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第61話 川崎


「かしこまりました」


そう答えると、私立探偵は足早に部屋を出ていった。


神楽坂流河は、ただ黙って窓の外に広がる夜景を見つめていた。

その横顔には、どこか寂しげな影が差していた。


――鈴羽。

二十数年の人生の中で、彼が出会った中でもっとも面白く、そしてもっとも頑固な貧しい少女だった。


本当に、彼女は特別な存在だ。


作ってくれたあの餃子の、あの特別な味が……

まだ舌の奥に残っている気がする。



一方その頃。

月島千紗は完全に自分を解放していた。


増額されたカードで派手に買い物を楽しみ、

新しい服を何着も手に入れ、

夜になればナイトクラブで遊び尽くし――


酔いが回る頃には、男も女も関係なく、取り巻きのように周りに集まっていた。


夜風に当たろうと、店の外に出た瞬間。

――ドンッ!


「きゃっ、なに!?ちょっと、いきなり何すんのよっ!」


肩を強く叩かれた千紗は、怒りながら振り返る。


が、その男が黒い帽子を取ったとたん――

千紗は呆然とした。


正確に言えば、その顔をはっきりと認識した瞬間、言葉を失った。


「……なんであんたが、ここに……?」


目の前にいたのは、かつての駆け落ち相手――

川崎だった。


彼女は愕然とする。


だって彼は、極度の出不精。

一度住みついたアパートから動くのも嫌がり、

ゲーム三昧でカビが生えそうな生活を送っていた人間だ。


そんな彼が、遠路はるばる自分を探しに来た?

そんな馬鹿な――


「来ちゃダメかよ? 来なきゃ、お前が金持ちの奥さん気取りで贅沢三昧してるって気づかないだろ?」


川崎の声には冷笑が混じっていた。


「……いや、その……ただ、交通費とかどうしたのかなって……」


千紗はごまかそうとする。


「そりゃあ誰かが金をくれたからに決まってんだろ。


 ……なぁ、月島千紗。俺、今になって気づいたよ。

 お前って……こんなにクズだったんだな。


 バイトの最中にいきなり失踪して、そのまま金持ちの男に媚び売って、奥さん気取り?


 ふざけんなっ……じゃあ俺は何だったんだよ!」


川崎の怒りは、もはや抑えきれないほどだった。


「……ここじゃまずいわ、話すなら場所を変えよう」


千紗はあたりを警戒しながら言った。

九条刹夜はいまこの街にいないが、刹淵組の目は至る所にある。

しかも徳川花怜にも監視されていることを薄々気づいていた。


余計な波風は立てられない。


近くの小さな居酒屋へ川崎を誘い、

適当に料理と酒を注文する。


何度も扉の方を振り返り、人目がないと確認した後――


「違うの、川崎。あんたが思ってるようじゃないの。全部……誤解よ」


千紗はようやく口を開いた。


「どこが誤解なんだよ」


川崎はまだ怒りを隠せない。


「私、本当は前から彼と関わりがあったの。彼が探してたのは私で……今まで、誰かが私になりすましてただけ」


「いつからだ、奴がお前を好きだってなったのは」


「……たしか、一年前くらい」


千紗は思い返す。

妹と刹夜が一緒に住み始めたのも、だいたい一年前だった。


その答えに、川崎のこぶしが固く握られる。


「……俺たち、何年付き合ってたと思ってんだ!?

 そのたった一年の男のために、俺を捨てるのかよぉ!

 マジで人でなしだな、お前は。


 俺は……お前に言われて、親も仕事も全部捨てて、知らない土地に駆け落ちしてきたんだ。

 家に残ってたら、親父が用意してくれた会社で働いて、今ごろは安定した生活してた。

 もしかしたら、今頃好きな子と結婚してたかもしれない。


 それが全部、お前のせいで終わったんだ……!

