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第62話 嫉妬


「……もういい」


中絶や流産のことになると、九条刹夜の頭はどうしても混乱してしまう。

――いまはまだ、結論が出せない。


電話を切った直後、ホテルの部屋にノックの音が響いた。


「誰っ?」


リビングにいた鈴羽が警戒心を露わにして声をかける。


「砂川様の部下です」


鈴羽が恐る恐るドアを開けると、またあの坊主頭の男だった。

だがその隣には、見覚えのある女が立っていた。


「九条様は?」

「……中にいらっしゃいます」


男装してスーツ姿の鈴羽に、男はあまり関心を示さず、連れてきた女性を部屋に押し込む。


「この女、砂川様が送ったもんだ。九条様が気に入ってたらしいから、今夜は楽しんでくれってさ」


そう言って笑いながら女性を押し込むと、男はそのまま立ち去った。


鈴羽は目を丸くした。

……こういう世界、初めてだ。


そして女の顔をよく見て、思い出す――

そうだ、宴の席で刹夜にベタベタしていた踊り子……!


胸の奥に、もやもやと黒い感情が湧き上がってきた。

――嫉妬……なのか。


何ともいえない不快感がこみ上げるが、

自分には口を挟む権利などないと分かっていた。


「誰だ」


刹夜がスマホを手に、不機嫌そうにリビングに現れる。


「砂川様から……この方を……」


鈴羽が女性を指すと、女はすぐに刹夜に近づき、甘えるように笑った。


「九条様……私、サリーと申します。今夜、ご一緒させてくださいませ」


九条刹夜は一瞥で彼女を思い出した。

――ああ、あの女か。


宴会でしつこく色目を使ってきて、最後にはわざとベールをめくって挑発までしてきたあの女。


「……お前か」


彼は目を細めてつぶやく。


「九条様、夜はまだ長いですよ……楽しいこと、いたしましょう?」


そのまま、刹夜の腕にすがって部屋の奥へと誘っていく。


刹夜は反射的に鈴羽の方を見た。

彼女がどんな反応をするのか、気になっていたのかもしれない。


しかし鈴羽は、わざとらしいほどそっぽを向き、ソファで丸くなって目を閉じた。

最初から何もなかったかのように。


――無関心、ってことかよ。

刹夜は内心苛立ち、そのままサリーを連れて寝室のドアを乱暴に閉めた。


だが、鈴羽の胸の奥では……痛みが静かに広がっていた。


他の女の存在は知っていた。

けれど、それはあくまでも噂や推測にすぎなかった。


今は違う。

たった一枚の壁を隔てて、彼とその女が――


まさか、そんなことを耳にしながら過ごさなければいけないのか。


(ダメ、考えちゃいけない……私は、そんな立場じゃない)


