一晩かけて、私は悟った。掴めないなら、いっそ振ってしまえ、と。
だから、拓海。あなたも自由にしてあげる、私自身も自由にするわ。
夜が明けると、私はパスポートと必要な書類を持ち、大使館へ向かおうとした。
ところが、部屋を出てすぐ、まさかの人物に遭遇した。
「お義姉さま、お久しぶりです」
江藤小雪――拓海が心に秘めた人…
彼女って、フランスに留学中じゃなかったの?いつ戻ったんだろう?
彼女が戻れば、拓海は大喜びだろうね。まあ、いいさ。もう私はここを離れるのだから。あの二人がどうなろうと、もう私には関係ない。
「ちょっと通して」
相手にする気もなかったが、小雪は行く手を塞いだままで、微動だにしなかった。
「この三年間、お義姉さまはさぞお辛かったでしょうね」
その言葉が、三年ぶりに再会した小姑を、改めて私に直視させた。
三年前、私と拓海の結婚直前に、江藤小雪は海外留学へ送り出された。
それ以来、私たちに接点はほぼなかった。
小雪はあまり変わっていない。白いワンピース、墨のような長い髪を肩に流した清楚な姿。ただ、その笑顔はどこか、ひどく偽りに満ちているように思えた。
今さら、私を挑発しに来るなんて。はっ。
「私は元気でやってるわ、ご心配なく」
私は小雪の脇をすり抜けようとした。
小雪の声が、まるで巣食う蟲のように、容赦なく背後から追ってきた。
「お義姉さま、見栄を張らないでください。この数年、お兄様はフランスでよく私に会いに来てくださいました。お兄様、中華料理がとてもお上手なんですよ。私の好きな料理は何でも作れます。一緒に買い物にも出かけますし、私を喜ばせてくれて、プレゼントも買ってくれます。祝祭日はいつも二人きりで過ごしてきました。私が帰国したらお義姉さんの所へ行けって言うんだけど、彼は私を一人にするのが心配で、数日でまたフランスへ戻ってきてしまうんです。でももう大丈夫。今度は私が日本に戻りましたから。お兄様が、ここに住めっておっしゃったわ。これからは、一緒に暮らせるの」
小雪の一言一言が、私の胸を刺した。心の中で、抑えきれない嫉妬と怒りが渦巻いた。
本人からそう聞かなければ、拓海が人を抱きしめたり、人を喜ばせたり、誰かのために料理をするなんて、想像だにできなかった!
あの男が、幾度も私の元を空けていた記念日が、実は国外で小雪と共に過ごしていたものだなんて!
私が全身を震わせているのを見て、小雪は近づき、私の手を握った。
「お義姉さま、怒ってしまわれたのかしら?」
私は彼女の手を振りほどいた。
「きゃっ!」
小雪が悲鳴を上げ、背後にあった装飾画にぶつかった。衝撃で飾り枠が揺れ、倒れ落ちそうになる。それが彼女めがけて――
「危ない!」それは、私の口から出そうになった言葉だったが、実際に叫んだのは拓海だった。
彼は豹のように走り寄り、絵の額縁が小雪に直撃する寸前に、彼女をかばった。
バンッ!
数十キロはあろうかという重厚な額縁が、拓海の背中にめり込んだ。
「お兄様!」
「拓海!」
私は彼の上に倒れかかった額縁を押しのけ、助け起こそうとしたが、彼はよけると同時に言った。
冷たいその言葉。
「失せろ」
彼が見つめる視線は、まるで敵意そのものだった…
「お兄様、大丈夫?」小雪は目を真っ赤に腫らし、触れようとしても手が届かない様子。
「大丈夫だよ。小雪は怪我していないか?」
「大丈夫」
そう言うと小雪は拓海の懐に飛び込み、彼の首に腕を回し、すすり泣いた。
「お兄様、怖かったわ」
なんとも情愛に満ちたやりとりだ。私は完全に、余計な存在だ。
元々、この物語には私の居場所はなかった。
とっくに退場すべきだったのだ。いや、そもそも拓海に心が寄せる人がいると知っていれば、彼と結婚なんてしなかった。
私は一歩、また一歩と後ずさりした。
せめてもうこの二人を邪魔したくはなかったが、彼らがそうはさせなかった。
「真希!」
その一声で、私は金縛りにあったような気分になった。
「謝れ」
小雪が拓海の手を引いて宥めた。
「お兄様、もういいわ。私が悪かったの。私の方からお義姉さまに謝りたかった。長い間、お兄様を独り占めしてきたんだから…お義姉さまが私を恨むのも無理ない」
「小雪はお前よりもずっと優しい。彼女は僕の妹だ。僕が妹を守り、労るのは当然だ。不満なら、僕に直接言えばいい。小雪に手を出すな!」
妹を可愛がるのは当然として、妻を軽視するのも当然、さらには妻に生きながら墓穴を掘らせることが当然だと言うのか!
