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第64話 報告

「いけません、奥様!こんなところで膝をついては……!床は冷えます、今、お腹に……」


「……惠美さん、お願いです、助けてください。私、もう本当にどうしたらいいかわかりません……。お腹がどんどん大きくなって……もうすぐ隠しきれなくなります。だったら、いっそ今のうちに……終わらせてしまった方が……」


震える声で訴える鈴羽。


頼れるのは、恵美さんだけ。

他に相談できる相手もいない。


平吾には言いづらい。

もちろん、あの九条刹夜には……なおさら。


彼は最近、鈴羽に対して棘のある言葉ばかりだった。

あんな態度をされて、妊娠を伝えられるはずもない。


きっと怒られて、挙句の果てに強制的に中絶させられる……

そんな未来が脳裏をよぎる。


「奥様……とにかくまず立ちましょう。この件は……少し考えさせてください」


惠美は優しく鈴羽を支えた。


妊娠中の情緒不安定もあるのだろう。

ときおり涙を浮かべる鈴羽が、あまりに不憫だった。


その日の午後、惠美はひっそりと屋敷を離れ、九条刹夜の元へと向かった。


「なにかあったのか?」


冷ややかな声。

その鋭い瞳に、惠美は少しだけ身をすくめながらも、しっかりと答えた。


「奥様が……ご懐妊されました」

「……知ってる」

「――ですが、本日……奥様が私に土下座して……」

「……は?」

「中絶薬を買ってきてほしいと……懇願されました」


刹夜の表情が一瞬で凍りついた。

「なんだと……?」


恵美さんは彼の機嫌を恐れながらも続けた。


「刹夜様……薬での中絶は危険も伴います。万が一、流れきらなかった場合、手術での掻爬が必要となり……身体に大きな負担がかかります。

本当に産ませるつもりがないなら、最初から手術を考えた方が……」


「それ、あいつが自分で言ったのか?」

「はい……」


恵美さんは小さく頷いた。


「他になんか言った?」


刹夜の怒りがさらに強まる。

恵美さんは、鈴羽の言葉をそのまま伝えた。


「『刹夜さんは絶対私の子なんて望んでいない。だったら黙って流した方がマシ』と……」


この一言が、なぜか刹夜の逆鱗に触れた。


――ガシャァンッ!


