夜が更けるにつれ、街の喧騒も遠のいていった。
広大な屋敷の一室で、江藤拓海は目を閉じ、ベッドに横たわっていた。
豪華な刺繍入りの掛け布団の下で、彼の胸の鼓動は乱れ、唇の間から漏れるうめき声が、決して安らかな眠りではないことを物語っていた。
私はドアの外、わずかな隙間から覗き込み、刻々と過ぎる時間を計っていた。
あの茶を飲ませてから、もう三十分。
そろそろ薬の効き目が現れるころだ。
案の定、彼は苛立った様子で掛け布団を蹴り、襟元を掴み、思い切り引っ張った。ボタンが弾け飛び、汗ばんだ胸板が露わになる。
好機だ。
今日こそ、私たちの間に決着をつけなければ――
ドアが閉まる音に、拓海はパッと目を見開いた。
「出て行け!」
「拓海……」
私は薄手のランジェリーに身を包み、猫のように彼のベッドに這い上がった。恥じらいなく、自らのすべてを見せるように。
「辛いでしょう…? 私が助けてあげるわ」
私は彼の腿にまたがり、上体を乗り出した。
荒く、制御を失った吐息の熱気を感じながら、手を彼の固く、焼けるような胸板へと滑らせた。
「我慢なんてしないで…。私はあなたの妻よ。何だってしていいの」
拓海の喉仏がぐっと動いた。
体内で、抑えきれない欲望が渦巻き、暴れていた。
次の瞬間、天と地がひっくり返るように、私はベッドへと押し倒された。
拓海の大きな体が私を覆い、両手は頭の上で押さえつけられた。
彼の眼は狼のように鋭く、何かを食いちぎるような凶暴な光を帯びていた。
これでいいのだ。今日さえ乗り切れば、すべてをなかったことにできる。
私は顔を上げ、彼の喉仏に口づけをした。足の甲は彼のふくらはぎに沿い、ゆっくりと上へ。ありったけの色気を込めて、彼を惑わせ、挑発する。
ついに彼は堪えきれなくなった。
大きな手が私の服を掴み、一気に引き裂いた。
布が破ける音が闇を切り裂き、アドレナリンが一気に噴き上がるのを感じた。
彼は頭を下げ、冷たい唇が私首筋に触れた。
私はそっと身をよじり、彼の激しい反応を受け止めた。
その時、彼の声が聞こえた。
「死ね…」
次の瞬間、私はベッドから放り投げられた。
彼の目は冷たく、無情で、私は動けなくなった。
「薬を入れたな」
彼の身体の隅々までが、その異常を訴えていた。この山頂の屋敷は、内も外もすべて彼の配下――それをできるのは、私だけだ。
声はひどく掠れ、明らかに限界をこらえながらも、爆発寸前で踏みとどまっていた。
またも失敗。果たして何度目だろう?
十回? 百回?
いや…九百九十九回。三年追いかけて、三年結婚して、この禁欲的な夫を誘惑して九百九十九回…それでも結ばれない。
なんて滑稽なんだ。人妻になった私が、まだ処女だなんて。
もういい、江藤真希。これ以上、恥をかくのはやめよう。
拓海は決して私を受け入れない――
私はゆっくりと立ち上がった。
「そうよ、私が薬を入れたの。でも、これ全部、あなたのせいなのよ!」
拓海との出会いは、十八歳のとある宴会だった。
兄が、親しい友人たちを私に紹介してくれた。
その中に、拓海がいた…
煌びやかな宴席の片隅、彼はひと筋の月光のように、ひっそりと座っていた。月の白を思わせる、立襟が特徴的な長いローブ、襟には三つの玉で彫られた蓮のボタンが飾られている。
彼はうつむいて茶を点て、手を上げるたびに、首にかけた数珠がそっと揺れた。
湯が器に注がれ、湯気が立ち込める。彼が顔を上げ、こっちを見た。その奥深い視線が、私の心臓を直撃した。
銃で撃たれたように、心臓がはっきりと一拍だけ狂った。
友人に彼の名を尋ねた。
「江藤拓海さんだよ」と教えてくれた。
そうか、彼が拓海、江藤家の後継ぎ。幼い頃から寺で仏道に親しみ、人間の感情と欲望にとらわれぬ、俗世を超越した、有名な「仏の子」って人が?
