「……もういい」
中絶や流産のことになると、九条刹夜の頭はどうしても混乱してしまう。
――いまはまだ、結論が出せない。
電話を切った直後、ホテルの部屋にノックの音が響いた。
「誰っ?」
リビングにいた鈴羽が警戒心を露わにして声をかける。
「砂川様の部下です」
鈴羽が恐る恐るドアを開けると、またあの坊主頭の男だった。
だがその隣には、見覚えのある女が立っていた。
「九条様は?」
「……中にいらっしゃいます」
男装してスーツ姿の鈴羽に、男はあまり関心を示さず、連れてきた女性を部屋に押し込む。
「この女、砂川様が送ったもんだ。九条様が気に入ってたらしいから、今夜は楽しんでくれってさ」
そう言って笑いながら女性を押し込むと、男はそのまま立ち去った。
鈴羽は目を丸くした。
……こういう世界、初めてだ。
そして女の顔をよく見て、思い出す――
そうだ、宴の席で刹夜にベタベタしていた踊り子……!
胸の奥に、もやもやと黒い感情が湧き上がってきた。
――嫉妬……なのか。
何ともいえない不快感がこみ上げるが、
自分には口を挟む権利などないと分かっていた。
「誰だ」
刹夜がスマホを手に、不機嫌そうにリビングに現れる。
「砂川様から……この方を……」
鈴羽が女性を指すと、女はすぐに刹夜に近づき、甘えるように笑った。
「九条様……私、サリーと申します。今夜、ご一緒させてくださいませ」
九条刹夜は一瞥で彼女を思い出した。
――ああ、あの女か。
宴会でしつこく色目を使ってきて、最後にはわざとベールをめくって挑発までしてきたあの女。
「……お前か」
彼は目を細めてつぶやく。
「九条様、夜はまだ長いですよ……楽しいこと、いたしましょう?」
そのまま、刹夜の腕にすがって部屋の奥へと誘っていく。
刹夜は反射的に鈴羽の方を見た。
彼女がどんな反応をするのか、気になっていたのかもしれない。
しかし鈴羽は、わざとらしいほどそっぽを向き、ソファで丸くなって目を閉じた。
最初から何もなかったかのように。
――無関心、ってことかよ。
刹夜は内心苛立ち、そのままサリーを連れて寝室のドアを乱暴に閉めた。
だが、鈴羽の胸の奥では……痛みが静かに広がっていた。
他の女の存在は知っていた。
けれど、それはあくまでも噂や推測にすぎなかった。
今は違う。
たった一枚の壁を隔てて、彼とその女が――
まさか、そんなことを耳にしながら過ごさなければいけないのか。
(ダメ、考えちゃいけない……私は、そんな立場じゃない)
そう自分に言い聞かせても、心は裏切る。
息苦しいほどの痛みが、彼女の胸を支配していく。
ほどなくして、寝室から女の甘ったるい声が響き始めた。
耳まで熱くなるような、あられもない声。
鈴羽はソファにしがみつき、眉間にしわを寄せながら、ひたすら耐えていた。
――
寝室の中。
ベッドの上で、サリーは一人演技に没頭していた。
刹夜は、というと、窓辺に立ってシガーをふかしていた。
さっきサリーに、
「……俺は女に興味がないんだ。でも、悪いが……このことは、黙っていてくれ」と伝えたばかりだ。
サリーは目を丸くしたが、すぐに納得したように頷く。
――そういう趣味の人も、ここにはたくさんいる。
ゴールデントライアングルに集う大物たちは、バイセクシャルや同性愛者など珍しくもない。
驚くような話じゃない。
サリーはただ、惜しいと思った。
目の前の男は、これまで出会った中でも群を抜いて美しかったのに。
彼女は子どものころから砂川彰の元で調教され、客を悦ばせるための道具として育てられた。
誰を相手にしようと拒否することは許されず、ベッドの上で何があろうと、当たり前のことだった。
もうとっくに慣れてる。
それなのに――
せっかくこんなに魅力的な男が、女に興味がないなんて。
やっぱり、惜しい。
サリーは、彼は男のプライドを守るため、わざと自分に喘ぎ声をあげさせ、外に聞こえるようにしているのだと思った。
――ふたりがすでに関係を持ったかのように、見せかけるために。
だが実際のところ、すべては鈴羽への当てつけだった。
さっき、寝室へと消える直前――
彼は一度、鈴羽の方を振り返っていた。
ほんの少しでも、彼女に引き止めてほしかった。
けれど――
彼女はまるで無関心で、そっぽを向いていた。
その姿に、刹夜は腹が立って仕方なかった。
けれど、その場で鈴羽の“正体”を明かすわけにはいかない。