 逃げよう、遠くへ行こう――お前がそう言ったから信じた……。


 けど気づけば……俺は置き去りにされて、金も残さず、食うにも困った……。

 ……月島千紗、お前って本当にどうしようもないクソ女だなぁ!」


川崎は怒りをどこにもぶつけられなかった。


最初はただ千紗が一時的に拗ねてるだけだと思った。


でも、何度連絡しても、既読すらつかない。

気づけば、自分は彼女のすべての連絡先からブロックされていた。


その後、知らない番号から電話がかかってきて――

「君の彼女、今は金持ちの男に飼われてるらしいぞ」


そんな言葉を聞いた瞬間、川崎はようやく全てを悟った。

――自分は、捨てられたんだ。


「シー」

月島千紗は慌てて人差し指を立てた。


「声が大きすぎるよ。ここじゃまずいから……お願い、静かにして」


彼女は周囲に誰かに聞かれることを、心底恐れているようだった。


「ごめん、私が悪かった。こんな形で終わらせたのは、本当に申し訳ないと思ってる。……でも、あんたも知ってるでしょ、私たちの間にはもう……気持ちは残ってないの」


千紗は静かに言った。


「は……」


川崎は苦く笑う。


――数年分の想いが、たったひと言で消されるなんて。

全部、金のせいか。


「お願い、聞いて。恋愛って、無理して続けるもんじゃない。無理に一緒にいても、どっちも幸せになれないんだよ」


 付き合ってる頃、あんたはずっとゲームばっかりしてて、働こうともしなかったよね?あの時、家賃も生活費も、全部私が払ってたんだよ?

 私だって疲れるのよ。服ひとつ買うにも我慢してたのに……。


 ……でも、いまは違う。あなたにはできなかったことを、九条刹夜なら全部叶えてくれる。

 あんたが一生買えないジュエリーだって、彼なら毎日、私にプレゼントしてくれるの


 私たちは……私はもう、戻れないんだ」


そう言い切る千紗の目は、冷たく乾いていた。


「それで、俺にどう償うつもりだ?」


川崎は最初、まだ心のどこかで未練があった。

けど千紗の態度があまりに高飛車で、金の話ばかりするので、もう元には戻れないと悟った。


ならば……せめて見返りをもらわないと気が済まない。


「……いくら欲しい?」


千紗は一応、試すように聞いてみた。


「二千万」

「はぁっ!?」


千紗は耳を疑った。


「……あんた、正気!? 二千万!?

人をゆすってんの!? ふざけんなっての!」


ついこの間、ようやくカードの上限が千万に上がったばかりなのに。

そんな大金、彼に渡せるわけがない。


――最初は百万くらいで追い返せると思ってたのに……。

この男、なにを勘違いしてるの?


「お前、どうせ今超金持ちと付き合ってんだろ?

 服とか全部ブランドじゃん。


 俺知ってるぞ。そのエルメスのバッグだけでも何十万するよな?

 だったら二千万くらい要求しても当然だろ」


川崎は皮肉な笑みを浮かべたまま、グラスの酒をあおった。



その頃、ゴールデントライアングルのホテルでは。


風呂から出た九条刹夜が、バスローブ姿で髪を拭いていた。

ちょうどそのとき、黒岩平吾から電話がかかってくる。


「若様、例の件……もう、実行されましたか?」


声のトーンは低く、そして慎重だった。


「あと二日でお戻りになります。帰国してからだと、いろいろ面倒になりますから、いまのうちに済ませておいた方が……」


――彼が言っているのは、鈴羽の妊娠の件だ。


今日、九条刹夜はその機会があった。

スイカジュースに薬を混ぜ、彼女の目の前にまで差し出した。


けれど、彼の手が――

あのとき、勝手に動いた。


「……まだだ。他に方法はないのか」


平吾の返答は冷静だった。


「であれば、いっそ直接お話されては……?ご本人が納得されれば、診療所で正式に手続きができます」


だが、刹夜は黙り込んだ。


鈴羽に――

「病院へ行こう。子どもを……」と口にできるのか……?


いや、言えない。

どうしても、言えない。


――だって、あの子は、自分の子どもでもあるから。


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