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第63話 戻ってきた


「……だから、サリーとはなんもしてねぇ」


九条刹夜の低く落ち着いた声が、機内に響いた。


「本当に何もなかったんだ。あいつには女に興味ねぇって言ってたから。

 ああいう声を出したのはあいつの自己演出。もちろん、俺の面子のためでもある。

 ……お前、このことで取り乱したんだろ?」


――鈴羽は黙った。

だが、意地を張ってても認めようとしない。


「……いえ、お腹を壊しただけなんで」


刹夜それ以上何も言わなかった。

と、そのとき、機内のシェフが食事を運んできた。


ステーキとパン、そして温かいミルクのセット。

刹夜が手で示すと、トレーがテーブルに置かれた。


鈴羽は昨夜から何も口にしていなかった。

妊婦には栄養が必要、と彼はよく分かっている。


「ほら食え」

「……あんまり食欲がありません」

「完食しろ。食わないなら、このままお前を飛行機から放り出す」


ぶっきらぼうに吐き捨てた台詞に、鈴羽は思わず吹き出しそうになる。


子ども扱いされてる。

そんな脅し、信じるわけがない。


それでも、彼女は無理やり気を奮い立たせ、少しだけ食べた。


――やがて、飛行機は着陸した。


刹夜はすぐさま刹淵組へ戻った。

まず最初に砂川彰に電話をかけ、突然の帰宅を詫びた。


一方、鈴羽はまたあの屋敷へ連れて行かれた。


これは刹夜が急遽決めたことだった。


なにせ、鈴羽と千紗は双子――

顔がまったく同じ。


同じ敷地内に住んでいても、同時に姿を現さなければ、誰も気づかない。

つまり、鈴羽が少し外に出ても、千紗だと思われるだけで、正体が疑われることはない。


むしろ、他の場所よりも安全だ。


もちろん、ふたりを同居させることだけは避けなければならない。さすがにバレてしまうから。


そこで刹夜は、鈴羽を屋敷の裏手にある離れに住まわせることにした。

これなら彼が様子を見に来るにも都合がいい。


さらに、もともと千紗の世話をしていた恵美も、そのまま鈴羽の面倒を見ることもできる。



久しぶりに恵美さんと再会したその瞬間――

鈴羽はこみ上げる涙をこらえきれなかった。


「恵美さん……」


声が震える。


「奥さま……よく、無事で……。苦労なさったでしょう……」


恵美は鈴羽のことが大好きだった。


かつてこの屋敷で過ごした日々――

外に出られない孤独な時間を、ふたりで乗り越えた。


料理を教え合い、庭に咲く草花の話をして笑い合った。

異国の文化も、味も、心も分け合った。


そんな優しく、控えめで、誰にでも気配りできる鈴羽。

恵美は、刹夜が心を寄せる相手がこの子でよかったと、本気で思っていた。


でも――

真の月島千紗が現れてから、すべてが変わった。


強引に居座り、妹を追い出し、浪費し、徳川家のお嬢様に対してまで傲慢に振る舞う彼女。


自分に対しても、ただの下婢のように扱い、呼びつけてばかり――

本当に嫌な女だと思った。


――あれが本当に本物なら、なんという皮肉か。


けれど今、鈴羽が戻ってきて、恵美はやっと分かった。

刹夜が本当に好きなのは、ずっとこの優しい娘だったのだと。


「いいえ、私は平気です……。むしろ……恵美さんこそ、いつも姉の世話までしてくださって、ありがとうございます」


鈴羽は、黒岩平吾から“絶対にこの離れを出てはいけない”と強く言い渡されていた。

目と鼻の先に月島千紗がいるのだから、慎重にならないといけないのだろう。


鈴羽は、刹夜の考えをすぐに察した。

結局、姉妹二人を囲っておきたいのだ。


男って、欲張りな生き物だ……。

どちらも失いたくないから、どちらも手元に置く。

ほんっと、最低。



一方その頃――

月島千紗は、まさに心臓が潰れそうなほどの不安に襲われていた。


川崎が姿を現してからというもの、恐怖は日を追うごとに増していた。


彼の要求――二千万。

到底払える金額じゃない。


だから昨夜、千紗はとっさに二百万円だけを渡し、なんとか時間を稼ぐことにした。

残りは後で何とかするつもり。


ついでに、彼のために小さなアパートを借りて、そこに住まわせた。


それは未練からではない。

ただ、刹夜や花怜に接触されるのが怖かっただけだ。


あの過去――

川崎と駆け落ちし、同棲していた日々。

それが露見したら、刹夜はきっと自分を許さない。


下手をすれば、命さえ危ない。


何しろあの人はただの富豪じゃない。

裏の世界を牛耳る、冷酷非道な極道だ。



刹夜が帰ってきたと知った時――

千紗はちょうど川崎のベッドの上にいた。


川崎に求められ、断れば過去のことをバラすと脅されたから、

仕方なく、彼女は受け入れるしかなかった。


気のせいか、しばらく会わなかった川崎は、以前よりずっと体力がついていた。

最初に彼に惹かれたのも、その驚異的な体力だったな……。


久しぶりに再会した二人は激しく求め合った。


その時、恵美さんからの一本の連絡がすべてを変えた。


「刹夜様がお戻りになったそうです」

「……っ!」


冷や汗がつっと背を伝う。


電話口では平静を装いながら、

「今、外で買い物してて……すぐ戻るわ」と、嘘をついた。


通話を切ると、すぐに服をかき集めて着替える。


「どした? 野良男が帰ってきたのか?」


川崎が皮肉っぽく言う。


「勘違いしないで!あんたこそその野良男でしょ。いつまでもしがみついてくるな」


「おいおい、ついさっきまで可愛い声で喘いでた女が何を言う」


川崎の嘲笑に、千紗は怒りで拳を握りしめた。


「週一でこい。それが条件だ」

「……は?」

「とぼけるなよ、千紗。お前、俺がいないとダメなんだろ。どうせあっちの男には満たされてないんだから、さっきあんなに感じてんだろう?」


千紗は言い返したかったが、何も言えなかった。


「それと、月に二百万。遅れたらどうなるかわかってんよな? 俺の条件を飲めばお互いウィンウィンだけどな」


川崎は図に乗って要求する。

毎週の関係だけでなく、毎月二百万まで要求された。


「……最低」千紗は吐き捨てる。


「お互い様だろ?」

「男のくせに女頼りとかして……プライドとかないわけ?」

「は? お前だって養われてるだけじゃねぇか」


その言葉に、千紗は何も返せなかった。

川崎の言う通り、二人とも同じ穴のムジナだ。


他人の金で生きてる、ただの寄生虫――。



その頃――

屋敷で鈴羽は離れの静かな一室で迷いに迷っていた。


そして、ついに――決心した。


「……惠美さん」


彼女はぽつりと名を呼び、そして……膝をついて頭を下げた。


「ちょっ、奥さま! なにを……!?」


恵美と平吾は刹淵組の中でも刹夜の最も信頼する側近。

だから双子のことを知っているのもこの二人しかいない。


「恵美さん……実は私……妊娠、したんです……。

 でも、どうしてもこの子は産めないと思います……。私の立場じゃ、この子が生まれたって不幸になるだけ……。


 お願いします、中絶薬を買ってきてくれませんかっ…!この子と……バイバイしたいんです……」


その一言に、惠美の顔が凍りつく。


「そ、そんなん……!奥さま……刹夜様にご相談なさいましたか……?」


「いいえ……言う勇気が……。でも、言ったってきっと反対されるだけですから……。もう自分で堕ろすしか……」


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