駆も佳穂も、驚きを隠せない表情を浮かべていた。
佳穂も、このことは知らなかった。
まったく、真希は口が堅いな。
こんなひどい目にあっていたのに、拓海の悪口をひとつも言わないなんて。
正直、あの拓海のどこがそんなにいいのか、全然分からない。偽善者だし、まだ郁の方がマシなくらいだ……。
その郁だが、最近どうかしている。
あの日、突然姿を消してアメリカに行ったきり、もうすぐ一ヶ月。
未だに何の連絡もない。
駆は病室のベッドに横たわる真希を見て、眉をひそめてスマートフォンで写真を撮り、誰かに送信した。
そして、またいつもの気だるげな様子に戻る。
佳穂は体を震わせながら、真希の手をぎゅっと握りしめた。
この件、絶対に拓海が絡んでいる。
拓海以外に、真希をここまで傷つけられる人間なんていない——。
真希が倒れてから、佳穂は何度か真希に、拓海に何をされたのか尋ねた。
知っているのは、拓海が真希にひどいことをしたことと、薬物のことだけ。
それ以外、真希は何も話してくれなかった。
佳穂もそれ以上は聞けなかった。真希をこれ以上苦しめたくなかったから。
ただ、心の中で、きっと拓海は想像以上に残酷なことをしたのだろうと思っていた。
まさか、ここまで非道だったとは——。
だから、真希は長年愛してきた拓海への気持ちを捨て、離婚を決意したのだろう。
考えれば考えるほど、怒りが込み上げてくる。
「ロケットランチャー、持ってない?」
「何するつもり?」
「拓海を吹っ飛ばしたいの!」
駆は思わず笑ってしまった。
佳穂の小さな体で、ロケットランチャーなんか持てるはずがない。
佳穂の怒りは無視して、駆はその場に立つ医者に目を向けた。
医師の表情はどこか重々しい。
「まだ、何かあるのか?」
「江藤さんは、妊娠しています。」
「……なんだって?」
今度ばかりは、駆も笑顔が消えた。
「江藤さんは骨髄を採取された直後に、高濃度の薬物を投与されています。毒素は骨髄にまで及んでおり、この状態での妊娠は母体にも胎児にも命取りです。この子は正常に育つことはできません。母体への負担も大きくなりますので、早期の中絶を強くおすすめします。」
「じゃあ、すぐに処置してくれ。」
駆は一切の迷いもなく言った。
佳穂は駆を見つめた。逆光の中に座る彼は、まるで王子のような気品を漂わせているのに、口から出る言葉は冷たく、命をまるで顧みていないようだった。
駆は佳穂の驚きの視線に気づき、冷たく言い放つ。
「何? 反対なのか?拓海の子を産ませて、真希を犠牲にするつもり?」
……さすが駆。
言葉の一つ一つが核心を突いてくる。
「拓海の子供」という響きが、なんとも皮肉だった。
拓海のせいで真希がこんな目に遭ったのに、さらにその子供に命まで奪われるなんて、絶対にあってはならないことだ。
佳穂は心を鬼にした。
真希が目を覚ます前に、静かにこの子を消してしまうのが、皆のためだ。
彼女は医師にうなずいた。
「では、手術の準備をします。」
佳穂がベッドに目を戻すと、眠っているはずの真希が、いつの間にか目を覚ましていた。
その瞳はどこか虚ろで、焦点が合っていなかった。
「起きてたの?!」
驚きと動揺が入り混じる。
真希がいつから目を覚ましていたのか、彼女たちの会話は全て聞こえていたのだろうか?