私が彼に見とれているのを見て、友人が言った。
「惚れちゃダメだよ。彼を愛することは、孤独を愛することと同じだから」
あの頃の私は、自信に溢れ、怖いもの知らずだった。
誰の忠告も警告も無視し、拓海の後ろに付きまとい、あらゆる手を使って、彼を惑わせ、口説いた。
高級車に豪邸、宝石を贈っても断られた。
彼が仏道に親しむと知ると、純金で仏像を作って贈った。
彼は「お前には仏が分かっていない」と言った。
だから私は必死に仏典を読みあさり、あちこちの霊場を巡り、彼のために禅院まで建てた。
けれど、どんなことをしても、彼はいつも淡々と、突き放すような冷たさだった。
世間では、黒澤家の令嬢は拓海の手のひらで踊るべた惚れ女だと噂されていた。
家族は情けないと私を非難したが、私はそれを甘受してやまなかった。
こうして私は十八歳から二十一歳まで追いかけ続け、袖を掴んだことはあっても、それ以上の接触は一切許されなかった。
正直、その頃はすっかり心が折れてしまい、これ以上続けるべきか、何度も迷ったものだ。
しかし、彼が突然、私に求婚してきたのだ。
あまりに突然で、私はパジャマ姿のまま、暗い自宅の玄関先で、「結婚しよう」の五文字を聞かされた。
とうとう私の想いが届いたのだと、私は嬉しさのあまり彼に飛びついた。
その時、私は月明かりの下、彼がそらす顔や、微塵も揺らがない目を、見落としていた。
私たちは結婚した。しかし、三年たっても、彼は決して私に触れようとしなかった。
最初は、長く仏道に親しみ禁欲を貫いてきたせいで慣れないだけかと思い、時間が必要なのだと信じた。
いいの、努力は私がする。彼はそこに立っているだけでいい。私から近づくから。けれど、近づくたびに、彼は容赦なく私を突き放した。
今回は、本当に私たちの最後のチャンスだと思って用意した。
彼が本当の夫になってくれるなら、今までのことは全て水に流しても構わない。なのに、どうして彼は、烈火のような欲望に耐えても、私に一切触れようとしないの? 私のどこが悪い? いったい何が間違っていたって言うの!
分からない…わからないよ!!
「私を受け入れる気がないなら、どうして結婚してくれたのよ!」
彼は答えようとせず、私の脇をすり抜けて部屋を出て行った。
ダメだ。たとえ諦めるにしても、終わりにするにしても、答えをもらわなければ!
部屋を飛び出し、廊下の奥の座敷へ彼が入っていくのが見えた。普段、彼が座禅を組む、私が足を踏み入れてはいけない聖域だ。
今回はそんなこと構っていられなかった。
近づくにつれ、押さえきれない苦悶の声が断続的に聞こえてきた。
ドアはしっかり閉まっていない。隙間から灯りが漏れている。どうしても覗かずにはいられなかった。
まさか、この目にした光景が、六年間の努力をすべて笑いものにするとは思いもよらなかった…
線香の煙が柔らかく漂う中、仏像は俯くように見下ろしている。
拓海は仏前の敷物の上に跪き、衣服は乱れ、首の数珠が激しく揺れていた。
彼の左手には一枚の写真立てが握られている。
写真は昏い灯りの下で、かすかにその姿を見せていた。
白いワンピース、笑みを浮かべた目、鼻先のほくろ。それは…彼の義妹、江藤小雪の顔だった――
彼は、義妹の写真を見つめながら、自慰をしていたのだった。
唇を噛みしめ、口の中に鉄の味が広がった。
それでも、目だけは執拗に、その光景から離そうとしなかった。
頂点が訪れた時、拓海は写真に口づけをした。
声はまるで別人のように、ひどく掠れていた。
「小雪…兄さんは、お前を愛している…」
それはか細い囁きで、一語一語にこぼれ落ちるほどの情愛がこもっていた。
そして、またしても苦悶の声が漏れた。
私はどうやってその場から逃げ出したのか、覚えていない。
激しく降り注ぐ雨が、心の中の炎を消し去ったせいか、かつてないほど冷静だった。
私は悟った。彼は無欲ではなかった。ただ、その欲望の対象が、江藤小雪、継母の連れ子だったという事実を。
彼が私と結婚したのは、四年にわたる私の一途な愛に心動かされたからではなく、義妹に対する欲を断ち切るためだった。
仏道に親しむこと、感情にとらわれぬこと、結婚――それらはすべて、単なる盾であり、偽りであり、騙しだった!
「拓海、よくもここまで私を騙したわね!!!」