「私は彼女に手を出してなんかいない」
「その言い訳は通用しない。俺がこの目でお前が手を出したのを見た!」
「彼女の手を振りほどこうとしただけだ。押したわけじゃない。彼女がよろけて、壁にぶつかっただけだって言ってるでしょ――」
「いい加減にしろ!」拓海が怒鳴った。「真希、これ以上図々しい真似はするな」
私が図々しい?
この私が……
彼の矛先は、どこを突けばいいかを常にわかっている。
私が人生で最も図々しいことをしたのは、昨夜ランジェリーに身を包んで、無理やり彼に抱かせようとした挙句に失敗したことだろう!
彼は私を愛さなくていい、必要としなくていい。だが、私を傷つけた後に、まるで悪者のレッテルを貼るようなことは、二度とさせない!
「江藤小雪。私があなたを押したの?」小雪自身に真実を語らせる。そう思った。
だが、私は忘れていた。狐の住む穴から、鳳凰は飛び立たない。
「いいえ」小雪はそう答えた。
だが、その目に溢れる不満や我慢の色は、口にした言葉が本心でないことを物語っていた。
「あんた……」
小雪は拓海の胸に顔を埋めた。
「お兄様、腕が痛いわ……」
拓海は小雪を抱き上げ、廊下へ向かった。
私の脇を通り過ぎる時、彼が言った。
「小雪に何かあれば、お前をただでは置かない」
拓海の肩に押されてよろけ、私は壁に背をぶつけた。
二人が去っていくのをただ見送る。その時小雪が、私に向けた勝利者の微笑み。
心はもう死んでいるはずなのに、痛まないはずなのに。
それなのに、どうして……
頬をつたう涙が、いつも本当の自分を裏切る。
拓海、誠意を裏切った者は千本の針を飲まねばならない。
私はお前を決して祝福しはしない!
私は背を向けた。二度と振り返らずに。
「審査結果は七営業日以内にお知らせします」
K国大使館。係官は微笑みながら、書類を受け取った。
数年前、海外のビジネスが拡大したのに伴い、両親はタイミングを見て、国内の資産をすべて海外へ移した。両親も兄も、それに合わせて引っ越した。
残ったのは私だけだった。拓海のため。
だが今、私たちはもう行き詰っている。
あと七日、すべてが終わる。
父と母、そして兄へのお土産を買おうとしていたところ、拓海から電話がかかってきた。命令とも取れる口調で、直ちに帰宅するよう告げる。
車を走らせ、江藤家の屋敷へ戻る。
玄関に入ると、ソファに座り暗い顔の拓海と向き合った。
「どこへ行っていた?」
「用事を済ませに」
「お前に何の用事があるというんだ」
「あなたを喜ばせてあげようとする――用よ」
永遠に、あなたから離れるという。
「これ以上手前らしい小細工を弄するな」
彼は目を上げずに言った。声は氷で包まれた刃のようだった。
私はもう離れると決めた。これ以上何かをするつもりはない。
ああ、わかった。私が再び彼を誘惑し、手を出すのを警戒しているのか?
私は口元をほころばせ、一語一語を噛みしめるように言い放った。
「だったら用心したまえ。これ以上隙見せないでね」
「厚かましい」
声には、微塵の温かみもなかった。もっと拓海が注意深く見ていれば、私の異変に気づいたはずだ。
だが、それはなかった。彼はこの豪奢な屋敷と全く同じで、冷たく、無情だった。
私は空を見上げなければならなかった。そうしなければ、涙がこぼれ落ちてしまう。
「呼びつけて、用件は?」