃんに語りかけながら眠りについたせいだろうか。

鈴羽は、夢を見た――。


それは広い、果てしない草原だった。

心地よい風が吹き抜けて、とても気持ちがよかった。


少し離れたところから、白いワンピースを着た小さな女の子が、ツインテールを揺らしながら駆けてくる。


「ママ――! ママ、だっこして!」


その愛らしい声に、鈴羽の胸に溢れるような母性が広がっていった。

彼女は両手を広げて、女の子を抱きしめる。

その顔をじっと見つめる。


……とても綺麗な顔立ち。

目元や鼻筋は、刹夜にそっくり。


でも、口元はどこか自分にも似ている気がした。


「ママだーいすき!ずっとそばにいてもいい?」


その無垢な瞳で見上げられて、胸がきゅうっと締めつけられた。


――でも、答える前に、夢はふっと途切れた。


時計を見ると、たったの一時間しか経っていなかった。



一方――

九条刹夜は、歩いて屋敷へと向かっていた。

そこは、月島千紗が住んでいる場所だった。


千紗は深く眠っていて、刹夜が戻ってきたことにも気づいていなかった。

刹夜は書斎に入り、そこで、先ほど鈴羽の部屋で割れたものと同じ花瓶を見つける。


次の瞬間、彼はその花瓶を思い切り叩き割った。

そして、飛び散った破片を自分の手の甲に当てて、わざと傷つけた。


眉ひとつ動かさない。

こんな小さな傷など、彼にとっては何でもない。


でも――

さっき、あの女はきっと痛かっただろう。


刹夜は、自分の衝動を悔いていた。

だから自分への罰のように、同じことを繰り返したのだった。


彼の中で、鈴羽の存在はいつも矛盾に満ちている。


この時の刹夜はまだ認めていない。

自分が彼女を、“愛している”なんてことを。


ただ、嘘をついた彼女を罰しているだけだと、自分に言い聞かせていた。



――翌朝。

千紗は刹夜が戻ってきたことに気づき、嬉しそうに声をかけた。


「帰ってきたんですね、刹夜さま!もう……なんで起こしてくれなかったの?」


「……仕事してた」と、刹夜は適当に答える。


そのとき、恵美が朝食を運んできて、二人はテーブルについた。

朝食を終えると、千紗は次々に何枚もワンピースを着替え始める。


「刹夜さま~どれが似合うと思う?」


「……どれでも」と、彼は興味なさそうに返す。


「ねえ、ひとつくらい選んでよぉ~」


千紗は甘えた声でせがむ。


刹夜は視線を上げることもなく、適当に指差す。

「……それ」


「ふふっ、じゃあ今日はこれにするね♪

 今日ね、水穂さんに会いに行こうと思ってるんだ」


「あまり、あの人とは深入りしないほうがいい」


「え?どうして? だって、刹夜さまのお母さんでしょう?」と千紗は不思議そうに聞く。


「……好きにしろ」


千紗には、いつも素っ気ない態度だった。


朝食のあと、二人は一緒に家を出た。

その様子を、鈴羽は離れの窓越しに目にしてしまう。


ちょうど刹夜が見上げ、ふたりの視線が重なった。

彼女に嫉妬させたいのか、何かを思わせたいのか――


刹夜は突然わざと千紗に優しく振る舞ってみせる。


鈴羽は二階の窓から、その光景を見下ろしながら、胸が張り裂けそうだった。

昨夜、あの人は私の部屋から出て、すぐに姉さんのところへ行ったんだ――。


……じゃあ、きっと、ふたりはそういう関係になったんだろう。

想像した瞬間、ぽろぽろと涙がこぼれた。


つらい。気持ち悪い。苦しい。

でも、この気持ちから逃げられない。


そのとき、部屋の固定電話が鳴った。

この番号を知っているのは、恵美さんくらいのはず。


受話器を取って、鈴羽は声をかけた。


「恵美さん?」


――けれど、返ってきたのは、まったく別の声だった。


「鈴羽……君は約束を破って、僕を騙したね。ずっと待ってたんだ」


鈴羽の胸に、戦慄が走った。

この声……まさか、神楽坂流河……!?


でもどうして……。

どうして彼が、ここのことを――

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