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第44話

「お嬢様。」


会社では、小雪のことをそう呼んでいる。  

秘書は小雪の姿を見つけると、急いで迎えに来た。


「お嬢様、どうなさったんですか?」


小雪は明るく微笑んだ。


皆に軽く挨拶をしてから、秘書に尋ねる。


「兄は中にいる?」


「はい、でも……」

社長からは、関係者以外は誰も通すなと言われていた。  

けど、小雪は関係者どころか、特別な存在だろう。


「お嬢様、どうぞお入りください。」


秘書がドアを開けた。


小雪は胸を張り、堂々とオフィスに足を踏み入れる。


室内は静まり返っていたが、奥の休憩室からは物音が聞こえてくる。


「お兄ちゃん!」


小雪が休憩室に向かおうとしたその時、通知音が鳴り響く。


デスクの上で、拓海のスマートフォンが二度振動した。


前回の経験があるため、今回はさらに要領よく覗き込む。


それは拓海の秘書から送られてきたメッセージで、いくつかのリンクが添付されていた。


タイトルはどれも刺激的だ。


【彼女を彼らに差し出し、足を折って逃げられなくした】  

【彼女の卑屈な愛。体を差し出し、虐げられて】  

【美しいバラ、彼に引き裂かれて】


内容は、真希の誕生日パーティーの夜、流れたあの映像だった。


こうしたニュースは数多く、江藤家の影響・拓海の立場が原因で、全てのメディアがこの話題に注目していた。注目を集めるため、どの見出しも過激さを競っていた。


その下には秘書のメッセージがある。


「社長、何か対応が必要でしょうか?」


いいえ、必要ない。


これはすべて、小雪が真希のために用意した“サプライズ”だ。


あの夜、真希とあの恐ろしい男は共に姿を消した。


真希が生きているかどうかは分からないが、小雪はどちらに転んでもいいように手を打っていた。


真希が死んでいればそれでいいし、もし生きて戻ってきたとしても、さらに苦しむだけ。


彼女のことはすでに世間の話題となり、下品でふしだらで、拓海にも愛されなかった女という烙印が押されている。


これだけ評判が落ちたら、たとえ拓海が受け入れたとしても、江藤家の奥様として迎えるはずがない。


どう考えても、真希はもう終わりだ。小雪と敵対した末路は、生き地獄。


小雪は微笑みながら「不要」とだけ返事をし、会話履歴を削除した。


そしてスマートフォンをデスクに戻し、鼻歌まじりに弁当箱を開け、丁寧に手作りのランチを並べていく。


ちょうど並べ終わった頃、休憩室から拓海が出てきた。


小雪の姿を見て、拓海は一瞬驚いたような表情を浮かべる。


小雪は白血病が再発してから、ほとんど病院で過ごしていたはずだ。


「どうして来たんだ?」


小雪は素直にデスクの横に立つ。


「お兄ちゃん、どんなに忙しくても、ご飯はちゃんと食べてね。」


箸を手渡し、拓海に座るよう促す。


「もし無理して倒れたら、私が悲しいから。」


拓海はテーブルの料理に目を落とす。普段彼が好む野菜料理ばかりだが、どうにも食欲が湧かない。


「君が食べなさい。」


拓海はデスクに戻り、電話を取ろうとした手を止めた。


しばらくして、スマートフォンを取り上げ、何気ない様子で操作し始めるが、やがて指が止まり、唇が硬く引き締まる。


暗い目で小雪に視線を向けると、彼女はテーブルの脇に立ち、伏せた髪が表情を隠している。ただ、箸を握る手だけが力みすぎて白くなっており、平静ではいられない気持ちが伝わってくる。


拓海はスマートフォンを置き、テーブルに戻ってきた。


小雪は驚く。


「一緒に食べよう。」


拓海は彼女に席に着くよう促した。


小雪は晴れやかな笑顔で、拓海のそばに座り、嬉しそうに料理を取り分ける。


「最近、体調はどう?」


拓海が気遣う。


「まあ、相変わらず。合う骨髄が見つからないから、耐えるしかないの。」


小雪は無理に笑ってみせる。


拓海が箸を置いた瞬間、小雪は息を呑む。なぜこんなに重い雰囲気なのだろう。


「必ず助けるよ。」

少し間を置いて、拓海が言う。

「高橋家との縁談を進めている。体調が良くなったら、立派な持参金を用意して送り出すつもりだ。」


小雪の手から箸が滑り落ちた。


たちまち、瞳に涙が溜まる。


「お兄ちゃん、責任を取るって言ってくれたのに。」


送り出すって、もう終わりってこと?


