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第8話


弁護士から電話がかかってきて、先日作成を依頼した離婚協議書が受け取り可能になったと伝えられた。


離婚協議書には、私は何も持たずに家を出る旨が記されていた。

私は躊躇なく署名し、書類を持って家路についた。


玄関に入ると同時に、台所から楽しげな笑い声が聞こえてきた。

拓海と小雪がおそろいの部屋着を着て、拓海はエプロンをかけながら料理をしている。

小雪はその傍らで、時折フルーツを拓海の唇元に運んでは、嬉しそうに食べさせる彼を見つめながら、二人は談笑していた。


それは私が思い描いていた、家庭の姿だった。

私が味わったことのない、夫婦の睦まじい姿。


私は彼らを見つめながら、小雪の姿が次第に自分自身へと変わっていくのを感じた。

拓海と料理をしているのは私、拓海と愛し合っているのは私、拓海と笑い合っているのは私。

拓海に鼻先をツンツンされるのは私、『食いしん坊』と甘やかされるのは私。


あの日彼と結婚した時、幾度となく妄想していた光景そのものだった。

真希、あなたの夢を、代わりに叶えてくれた人がいるんだ。


私が立ち去ろうとすると、拓海が台所から出てきた。

「待て」

「用?」振り返らない。

見られたくない――この悲しみを。また嘲笑われるに決まっている。


「これを渡す」

差し出されたジュエリーボックスを開けると、真珠のネックレスが現れた。


あの、私が長年憧れていた、Y国女王がテレビで幾度となく身につけていた、深海真珠のネックレスだ。


「あなた……」

「お前、真珠が好きだったよな」


まさか覚えていただなんて……

誰もが、派手で華やかな黒澤家の令嬢が好むのは、ルビーのように華麗で眩い宝石だろうと思い込んでいた。

私も毎回、煌びやかな装いで登場していた。

誰も知らない。私にとって宝石はただの飾りに過ぎず、優雅で奥ゆかしい真珠こそが心の拠り所だということを。


私は様々な真珠のアクセサリーを集めてきた。このY国に百年以上伝わる真珠のネックレスは、私が夢にまで見た逸品だった。


入手を試みたが、最後の一歩で及ばなかった。

まさか、拓海の手からこの夢のネックレスを受け取る日が来るとは。


なぜ今?なぜ今日なんだ?

なぜ、離れると決めた矢先に優しくするの?拓海、どうして最後まで冷酷でいてくれないの!


「泣いてどうした?」

見上げると、冷たいものが頬を伝っていた。泣いていたんだ。

彼はきっと、感動の涙だと思ったのだろう。


拓海、そんな優しい笑みを浮かべた目で私を見ないで。決意が揺らぐ。


「つけてやる」

彼が私の長い髪をかき上げる。真珠が首筋に触れた瞬間、小雪の暗い視線を感じた。

私は首元のネックレスに触れ、小雪へ挑発的な笑みを向けた。


「美しい、よく似合う」

私は拓海に輝くような笑顔を見せた。「ありがとう」


小雪が拓海の腕を掴んだ。

「お義姉さん、こんなに早くお出かけだったんですか?」

「用事があってね」

「ちょうど良かった!お兄様と一緒にご飯を作ったんです。お義姉さん、まだお兄様の手料理を召し上がったことないでしょう?」


拓海が小雪をチラリと見て笑った。

「お前、他人に作るなって言ってたじゃないか」

「あら~お義姉さんは他人じゃないでしょ!」


私が『他人』だとほのめかしているようだ。

拓海は笑ってエプロンを外した。

「俺も用事があるから出かける。二人で食べてろ」


拓海が去ると、小雪は「お義姉さん」呼びもやめた。


「本当に厚かましいわね」

私は腕を組んだ。追い出そうとしているのは見え見えだ。いつかは出て行くが、追い出されはしない。ましてや彼女なんかに!