――砂川彰は信用ならない。
それどころか、こちらの動きを疑っている気配さえある。
もし鈴羽が「自分の女」だと知られれば、命の危険すらあるのだ。
そんな中――
「若……っ!」
慌ただしく部屋に戻ってきたボディーガードの声が、緊迫感を孕んでいた。
「その、“彼”が……倒れてます。ソファの上で……」
充電器を取りに戻ってきた一人が、鈴羽の異変に気づいた。
ソファに横たわる彼女は顔面蒼白で、いくら呼んでも目を覚まさない。
刹夜は即座にサリーを追い出した。
「悪い、先に帰れ。うちのボディガードが体調を崩した」
サリーは名残惜しげに身を起こすが、刹夜が迷いなく五千ドルを差し出すと、すぐに満面の笑みを浮かべた。
「ありがとうございます!また呼んでね」
――そんな軽い言葉も耳に入らない。
「若、どうしましょう……?」
ボディガードが小声で訊いた。
病院に連れて行くわけにはいかない。
行けば、鈴羽が女であることも、妊娠していることも、すべて露見する。
ここは砂川彰のシマ。
一手誤れば、命取りになる。
刹夜はしばし考え込む。
サリーが去った後、ボディガードに見張りを頼み、自分はすぐに部屋のドアを閉めた。
「おい鈴羽! ……目を開けろ。なぁ、ふざけんなよ。死んだフリなんてしてる場合かっ!」
必死に揺さぶると、彼女がうっすらと目を開け、か細い声で言った。
「……刹夜さん……お腹が……痛い……」
その瞬間、刹夜の視線が彼女の下へと落ちた。
灰色のソファに広がる、鮮やかな血の色。
「おまえ……っ!」
刹夜の頭の中で、理性が吹き飛んだ。
彼は彼女を抱き上げると、そのまま夜の街へと駆け出した。
時刻はもう深夜。
だが、幸いにも裏医者がまだ開いていた。
扉を蹴破るように開け、刹夜は銃を取り出して叫ぶ。
「こいつを診ろ!急げ、さもないと撃つぞ!!」
診療所の医者は、五十代ほどのカンボジア人の男。
肌は浅黒く、両手を挙げて震えていた。
*
緊迫の数十分後――
医者が処置室から出てきて、英語で告げた。
「旦那様、ご安心を。奥様は無事です。
精神的ショックによる切迫流産です。ですが幸い、大事には至っていませんでした。
妊娠されていることは……ご存知でしたか?」
刹夜は頷く。
「妊娠維持の注射を打ちましたので、今は落ち着いています。
ただ、これから半月は絶対安静にしてください。なるべく歩かせず、精神的な刺激も避けてください。
そうでないと、再び流産の危険があります」
刹夜は無表情で、「わかった」とだけ返した。
そして、一万ドルをカウンターに叩きつけるように置いた。
医者の目が見開かれる。
「この女が妊娠していること、誰にも漏らすな。 金は十分払う。だがもし口を滑らせたら……どうなるか分かってるな」
その言葉に、医者は恐怖で顔を青ざめさせながら、必死に頷いた。
「はい、誓います。絶対に口外しません……!」
注射を受けた鈴羽は、意識が朦朧としたまま眠りについた。
刹夜は彼女を抱きかかえ、目立たぬよう診療所を後にした。
そして――
彼らが出て行って間もなく、案の定、誰かがやってきた。
だが、命をかけた脅しの前に、医者は沈黙を守った。
「来たのは腹痛の患者だ。薬を出して、帰っていったよ」
砂川彰の手下も納得したように引き下がった。
*
――翌朝。
夜が明けると同時に、刹夜はゴールデントライアングルを離れた。
あまりにも急いでいたため、砂川彰に挨拶もせず、現地の協力者を通じて車を手配し、国境を越えてタイへ。
タイには、刹淵組の強固な拠点がある。
チェンマイからプライベートジェットを手配し、日本へと帰還する。
刹夜がここまで焦って動いたのは――
ひとえに、鈴羽の身に異変が起きたからだった。
*
機内。
鈴羽がゆっくりと目を開けた。
ふかふかのシート、精緻な毛布。
ここが飛行機の中であると気づくまでに、少し時間がかかった。
「……もう帰るの?」
か細い声で尋ねる。
「ったく、お前が足引っ張るからだろ」
刹夜はやはり素直になれない。
けれどその中には、どこか安心したような、優しさがにじんでいた。
「……ごめんなさい。私もこんなふうになるなんて思ってなかった……」
鈴羽は真剣に謝る。
まさか、突然あんなに苦しくなるとは思っていなかった。
今、機内には二人きり。
刹夜がふいに口を開いた。
「……俺、サリーとは何もしてねぇ」
「……えっ?」
鈴羽は、思わず聞き返した。