「全部、聞こえてたよ。」
真希はうつろな目を動かしながら、そう答えた。
たった一度だけなのに、拓海の子供を授かってしまった。
かつては、拓海との子供を心から望んでいた。
あの頃、子供の顔を予想するアプリが流行っていた。
自分と拓海の写真を入力すると、二人の良いところを合わせたような可愛い赤ちゃんが現れる。
ぱっちりした目、小さな鼻、愛らしい口元——その笑顔は、真希の心をとろけさせた。
でも、今やってきたこの子を、もう抱くことはできない。
目に涙が溢れ、一粒が静かに頬を伝う。
佳穂は胸を痛めながら、「真希、子どものことは、これからだっていくらでもチャンスがあるよ」と励ました。
そうだよね。でも、もうこの子じゃない——。
「佳穂、この間、本当に迷惑かけたね。私のせいで、あんなことに巻き込んでしまって……」
真希は記憶が混乱して、いろいろなことを忘れていたが、今は——
「全部、思い出したの?」
真希は小さくうなずいた。
この間に起きたこと、全部思い出した。
拓海に騙されたこと、小雪に傷つけられたこと、そして、小雪が佳穂を刑務所に送ったことも。
「ごめんね……」
「何言ってるの、悪いのは小雪でしょ。あなたのせいじゃないよ。」
「いつ出てきたの?」
「今日の午後、駆が迎えに来てくれたの。」
佳穂は駆を指さす。
「ついでだ。」
駆が補足する。
「用事があって行ったら、たまたま佳穂もいて、一緒に保釈しただけだ。」
佳穂は続けた。
「出てから、拓海が君の誕生日パーティーを開いてるって聞いて、心配で「煙雲」まで駆けつけたの。車を降りたら、ちょうど真希が裸足で飛び出してきて、車を奪って走り去ったんだよ。」
あの時奪った車、そういうことだったのか。
慌てていて、誰の車かなんて分からなかったけど。
佳穂は、その時の真希の姿が忘れられない。
絶望でいっぱいの顔、裸足で逃げる姿に、心臓が凍りついた。
駆がすぐに別の車を手配して、追いかけてくれた。
江藤家の屋敷に着いた時、ちょうど真希と小雪の会話が聞こえてきて、色々な真実を知った。
あの恐ろしい男が真希に手をかけようとした瞬間、駆が真希を助け出したのだ。
「これからどうする? 私、力になるよ。」
真希が目を覚ましてからの冷静さに、佳穂は嵐の前の静けさを感じていた。
真希は痛みをこらえながら、目に決意を宿す。
「これが拓海の子供なら、彼にもきちんと知らせてあげないとね……」
拓海には、一生忘れられない“贈り物”を届けてやるつもりだ——。
駆は眉を上げ、面白そうに二人を見つめる。この悪だくみ、なかなか楽しそうだ、と。
その頃、拓海は表も裏もあらゆる力を使い、真希を探すために張り巡らせた網を張っていた。
真希が少しでも姿を見せれば、すぐに分かるように。
さらに、闇サイトにも懸賞金をかけていた。真希を見つけた者には一億円——。
地上も裏社会も、騒然となった。
各名家も異変に気づき、この数日間は静まり返っている。敵対していた者同士も、一時的に手を引き、この嵐が過ぎるのを待っていた。
しかし、一日、二日、一週間経っても、真希の行方は分からない。
拓海はますます苛立っていた。
真希が消えてからというもの、ほとんど眠っていない。
煙草を何本も吸い、目は血走り、かつての穏やかな青年の面影はどこにもなかった。
今や、無精髭を生やした、落ちぶれた男そのものだ。
江藤グループ本社ビルでは、社員たちもみな静かに歩き、ピリピリとした空気が張り詰めていた。
誰もが、あの“魔王”に怒りを買わないようにと神経を尖らせている。
拓海は手に持っていたファイルを放り投げる。
「出ていけ!」
各部署の責任者たちは、すぐに部屋を飛び出す。
オフィスの外で、みんなは目配せをし合った。
「最近の社長、本当に怖すぎる……」
「一体、誰が社長をここまで怒らせたんだろう……」
その時、エレベーターの扉が開き、白いワンピース姿の小雪が手に食事の入った箱を持って現れた。
社員たちは一斉に彼女に視線を向けた——。