無かったことに?
彼女のせいで百発のビンタを喰らったのに、それがチャラってこと?
彼女が消火器で私の頭を割ったのも無かったことに?
私が病院のベッドで寝ている間、彼は小雪を連れてオークションに行き、王妃のティアラを落としてやり、私にはおまけの品をくれた。
「拓海……あんたの中の私は、そんなに安いの?」怒りに震えながら、彼が差し出したブレスレットを払いのけた。
「お前……」拓海は叱りつけようとしたが、私の額からゆっくり流れ落ちる血を見て表情を変えた。
「医者を呼べ!」
激しい感情の起伏で傷口が開き、縫合し直す必要があった。
ベッドに横たわり、目の前で揺れる白衣をぼんやりと見つめる。
針が刺さる痛みも、心の痛みを遮ることはできなかった。
拓海は終始そばに立ち、医者が血だらけの傷口を針で縫い合わせるのを見つめていた。いつも彼にまとわりついていた真希が、頬を腫らし、無表情でいるのを。
彼女はもう「痛い」と泣きついたり、慰めて抱っこしてとせがんだりしない。
あの時、彼は本当に頭に血が上っていた。だから護衛に彼女を殴らせたのも、小雪にいちいち逆らうなと教訓を与えるためだった。
今回は確かにやりすぎたかもしれない。慰めてやるべきだった……
「今度は絶対に気をつけて。また裂けたら、跡が残りますよ」医者が去った。
拓海はベッドの端に座り、考え込んで私の手を握った。
「今回は小雪が軽率だった。退院したら、彼女に謝らせる」
彼女の謝罪なんて要らない。彼の触れる手も嫌だ!
手を引っ込め、顔を背けた。
拓海の冷たい目に、一瞬ためらいが走った。相変わらずツンツンしたお嬢様だな。
今回はこんなにひどい怪我をしたんだから、大目に見てやろうか。
コンコンコン。
ノックの音がして、「被害届を出された江藤様、こちらでよろしいでしょうか?」
私はガバッと起き上がり、拓海が制止するより早く手を挙げた。
「私です!私が通報しました!江藤家の令嬢、江藤小雪の故意による傷害で告訴します!」
拓海の細い目が危険な輝きを放つ。
「真希……よくも警察を呼んだな」
「何で呼べないの?」私が手を出せないなら、法が裁いてくれる!
私は意地でも抵抗する。
拓海は薄い唇をゆがめて優雅に椅子に寄りかかり、何も言わない。
まさか……小雪を見捨てる気?
警官二人は私が告訴しようとしているのが江藤家の令嬢だと聞き、顔を見合わせて私の身分を尋ねた。
私が小雪の義姉と知り、二人とも安堵のため息をついた。
「江藤真希様、これはご家族内のもめ事ですので、内部で解決されることをお勧めします」
え?内部処理なんて嫌だって!帰らないで!
傍らでクスリと笑い声がした。
「何がおかしいの?」私は睨みつけた。
「お前、甘すぎる。東京中、江藤家の事件を扱える者はいない」
自信に満ち、傲慢な口調。
残念だ。黒沢家の勢力はもう海外に移ってしまった。さもなければ、黒沢家の力で江藤家と渡り合えたものを。
拓海の声は柔らかく、私が悔しがる姿を見るのが好きなようだった。
初めて私に向けて笑みを浮かべて、「もう小雪は叱っておいた。お前も騒ぐのはやめろ」
彼が小雪を叱った?
どう叱ったのか、聞いてみたい。
「どうやって叱ったの?」
「次は手加減しろってな」
やっぱり……全然驚かないわ。
小雪に殴り殺されても、彼は当然だと思うの?
布団をぎゅっと握りしめ、抑えきれぬ怒りで枕を彼に投げつけた。
「出てけ!出てってよ!」
彼は私の手首を掴み、強引に枕を払いのけた。
「真希、わざとやっているのか、いいところで手を引け」
昔、彼を誘惑しようとして、わざと自分を傷つけたことは何度もあった。
彼を怒らせようと、わざと他の男と絡むことも。
全部私がやったバカな行動だ。
そして彼はいつも冷たい目で見ているだけで、心は微塵も動かなかった。
今、彼が慰めに来て、贈り物までくれる。
私が賢ければ、いいところで引き下がるべきだろう。
拓海、私は駄々をこねてるんじゃない。本当に、本当にあなたには失望したの…
移住手続きの結果が出るまであと4日。4日後には、もう私の姿は見られなくなる。
もう誰にも煩わされず、騒がれず、誘惑されたりすることもない。
俯いて黙り込む私を見て。
彼は私の手を取り、そのブレスレットをつけてくれた。
「大人しくしていろ。これ以上小雪とトラブルを起こすな」
懐かしい安らぐ白檀の香りの中に、嫌な濃厚な香水の匂いが混ざっている。
もう昔好きだった匂いじゃない……
「しばらく病院に付き添ってあげる」
私は入院するつもりはなかった。離れるために片付けるべきことがあったから。
私の要求で、拓海は渋々退院手続きを取ってくれた。
家に戻ると、小雪が真っ白なドレスを着て玄関に立っていた。首や手首に豪華な宝石を身につけ、まるで彼女がこの家の女主人のようだった。
小雪は私を見るなり、口を開くより先に涙を浮かべた。
「お義姉さん、ごめんなさい……全部私が悪いんです。お義姉さんを陥れるべきじゃなかったし、叩くのもダメでした。ただ怖くて……昨夜お義姉さんが言った『お兄様のそばから完全に消えてやる』って言葉が怖くて……お兄様のそばを離れたくなくて、つい手を出してしまったんです。お義姉さん、私、間違ってました。許してください」
彼女の涙は、拓海の感情を増幅させる特効薬だった。
愛する女を泣かせておけるわけがない。
優しく小雪を抱きしめて、「小雪は全部話してくれた。昨日は君が彼女を押したわけじゃなくて、彼女が自分で額縁にぶつかったんだ。彼女は怖くて、俺に構ってほしくて、真実を言えなかっただけだ」
本当に小雪を甘く見ていた。
自分から額縁にぶつかったことを認める勇気があるとは。
全てを「お兄様の気を引きたい」という少女の気持ちのせいにしたのだ。
拓海の心はきっとグニャグニャに溶けているだろう。
見てよ。普段は仏に祈るだけの男が、小雪のためにわざわざ病院までプレゼントを届けに来て、小雪をいじめるなと言う。
俗世の香りに染まることも、いとわずに。
「謝ってもらえればいい。合理的でしょ?」
小雪は唇を噛み、まるで屈辱を受けたように。
拓海は眉をひそめた。
「妹にいちいち難癖をつけるな」
「どうして?あの時、あんたが私に謝れって言ったとき、私だって了承したじゃない」
「お前は謝ってないだろ?」
そうだった。確かに日記を奪い合ってて、謝るのを忘れていた。
「お兄様、お義姉さん、私のことで喧嘩しないで。私、もう数日しか居られないし」
小雪は可憐な白い花のように、涙を確実に拓海の胸元に落とした。
「ここはお前の家だ。ずっとここに住めばいい」
小雪は首を振り、適度に苦みをにじませた。
「もう両親がお見合いの相手を探してくれてて……すぐに実家に戻って、お嫁入りの準備をしないといけません」
拓海は腕に力を込め、声には氷が混ざっていた。
「何て?」