そう自分に言い聞かせても、心は裏切る。

息苦しいほどの痛みが、彼女の胸を支配していく。


ほどなくして、寝室から女の甘ったるい声が響き始めた。

耳まで熱くなるような、あられもない声。


鈴羽はソファにしがみつき、眉間にしわを寄せながら、ひたすら耐えていた。


――


寝室の中。

ベッドの上で、サリーは一人演技に没頭していた。


刹夜は、というと、窓辺に立ってシガーをふかしていた。


さっきサリーに、

「……俺は女に興味がないんだ。でも、悪いが……このことは、黙っていてくれ」と伝えたばかりだ。


サリーは目を丸くしたが、すぐに納得したように頷く。

――そういう趣味の人も、ここにはたくさんいる。


ゴールデントライアングルに集う大物たちは、バイセクシャルや同性愛者など珍しくもない。


驚くような話じゃない。


サリーはただ、惜しいと思った。

目の前の男は、これまで出会った中でも群を抜いて美しかったのに。


彼女は子どものころから砂川彰の元で調教され、客を悦ばせるための道具として育てられた。


誰を相手にしようと拒否することは許されず、ベッドの上で何があろうと、当たり前のことだった。

もうとっくに慣れてる。


それなのに――

せっかくこんなに魅力的な男が、女に興味がないなんて。

やっぱり、惜しい。


サリーは、彼は男のプライドを守るため、わざと自分に喘ぎ声をあげさせ、外に聞こえるようにしているのだと思った。

――ふたりがすでに関係を持ったかのように、見せかけるために。


だが実際のところ、すべては鈴羽への当てつけだった。


さっき、寝室へと消える直前――

彼は一度、鈴羽の方を振り返っていた。

ほんの少しでも、彼女に引き止めてほしかった。


けれど――

彼女はまるで無関心で、そっぽを向いていた。


その姿に、刹夜は腹が立って仕方なかった。

けれど、その場で鈴羽の“正体”を明かすわけにはいかない。


――砂川彰は信用ならない。

それどころか、こちらの動きを疑っている気配さえある。


もし鈴羽が「自分の女」だと知られれば、命の危険すらあるのだ。


そんな中――

「若……っ!」


慌ただしく部屋に戻ってきたボディーガードの声が、緊迫感を孕んでいた。


「その、“彼”が……倒れてます。ソファの上で……」


充電器を取りに戻ってきた一人が、鈴羽の異変に気づいた。

ソファに横たわる彼女は顔面蒼白で、いくら呼んでも目を覚まさない。


刹夜は即座にサリーを追い出した。


「悪い、先に帰れ。うちのボディガードが体調を崩した」


サリーは名残惜しげに身を起こすが、刹夜が迷いなく五千ドルを差し出すと、すぐに満面の笑みを浮かべた。


「ありがとうございます!また呼んでね」


――そんな軽い言葉も耳に入らない。


「若、どうしましょう……?」


ボディガードが小声で訊いた。


病院に連れて行くわけにはいかない。

行けば、鈴羽が女であることも、妊娠していることも、すべて露見する。


ここは砂川彰のシマ。

一手誤れば、命取りになる。


刹夜はしばし考え込む。

サリーが去った後、ボディガードに見張りを頼み、自分はすぐに部屋のドアを閉めた。


「おい鈴羽! ……目を開けろ。なぁ、ふざけんなよ。死んだフリなんてしてる場合かっ!」


必死に揺さぶると、彼女がうっすらと目を開け、か細い声で言った。


「……刹夜さん……お腹が……痛い……」


その瞬間、刹夜の視線が彼女の下へと落ちた。

灰色のソファに広がる、鮮やかな血の色。


「おまえ……っ!」


刹夜の頭の中で、理性が吹き飛んだ。

彼は彼女を抱き上げると、そのまま夜の街へと駆け出した。


時刻はもう深夜。

だが、幸いにも裏医者がまだ開いていた。


扉を蹴破るように開け、刹夜は銃を取り出して叫ぶ。


「こいつを診ろ!急げ、さもないと撃つぞ!!」


診療所の医者は、五十代ほどのカンボジア人の男。

肌は浅黒く、両手を挙げて震えていた。



緊迫の数十分後――

医者が処置室から出てきて、英語で告げた。


「旦那様、ご安心を。奥様は無事です。

 精神的ショックによる切迫流産です。ですが幸い、大事には至っていませんでした。

 妊娠されていることは……ご存知でしたか?」


刹夜は頷く。


「妊娠維持の注射を打ちましたので、今は落ち着いています。

 ただ、これから半月は絶対安静にしてください。なるべく歩かせず、精神的な刺激も避けてください。

 そうでないと、再び流産の危険があります」


刹夜は無表情で、「わかった」とだけ返した。


そして、一万ドルをカウンターに叩きつけるように置いた。

医者の目が見開かれる。


「この女が妊娠していること、誰にも漏らすな。 金は十分払う。だがもし口を滑らせたら……どうなるか分かってるな」


その言葉に、医者は恐怖で顔を青ざめさせながら、必死に頷いた。

「はい、誓います。絶対に口外しません……!」


注射を受けた鈴羽は、意識が朦朧としたまま眠りについた。

刹夜は彼女を抱きかかえ、目立たぬよう診療所を後にした。


そして――

彼らが出て行って間もなく、案の定、誰かがやってきた。


だが、命をかけた脅しの前に、医者は沈黙を守った。


「来たのは腹痛の患者だ。薬を出して、帰っていったよ」


砂川彰の手下も納得したように引き下がった。



――翌朝。

夜が明けると同時に、刹夜はゴールデントライアングルを離れた。


あまりにも急いでいたため、砂川彰に挨拶もせず、現地の協力者を通じて車を手配し、国境を越えてタイへ。


タイには、刹淵組の強固な拠点がある。

チェンマイからプライベートジェットを手配し、日本へと帰還する。


刹夜がここまで焦って動いたのは――

ひとえに、鈴羽の身に異変が起きたからだった。



機内。

鈴羽がゆっくりと目を開けた。


ふかふかのシート、精緻な毛布。

ここが飛行機の中であると気づくまでに、少し時間がかかった。


「……もう帰るの?」


か細い声で尋ねる。


「ったく、お前が足引っ張るからだろ」


刹夜はやはり素直になれない。

けれどその中には、どこか安心したような、優しさがにじんでいた。


「……ごめんなさい。私もこんなふうになるなんて思ってなかった……」


鈴羽は真剣に謝る。

まさか、突然あんなに苦しくなるとは思っていなかった。


今、機内には二人きり。

刹夜がふいに口を開いた。


「……俺、サリーとは何もしてねぇ」

「……えっ?」


鈴羽は、思わず聞き返した。


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