初めてを捧げたのに、捨てるつもり?


絶対に、真希のところへ戻させない!


「ごめん、小雪。真希がいなくなってから、初めて気づいたんだ。俺はずっとあの人が好きだった。彼女と一緒にいたい。」


小雪は立ち上がる。


「もう言わないで!もういいから!」


「小雪――」


小雪は拓海の手を拒み、


「もう言わないで。お兄ちゃん、心配しないで。私は何もなかったことにするから……」


それ以上言えず、顔を覆って部屋を飛び出していった。


拓海は彼女の後ろ姿を静かに見送り、やがて落ち着いた様子で内線を押した。


「技術部、来てくれ。」


―――――


小雪は車に乗り込むと、アクセルを踏み込み、街中を乱暴に走り抜けた。


突然、スマートフォンのベルが鳴る。


見知らぬ固定電話の番号だった。


「誰よ!」


不機嫌に怒鳴る。


向こうからは、まず不気味な笑い声が響き、続いて聞き覚えのある声がした。


「小雪さん、君のおかげでひどい目に遭ったよ。」


小雪の目が見開かれる。


「生きてたの……」


「一度会って話そうじゃないか。」


小雪は一瞬ためらったが、すぐにうなずいた。


「いいわ。」


彼女は男が指定した住所へ車を走らせた。


彼は賢く、清掃員の格好をし、誰にも気づかれないようにしていた。


小雪の車が前に止まると、男は立ち上がり乗り込んできた。


エンジンをかけた途端、小雪の首筋に冷たい感触。


男がナイフを突きつけてきたのだ。


小雪は慌ててハンドルを取り損ね、車はS字を描きながら走り、クラクションが響き渡る。


「落ち着いて、話せば分かるわ。」


「話せば分かる?あなたと組んで二度も死にかけた。どうやってこの借りを返してもらおうか?」


「私だって分からない。あの日、江藤家の屋敷で何があったのか……全部用意してあげたのに。」


男は嘘ではないと分かっているが、腹の虫がおさまらない。


彼は小雪をじろじろと見つめる。


「あの日、ひどく怪我したんだ。小雪さん、どう償ってくれる?」


小雪はごくりと唾を飲み込む――


―――――


拓海のオフィス。


「社長、データの復元が完了しました。」


技術部のスタッフがスマートフォンを拓海に返す。


彼はメッセージを下から順にチェックする。


送信者は自分――いや、正確には小雪だった。


一番上は秘書からの「対応が必要ですか?」というメッセージ。


さらに上には、あの過激なタイトルが並ぶ。


リンクを開き、内容を確認すると、眉間のしわがようやく緩んだ。


ただ普通の記事に過ぎなかった。


彼は、それが一瞬、自分と真希のことだと思った――


―――――


M国。


「坊ちゃん、まだ怪我も癒えていないのに、今このタイミングでの長距離移動はご無理なさらないでください。」


ヨーロッパ風の広い寝室で、五十代の白髪混じりの執事が、心配そうに声をかける。


男は指先で黒曜石のカフスボタンを転がし、包帯を巻いた引き締まった腰を隠す。執事の言葉にも耳を貸さない。


「頼んでいた件はどうなった。」


「国内の江藤家に関する報道は全て抑えました。既に出ているものも、内容を差し替え済みです。」


彼は満足そうにうなずき、近くの上着を手に取る。


ボディーガードがドアを開けると、廊下の両脇にはずらりと部下が並び、まるで王を迎えるように一斉に頭を下げている。


「帰国する。」


端正な顔立ちには険しい表情が浮かび、長い足でゆっくりと歩き出す。


部下たちはそのあとに続いた。


その日、プライベートジェットがM国の空港を飛び立ち、まっすぐ日本へと向かった――

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