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第88話

「真希さんが怪我をしています。上の階に休憩室と専属の医師がいますから、まず真希さんをそちらにお連れください。足の怪我が心配ですから。」


ようやくまともな提案が飛び出した。


「真希、先に上で休もう。」


佳穂は真希を見つめながら言った。


佳穂には、今の真希が絶対に拓海や凛の顔を見たくない気持ちがわかっていた。

しかし、ここから別荘の玄関まではまだ距離がある。

外は厳しい寒さ、もしこのまま外へ出て風邪でもひいたら、怪我に加えて体が持たなくなるかもしれない。


もともと真希の体は丈夫とは言えず、病気や怪我をすると普通の人以上に辛い思いをする。ほんの少し立っていただけで、佳穂は真希が震えているのを感じ取っていた。


「大丈夫、佳穂。病院に行こう。」


無理に体を支えながら、真希は出口へ歩き出そうとした。


ここにいる人たちの顔をもう見たくない。

痛みに苛まれる神経は、これ以上の刺激に耐えられそうにない。


宮崎明は眉をひそめた。


「今の状態では、動かない方がいい。」


彼は真希の体の震えと、どこか焦点の定まらない苛立った目つきを見て、薬物依存者の発作前の兆候だと察した。

傷口の痛みは、耐えがたいほどに違いない。


このままでは、病院まで持ちこたえられないだろう。

今できる最善は、すぐに安静にさせることだ。

薬を持ってきていればいいが――。


佳穂は困惑したように宮崎明を見る。

すると彼は静かに自己紹介した。


「私は医者です。」


佳穂が「治療をお願いできますか」と聞きかけた時、宮崎明は付け加えた。


「ただ、外科専門ではありません。」


真希は佳穂の腕をつかみ、額に浮かんだ青筋が脈打っている。

ざわめく会話と音楽が混ざり合い、気が休まらない。


少しでも楽になりたい――そんな思いで何かを探すように周囲を見回す真希。

宮崎明が彼女を抱き上げようと一歩踏み出しかけたとき、影がそれを遮った。


相良が穏やかに微笑みつつ言った。


「宮崎先生、ご心配なく。」


そして真希をそっと抱き上げ、凛に声をかけた。


「案内してくれ。」


凛はようやく我に返る。


「あ、はい。案内の者を呼びます。」


とにかく、真希が拓海の前から早くいなくなればいい。

凛はそれだけが気がかりだった。


案内係に先導させ、相良は真希を抱えて人混みを突き抜け、佳穂も後に続く。


拓海は真希の去っていく後ろ姿をじっと見ていた。

さっきの彼女の様子は、どこかおかしかった。


駆はちらりと拓海を見て、両手を頭の後ろで組みながら、ゆっくり相良たちの後を追う。


「はあ、せっかくの婚約パーティーなのに、こんな大騒ぎになるなんて。今年はついてないな。」


凛は思わず心の中で悪態をつく。駆は何を言っているの!


「拓海、挨拶しに行きましょう。」

凛は彼を連れていこうと手を伸ばすが、拓海はそれを避けた。


「彼女、どうしたんだ?」


拓海の表情は険しい。


宮崎明は口元に微かな笑みを浮かべ、メガネを押し上げた。


あの日、クラブで真希が涙ながらに語った言葉が、宮崎明の脳裏に蘇る。


宮崎は、真希の話だけで拓海を一方的に断罪するつもりはなかった。

催眠下では嘘はつけないと知りつつも、あくまで事実関係を確認しようと、拓海と真希の過去を調べてみた。


その結果に、宮崎は驚愕した。


香の匂いに包まれて静かに生きていたはずの従弟が、真希に対してあまりにも残酷な仕打ちをしていた。

身体だけでなく、心まで傷つけていた。


今の真希の精神的な問題の多くは、拓海の精神的虐待が原因だった。

幸い真希には愛情深い家族がいて、父母や兄の支えがあったからこそ、絶望の淵から這い上がろうとできたのだ。


もし家庭環境が複雑だったら、拓海に何度も壊されていたに違いない。


今回帰国した目的は、本当は拓海の治療をするためだった。

だが過去を知った今、むしろ記憶を取り戻さない方がいいのではと思うようになった。


もし彼が全てを思い出せば、また真希に執着するだろう。


今や宮崎の心はすっかり真希の味方だ。

今日のあの抱擁の後、彼女を本当の妹のように思うようになった。


だからこそ、拓海と真希は一緒になるべきではないと、心から思っている。


「怪我をして、痛みがひどいみたい。」


宮崎の穏やかな微笑みに、厳しい視線。


凛は二人のやりとりを聞きながら、不安な気持ちが膨らんでいた。

指先を握りしめながら尋ねる。


「お二人、知り合いなの?」


宮崎明はさらに微笑みを深めた。


「従弟なのに、お嫁さん紹介してくれないのかい?」


従弟――?


彼が「従弟」と呼んだ?


「拓海、彼は……」


だが、拓海は振り向きもせずその場を離れてしまった。


取り残された凛は、どうしていいか分からず戸惑う。

もし彼が江藤家の人間なら――自分はなんてことを!

さっきあんなに馬鹿にしたばかりなのに。


「あ、明さん、ここにいらしたんですね。」


少し離れたところから、数人の若い男性たちが近づいてきた。


彼らは、この前のクラブで宮崎明の歓迎会を開いたメンバーだ。


「凛さん。」


彼らも凛の姿を見つけて、にこやかに声をかけてくる。


凛も彼らをよく知っている。

いずれも有力者の後継者ばかりで、木村家にも負けない名家の子息だ。


しかも、彼らは皆、拓海の友人。

そして、今目の前にいる「拓海の従兄」と親しげにしている。


嫌な予感が強まる中、凛の呼吸は浅くなっていく。


「皆さん、彼と知り合いなんですか?」


そのうちの一人が、宮崎明の肩に手を置いて紹介した。

「凛さん、ご存じないかもしれませんが、こちらは宮崎明さん。拓海さんの叔父さんの息子で、従兄です。お母様の姓を名乗っているので、こっちではあまり顔を出しませんが。」


拓海の兄――


彼は本当に江藤家の人間だったのか……


凛の顔はみるみる赤くなった。

さっきあんなに馬鹿にしたうえ、ホスト呼ばわりまでしてしまった。


こんなことが父に知られたら、きっと叱られる。

江藤家に伝わったら……考えるだけで恐ろしい。


「ど、どうも、明さん……」


内心は動揺しながらも、せめて表面上は取り繕おうと、凛は自分から手を差し出し、媚びるような笑顔を見せた。


宮崎明はポケットに手を入れ、その震える手を見下ろして、皮肉げに微笑んだ。


「こんな僕が木村さんと握手なんて、そんな度胸はないよ。」


そう言い残し、凛の前を素通りして去っていった。


佐々木は目を細める。

宮崎明はいつも穏やかで、少し年上で皆をまとめる存在だった。

彼と関わったことのある人は、皆、彼を心から尊敬している。

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