「いけません、奥様!こんなところで膝をついては……!床は冷えます、今、お腹に……」
「……惠美さん、お願いです、助けてください。私、もう本当にどうしたらいいかわかりません……。お腹がどんどん大きくなって……もうすぐ隠しきれなくなります。だったら、いっそ今のうちに……終わらせてしまった方が……」
震える声で訴える鈴羽。
頼れるのは、恵美さんだけ。
他に相談できる相手もいない。
平吾には言いづらい。
もちろん、あの九条刹夜には……なおさら。
彼は最近、鈴羽に対して棘のある言葉ばかりだった。
あんな態度をされて、妊娠を伝えられるはずもない。
きっと怒られて、挙句の果てに強制的に中絶させられる……
そんな未来が脳裏をよぎる。
「奥様……とにかくまず立ちましょう。この件は……少し考えさせてください」
惠美は優しく鈴羽を支えた。
妊娠中の情緒不安定もあるのだろう。
ときおり涙を浮かべる鈴羽が、あまりに不憫だった。
その日の午後、惠美はひっそりと屋敷を離れ、九条刹夜の元へと向かった。
「なにかあったのか?」
冷ややかな声。
その鋭い瞳に、惠美は少しだけ身をすくめながらも、しっかりと答えた。
「奥様が……ご懐妊されました」
「……知ってる」
「――ですが、本日……奥様が私に土下座して……」
「……は?」
「中絶薬を買ってきてほしいと……懇願されました」
刹夜の表情が一瞬で凍りついた。
「なんだと……?」
恵美さんは彼の機嫌を恐れながらも続けた。
「刹夜様……薬での中絶は危険も伴います。万が一、流れきらなかった場合、手術での掻爬が必要となり……身体に大きな負担がかかります。
本当に産ませるつもりがないなら、最初から手術を考えた方が……」
「それ、あいつが自分で言ったのか?」
「はい……」
恵美さんは小さく頷いた。
「他になんか言った?」
刹夜の怒りがさらに強まる。
恵美さんは、鈴羽の言葉をそのまま伝えた。
「『刹夜さんは絶対私の子なんて望んでいない。だったら黙って流した方がマシ』と……」
この一言が、なぜか刹夜の逆鱗に触れた。
――ガシャァンッ!
重たい陶器の茶器が、床に粉々に砕け散った。
怒りが静かに、しかし確実に刹夜の全身から噴き出していた。
恵美さんは顔面蒼白になった。
「ど、どうなさいますか……?」
「……お前は何もしなくていい」
「は、はい?」
「あいつがそこまで産みたくないなら……望み通りにしてやんよ」
刹夜は歯を食いしばり、怒りを押し殺した声で言い放った。
本当は、彼もこの子が今生まれるべきでないことはわかっていた。
徳川家との婚約話は着々と進んでいる。
父もそれを最優先する。
――自分の子を産んでよいのは、徳川花怜ただひとり。
せめてそれが終わるまでは、他の女の存在は認められない。
それが百年続く刹淵組の暗黙の掟。
それでも、鈴羽が自ら子どもを否定したことは――
なぜか、彼の胸にはどうしようもない怒りが込み上げてきた。
その根底には、
「鈴羽は自分を嫌っている。自分なんか必要としない」という苛立ちだった。
*
帰り際。
屋敷の廊下で、惠美は月島千紗と鉢合わせた。
鈴羽の控えめさとは対照的に、
彼女は派手に着飾り、ハイヒールにボディラインの強調されたドレス姿で、腰を振りながら入ってきた。
「あら。なによ、こんなところで」
千紗にとって、恵美さんはただの田舎くさい家政婦に過ぎない。
その態度もあからさまに見下している。
「旦那様にご報告がありまして」
「ふぅん? あんた、まさか私の悪口でも言ってたんじゃないでしょうね?」
最近、千紗は川崎と会うために外出が増え、疑心暗鬼になっていた。
「とんでもありません。月島さんの話は一切しておりませんよ」
「ならいいけど? おばさん、あんまり私の機嫌を損ねないでね。じゃないと刹夜さまに言って、あんたの荷物ごと屋敷から放り出してやるんだから。ふんっ」
千紗の顔には、嫌味な笑みが張り付いていた。
彼女は人によって全く態度を変える。
強い者には媚び、弱い者には高圧的。
黒岩平吾にすら、礼儀を欠くことが多い。
彼女にとって、平吾も恵美さんも、ただの刹夜の下僕でしかない。
だが、鈴羽は真逆だった。
控えめで、礼儀正しく、どこか儚げで……