「私は江藤夫人。お前はただの、もうすぐ嫁に行く居候に過ぎないわ」

小雪を無視し、私は二階へ向かった。


驚いたことに、江藤小雪はそれ以上絡んでこなかった。

部屋に戻ると、怪我に加えこの数日間ろくに休めていなかったせいで、カーテンを引いて少し眠ることにした。


夢の中は煙が立ち込め、辺り一面が炎に包まれていた。

むせて目を覚ますと、それは夢ではなかった。


火事だ。灼熱の炎が部屋中に広がっている。

私は鼻を押さえ、外へ駆け出した。


熱く焼けるドアノブが手のひらに焼け付くのも構わず、必死に引っ張った。

ドアは微動だにしない。誰かが外から鍵をかけたのだ。

「助けて!助けて!」


外で慌ただしい足音が聞こえた。

火事だ!と叫ぶ声も。

その無数の声の中から、私は一つの声をはっきり聞き分けた。


「真希はどこだ!」

拓海だった。


「拓海、ごほっ、ここよ…」もうもうと立ち込める黒煙が臓腑の隅々まで迫り、むせて目も開けられない。必死にドアを叩き、外の者に気づかせようとした。


拓海、ここよ、助けて…

足音が近づく。私は期待に胸を膨らませてドアを見つめた。

火の海から救い出す英雄がその向こうにいるはずだと。


一秒、二秒。ドアノブがガチャリと音を立てたが開かない。

私はドアにすがりつき、声を絞り出した。

「拓海、助けて…」

「真希、中か?」


私よ、開けて、早く開けて…

遠くから呼び声がした。

「旦那様!小雪お嬢様が部屋に閉じ込められています!」


ドアの前の人物は一瞬沈黙した。

「真希、すぐ戻って助ける」

足音が遠ざかっていく。


やめて、行かないで。ドアを開けるだけでいい、開けるだけで…助けてもらわなくていいから、頼むから開けてくれ!


叩き、打ち付け、体当たりした。傷口が裂けても、意識が遠のくほど激しく。

炎が迫る。助けてくれる者などいない。


彼はまたしても、小雪を選んだのだ。

拓海、間違ってた。本当に間違ってた。あなたを愛するんじゃなかった…


炎が部屋全体に広がり、じわりと迫ってくる。

あと三日で自由になれるはずだったのに、結局あなたが私を地獄へ突き落とした…


拓海が小雪の部屋のドアを蹴破り、飛び込んだ。

彼の、いつもは塵一つない服は煤だらけになり、炎に焼かれた焦げ跡もあった。


恐怖に歪んだ目が、必死に部屋中を探る。

隅に丸まる小雪を見つけた瞬間、その目に光が宿った。


「小雪!」

小雪は隅で縮こまり、拓海の声を聞くと怯えながら両手を広げた。

涙が溢れ出る。

「お兄様…怖かったよ、お兄様に二度と会えなくなるかと思って…」

「大丈夫、お兄様がいる。お前を絶対に守る!」


拓海は小雪を抱きかかえ、安堵した。

屋敷の火災を知ると、真っ先に車を飛ばして戻り、火の中に飛び込んだのだ。

部屋の火勢はますます強まっていた。

使用人たちはほぼ避難を終えていた。


拓海は小雪を守り抜いて、炎に焼かれ、物にぶつかっても、小雪に一つの傷も負わせなかった。


目の前に玄関が見えた瞬間、梁がドシンと落下した。

拓海の瞳孔が縮む。咄嗟に背を向け、背中で重い一撃を受け止めた。

喉に鉄臭い液体が込み上げる。


小雪を怖がらせまいと、必死に飲み込んだ。

二人の護衛が救出に駆けつけ、何とか拓海と小雪を火の海から連れ出した。

外に出るなり、拓海は堪えきれず血を吐いた。


「お兄様!」小雪が倒れそうになる拓海を支えた。

息をする度に脱力感が襲う。それでも拓海は小雪をなだめ続けた。

「大丈夫だ、怖くない。」


小雪はすすり泣いた。

拓海が周囲を見回し、執事に訊ねた。

「全員避難したか?」

執事が人数を確認し、頷いた。

「全員です」

拓海が安堵の息をついた時、視線が人垣をかすめる。

違う、一人足りない…


「真希は?」

真希?

皆が顔を見合わせた。誰も真希のことに気を配っていなかった。


使用人たちにとって、夫人はご主人様に愛されていない存在で、まるで空気のように扱っていた。


本当に、彼女がどこにいるのか気づかなかった。

「まだ出てきてないのか?」


彼は突然、二階の最も奥まった部屋を見た。

真希はそこだった!


「お兄様、行っちゃダメ!」

江藤小雪は涙ながらに拓海にしがみついた。


やっとの思いで真希を死なせられる所なのに、拓海に邪魔されてたまるものか。


拓海は小雪を激しく振りほどいた。

「あれは俺の妻だ!」

彼は中に突入しようとした。

ドッカーン! 巨大な別荘が轟音と共に崩れ落ちた。


拓海は目を血走らせて叫んだ。

「真希―――!!!」



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