重たい陶器の茶器が、床に粉々に砕け散った。

怒りが静かに、しかし確実に刹夜の全身から噴き出していた。


恵美さんは顔面蒼白になった。


「ど、どうなさいますか……?」

「……お前は何もしなくていい」

「は、はい?」

「あいつがそこまで産みたくないなら……望み通りにしてやんよ」


刹夜は歯を食いしばり、怒りを押し殺した声で言い放った。


本当は、彼もこの子が今生まれるべきでないことはわかっていた。


徳川家との婚約話は着々と進んでいる。


父もそれを最優先する。

――自分の子を産んでよいのは、徳川花怜ただひとり。


せめてそれが終わるまでは、他の女の存在は認められない。

それが百年続く刹淵組の暗黙の掟。


それでも、鈴羽が自ら子どもを否定したことは――

なぜか、彼の胸にはどうしようもない怒りが込み上げてきた。


その根底には、

「鈴羽は自分を嫌っている。自分なんか必要としない」という苛立ちだった。


*


帰り際。

屋敷の廊下で、惠美は月島千紗と鉢合わせた。


鈴羽の控えめさとは対照的に、

彼女は派手に着飾り、ハイヒールにボディラインの強調されたドレス姿で、腰を振りながら入ってきた。


「あら。なによ、こんなところで」


千紗にとって、恵美さんはただの田舎くさい家政婦に過ぎない。

その態度もあからさまに見下している。


「旦那様にご報告がありまして」

「ふぅん? あんた、まさか私の悪口でも言ってたんじゃないでしょうね?」


最近、千紗は川崎と会うために外出が増え、疑心暗鬼になっていた。


「とんでもありません。月島さんの話は一切しておりませんよ」

「ならいいけど? おばさん、あんまり私の機嫌を損ねないでね。じゃないと刹夜さまに言って、あんたの荷物ごと屋敷から放り出してやるんだから。ふんっ」


千紗の顔には、嫌味な笑みが張り付いていた。


彼女は人によって全く態度を変える。

強い者には媚び、弱い者には高圧的。

黒岩平吾にすら、礼儀を欠くことが多い。


彼女にとって、平吾も恵美さんも、ただの刹夜の下僕でしかない。


だが、鈴羽は真逆だった。


控えめで、礼儀正しく、どこか儚げで……

誰に対しても腰が低く、優しいその性格が、平吾も恵美さんも心を打たれた。


それに比べて、月島千紗はいつも派手でわがまま。


けれど、彼らはずっと思い込んでいた。

――若様が選んだのは、あの女なのだと。


だが、事実は違った。

九条刹夜自身、月島千紗に対して愛情など持ち合わせていなかった。


彼女をそばに置いている理由は、ただひとつ――

「鈴羽の代わり」


父に対しても、徳川家に対しても、彼女は盾に過ぎない。

――いざという時に切り捨てるための、ただの“替え玉”。


だというのに。

月島千紗はそれを知らず、自分が刹夜の特別な存在だと勘違いしている。

あろうことか、その思い込みを拠り所に好き勝手な振る舞いを続けていた。


「刹夜さまぁ~! やっと帰ってきてくれたのね!」


玄関に駆け寄ってきた千紗は、涙ぐんだふりをしてすり寄ってくる。


「もう寂しくて死にそうだったわ……」


千紗は刹夜を見つけるとすぐに甘えた声を出し、涙まで浮かべてみせる。


そのまま彼の膝に座ろうとしたその瞬間――

刹夜の鋭い視線に平吾が椅子を差し出し、

仕方なく、千紗は渋々そこに腰を下ろした。


「えっと……刹夜さま、今回の出張はうまくいった?」

「ああ」

「私のこと……考えたりしたのかな……?」


甘ったるい声で聞く彼女に、刹夜は冷めた目を向ける。

あからさまに不機嫌だった。


「俺がいない間、お前何していた」

「……っ!」


千紗は動揺を隠せない。


「べ、別に……何もしてないよ?」

「何もしてない女が、たかだか数日で何百万も使うのか?」


刹夜は皮肉を込めて言った。


金遣いはどうでもいい。

ただ嘘をつく女が気に入らないだけ。


千紗が川崎と会っていたことなど、刹夜にはとっくに筒抜けだった。

ヤクザのカシラが、その程度の情報もつかんでいないわけがない。


「しょ、ショッピングよ? 女の子だもん、欲しいものくらい買いたくなるんだもーん!」


言い訳がましいその口調に、さらに追い打ちをかけるように。


「それより、あのね、刹夜さま……最近、生理が来なくなっちゃって……。こないだあんなに激しかったから、もしかしたら赤ちゃんができたかも……。

本当に妊娠したら……きっとお父様も認めてくれますよね?」


目を輝かせながら語る千紗は完全に自分の世界に入っていた。



刹夜は鼻で笑った。


「ほう?本当に妊娠したのか?」


「まだ確かじゃないけど……せいぜい二週間くらいでわかるわ!


でも安心して!もし女の子だったとしても、私は絶対、あなたのために息子が生まれるまでずっと子供を産み続けるから。


そのとき、あなたのお父様も可愛い孫の顔を見て、私たちのことを認めてくれるではず!」


千紗は和枝の入れ知恵で、「母になれば立場が変わる」と信じて疑わなかった。


だが、裏社会の家系でそんな手は通じない。


ヤクザにとって、子どもなどいくらでも作れる。

本当に大切なのは、心を動かす女だ。


「まず妊娠してから言え」


淡々と告げたその言葉に、千紗は内心小躍りした。


――だが、刹夜の本心は違った。

もし千紗も妊娠したとなれば、全ての監視の目を千紗に向けることができる。


父、徳川家、和枝、果ては自分の母である水穂の監視まで――

百の目が月島千紗に注がれることになるだろう。


もしかしたら……

鈴羽はその隙に、子供を安全に産むことができるかもしれない。


そう考えると、ますます鈴羽のお腹の子を失わせたくなくなった。


*


夜、刹淵組の仕事を片付けた刹夜は、まっすぐ屋敷へ戻った。


だが向かったのは、千紗のいるメインの棟ではなく――

裏手にある、もうひとつの別邸。

そこには、鈴羽が暮らしていた。


不思議なことに、その内装は以前、鈴羽と一緒に住んでいた部屋とまったく同じ。

家具の配置、照明、ソファの色までも。


そのせいで、鈴羽は時折一年前に戻ったように感じてしまう。


恵美さんは夕食の支度を終えるとすぐに帰ったので、

刹夜が帰宅したとき、部屋には鈴羽しかいなかった。


リビングでは、鈴羽がひとりでテレビを観ていた。

画面に集中していたせいか、彼がドアを開けた瞬間、びくりと肩を震わせた。


「刹夜さん……?」


立ち上がった鈴羽は、明らかに緊張していた。

言葉も詰まり、視線も泳いでいる。


「ど、どうして……来たんですか?」


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