「……だから、サリーとはなんもしてねぇ」
九条刹夜の低く落ち着いた声が、機内に響いた。
「本当に何もなかったんだ。あいつには女に興味ねぇって言ってたから。
ああいう声を出したのはあいつの自己演出。もちろん、俺の面子のためでもある。
……お前、このことで取り乱したんだろ?」
――鈴羽は黙った。
だが、意地を張ってても認めようとしない。
「……いえ、お腹を壊しただけなんで」
刹夜それ以上何も言わなかった。
と、そのとき、機内のシェフが食事を運んできた。
ステーキとパン、そして温かいミルクのセット。
刹夜が手で示すと、トレーがテーブルに置かれた。
鈴羽は昨夜から何も口にしていなかった。
妊婦には栄養が必要、と彼はよく分かっている。
「ほら食え」
「……あんまり食欲がありません」
「完食しろ。食わないなら、このままお前を飛行機から放り出す」
ぶっきらぼうに吐き捨てた台詞に、鈴羽は思わず吹き出しそうになる。
子ども扱いされてる。
そんな脅し、信じるわけがない。
それでも、彼女は無理やり気を奮い立たせ、少しだけ食べた。
――やがて、飛行機は着陸した。
刹夜はすぐさま刹淵組へ戻った。
まず最初に砂川彰に電話をかけ、突然の帰宅を詫びた。
一方、鈴羽はまたあの屋敷へ連れて行かれた。
これは刹夜が急遽決めたことだった。
なにせ、鈴羽と千紗は双子――
顔がまったく同じ。
同じ敷地内に住んでいても、同時に姿を現さなければ、誰も気づかない。
つまり、鈴羽が少し外に出ても、千紗だと思われるだけで、正体が疑われることはない。
むしろ、他の場所よりも安全だ。
もちろん、ふたりを同居させることだけは避けなければならない。さすがにバレてしまうから。
そこで刹夜は、鈴羽を屋敷の裏手にある離れに住まわせることにした。
これなら彼が様子を見に来るにも都合がいい。
さらに、もともと千紗の世話をしていた恵美も、そのまま鈴羽の面倒を見ることもできる。
*
久しぶりに恵美さんと再会したその瞬間――
鈴羽はこみ上げる涙をこらえきれなかった。
「恵美さん……」
声が震える。
「奥さま……よく、無事で……。苦労なさったでしょう……」
恵美は鈴羽のことが大好きだった。
かつてこの屋敷で過ごした日々――
外に出られない孤独な時間を、ふたりで乗り越えた。
料理を教え合い、庭に咲く草花の話をして笑い合った。
異国の文化も、味も、心も分け合った。
そんな優しく、控えめで、誰にでも気配りできる鈴羽。
恵美は、刹夜が心を寄せる相手がこの子でよかったと、本気で思っていた。
でも――
真の月島千紗が現れてから、すべてが変わった。
強引に居座り、妹を追い出し、浪費し、徳川家のお嬢様に対してまで傲慢に振る舞う彼女。
自分に対しても、ただの下婢のように扱い、呼びつけてばかり――
本当に嫌な女だと思った。
――あれが本当に本物なら、なんという皮肉か。
けれど今、鈴羽が戻ってきて、恵美はやっと分かった。
刹夜が本当に好きなのは、ずっとこの優しい娘だったのだと。
「いいえ、私は平気です……。むしろ……恵美さんこそ、いつも姉の世話までしてくださって、ありがとうございます」
鈴羽は、黒岩平吾から“絶対にこの離れを出てはいけない”と強く言い渡されていた。
目と鼻の先に月島千紗がいるのだから、慎重にならないといけないのだろう。
鈴羽は、刹夜の考えをすぐに察した。
結局、姉妹二人を囲っておきたいのだ。
男って、欲張りな生き物だ……。
どちらも失いたくないから、どちらも手元に置く。
ほんっと、最低。
*
一方その頃――
月島千紗は、まさに心臓が潰れそうなほどの不安に襲われていた。
川崎が姿を現してからというもの、恐怖は日を追うごとに増していた。
彼の要求――二千万。
到底払える金額じゃない。
だから昨夜、千紗はとっさに二百万円だけを渡し、なんとか時間を稼ぐことにした。
残りは後で何とかするつもり。
ついでに、彼のために小さなアパートを借りて、そこに住まわせた。
それは未練からではない。
ただ、刹夜や花怜に接触されるのが怖かっただけだ。
あの過去――
川崎と駆け落ちし、同棲していた日々。
それが露見したら、刹夜はきっと自分を許さない。
下手をすれば、命さえ危ない。
何しろあの人はただの富豪じゃない。
裏の世界を牛耳る、冷酷非道な極道だ。
刹夜が帰ってきたと知った時――
千紗はちょうど川崎のベッドの上にいた。
川崎に求められ、断れば過去のことをバラすと脅されたから、
仕方なく、彼女は受け入れるしかなかった。
気のせいか、しばらく会わなかった川崎は、以前よりずっと体力がついていた。
最初に彼に惹かれたのも、その驚異的な体力だったな……。
久しぶりに再会した二人は激しく求め合った。
その時、恵美さんからの一本の連絡がすべてを変えた。
「刹夜様がお戻りになったそうです」
「……っ!」
冷や汗がつっと背を伝う。
電話口では平静を装いながら、
「今、外で買い物してて……すぐ戻るわ」と、嘘をついた。
通話を切ると、すぐに服をかき集めて着替える。
「どした? 野良男が帰ってきたのか?」
川崎が皮肉っぽく言う。
「勘違いしないで!あんたこそその野良男でしょ。いつまでもしがみついてくるな」
「おいおい、ついさっきまで可愛い声で喘いでた女が何を言う」
川崎の嘲笑に、千紗は怒りで拳を握りしめた。
「週一でこい。それが条件だ」
「……は?」
「とぼけるなよ、千紗。お前、俺がいないとダメなんだろ。どうせあっちの男には満たされてないんだから、さっきあんなに感じてんだろう?」
千紗は言い返したかったが、何も言えなかった。
「それと、月に二百万。遅れたらどうなるかわかってんよな? 俺の条件を飲めばお互いウィンウィンだけどな」
川崎は図に乗って要求する。
毎週の関係だけでなく、毎月二百万まで要求された。
「……最低」千紗は吐き捨てる。
「お互い様だろ?」
「男のくせに女頼りとかして……プライドとかないわけ?」
「は? お前だって養われてるだけじゃねぇか」
その言葉に、千紗は何も返せなかった。
川崎の言う通り、二人とも同じ穴のムジナだ。
他人の金で生きてる、ただの寄生虫――。
*
その頃――
屋敷で鈴羽は離れの静かな一室で迷いに迷っていた。
そして、ついに――決心した。
「……惠美さん」
彼女はぽつりと名を呼び、そして……膝をついて頭を下げた。
「ちょっ、奥さま! なにを……!?」
恵美と平吾は刹淵組の中でも刹夜の最も信頼する側近。
だから双子のことを知っているのもこの二人しかいない。
「恵美さん……実は私……妊娠、したんです……。
でも、どうしてもこの子は産めないと思います……。私の立場じゃ、この子が生まれたって不幸になるだけ……。
お願いします、中絶薬を買ってきてくれませんかっ…!この子と……バイバイしたいんです……」
その一言に、惠美の顔が凍りつく。
「そ、そんなん……!奥さま……刹夜様にご相談なさいましたか……?」
「いいえ……言う勇気が……。でも、言ったってきっと反対されるだけですから……。もう自分で堕ろすしか……」