誰に対しても腰が低く、優しいその性格が、平吾も恵美さんも心を打たれた。
それに比べて、月島千紗はいつも派手でわがまま。
けれど、彼らはずっと思い込んでいた。
――若様が選んだのは、あの女なのだと。
だが、事実は違った。
九条刹夜自身、月島千紗に対して愛情など持ち合わせていなかった。
彼女をそばに置いている理由は、ただひとつ――
「鈴羽の代わり」
父に対しても、徳川家に対しても、彼女は盾に過ぎない。
――いざという時に切り捨てるための、ただの“替え玉”。
だというのに。
月島千紗はそれを知らず、自分が刹夜の特別な存在だと勘違いしている。
あろうことか、その思い込みを拠り所に好き勝手な振る舞いを続けていた。
「刹夜さまぁ~! やっと帰ってきてくれたのね!」
玄関に駆け寄ってきた千紗は、涙ぐんだふりをしてすり寄ってくる。
「もう寂しくて死にそうだったわ……」
千紗は刹夜を見つけるとすぐに甘えた声を出し、涙まで浮かべてみせる。
そのまま彼の膝に座ろうとしたその瞬間――
刹夜の鋭い視線に平吾が椅子を差し出し、
仕方なく、千紗は渋々そこに腰を下ろした。
「えっと……刹夜さま、今回の出張はうまくいった?」
「ああ」
「私のこと……考えたりしたのかな……?」
甘ったるい声で聞く彼女に、刹夜は冷めた目を向ける。
あからさまに不機嫌だった。
「俺がいない間、お前何していた」
「……っ!」
千紗は動揺を隠せない。
「べ、別に……何もしてないよ?」
「何もしてない女が、たかだか数日で何百万も使うのか?」
刹夜は皮肉を込めて言った。
金遣いはどうでもいい。
ただ嘘をつく女が気に入らないだけ。
千紗が川崎と会っていたことなど、刹夜にはとっくに筒抜けだった。
ヤクザのカシラが、その程度の情報もつかんでいないわけがない。
「しょ、ショッピングよ? 女の子だもん、欲しいものくらい買いたくなるんだもーん!」
言い訳がましいその口調に、さらに追い打ちをかけるように。
「それより、あのね、刹夜さま……最近、生理が来なくなっちゃって……。こないだあんなに激しかったから、もしかしたら赤ちゃんができたかも……。
本当に妊娠したら……きっとお父様も認めてくれますよね?」
目を輝かせながら語る千紗は完全に自分の世界に入っていた。
刹夜は鼻で笑った。
「ほう?本当に妊娠したのか?」
「まだ確かじゃないけど……せいぜい二週間くらいでわかるわ!
でも安心して!もし女の子だったとしても、私は絶対、あなたのために息子が生まれるまでずっと子供を産み続けるから。
そのとき、あなたのお父様も可愛い孫の顔を見て、私たちのことを認めてくれるではず!」
千紗は和枝の入れ知恵で、「母になれば立場が変わる」と信じて疑わなかった。
だが、裏社会の家系でそんな手は通じない。
ヤクザにとって、子どもなどいくらでも作れる。
本当に大切なのは、心を動かす女だ。
「まず妊娠してから言え」
淡々と告げたその言葉に、千紗は内心小躍りした。
――だが、刹夜の本心は違った。
もし千紗も妊娠したとなれば、全ての監視の目を千紗に向けることができる。
父、徳川家、和枝、果ては自分の母である水穂の監視まで――
百の目が月島千紗に注がれることになるだろう。
もしかしたら……
鈴羽はその隙に、子供を安全に産むことができるかもしれない。
そう考えると、ますます鈴羽のお腹の子を失わせたくなくなった。
*
夜、刹淵組の仕事を片付けた刹夜は、まっすぐ屋敷へ戻った。
だが向かったのは、千紗のいるメインの棟ではなく――
裏手にある、もうひとつの別邸。
そこには、鈴羽が暮らしていた。
不思議なことに、その内装は以前、鈴羽と一緒に住んでいた部屋とまったく同じ。
家具の配置、照明、ソファの色までも。
そのせいで、鈴羽は時折一年前に戻ったように感じてしまう。
恵美さんは夕食の支度を終えるとすぐに帰ったので、
刹夜が帰宅したとき、部屋には鈴羽しかいなかった。
リビングでは、鈴羽がひとりでテレビを観ていた。
画面に集中していたせいか、彼がドアを開けた瞬間、びくりと肩を震わせた。
「刹夜さん……?」
立ち上がった鈴羽は、明らかに緊張していた。
言葉も詰まり、視線も泳いでいる。
「ど、どうして……来たんですか?」