「おまえ、沢渡だよな。
「え……?」
大学にほとんど知り合いがいない僕をフルネームで呼ぶ人なんて、まずいない。驚いて読んでいた文庫本から顔を上げると、少し離れたところに安藤聡史が立っていた。
(……安藤もこの大学だったんだ)
背筋がぞわっとするとともに胸の奥が締めつけられるような気がした。中学卒業以来、当時のクラスメイトとは一切の交流を絶っている。そんな僕は安藤がまだ地元にいるのか、どこの大学に進学したのか知らなかった。知りたいとも思わなかった。
(せめて安藤の進学先くらいは調べておくべきだった)
後悔の気持ちが一気にわき上がる。中学時代のクラスメイトには誰一人として会いたくなかったけれど、一番会いたくなかったのが安藤だ。
目の前の安藤は、中学時代の面影を残しつつあの頃よりずっと恰好よくなっていた。あの頃もスポーツをやっていると聞いてはいたけれど、ずっと続けていたのか背は高くがっしりした体つきになっている。髪は明るい茶色になり、耳にはピアスがいくつも光っていて中学の頃よりずっと派手な印象だ。
そんなふうに見た目が変わったというのに、目の前の男が安藤だとすぐにわかったのは忘れたくても忘れられない存在だったからだ。理不尽で意味がわからなくて怖くて、そしてなぜか切なくなるような胸の痛みを僕に与えた存在。どんなに忘れようとしても忘れることができない。生まれて初めて感じた強烈な感情の数々が安藤を忘れさせてくれないのだろう。
「なぁ、沢渡だろ?」
また声をかけられて肩がビクッと震える。手足が強張って喉が詰まった。息をするのも苦しくて、耳の奥でドクドクと嫌な音が聞こえ出す。
中学のときの僕なら、このまま無言で立ち去っただろう。安藤とは絶対に関わりたくないと思い、全身で拒絶しながら逃げ出したに違いない。
(でも、いまの僕は違う)
声は出なかった。それでも睨みつけるように安藤を見ることはできた。そんな僕の態度に驚いたのか、安藤がギョッとしたような表情で僕を見た。
「いたいた。卓也、そろそろ行かないと遅れるぞ」
松岡の声が聞こえた。空き時間にここで本を読んでいることを知っているから呼びに来てくれたんだろう。振り向いた俺は、口を開きかけてまだ声が出ないことに気がついた。
(もう大丈夫だと思ってたのに)
そうじゃない、大丈夫だと思い込んでいただけだ。蘭葡さんに話を聞いてもらったおかげで随分と気持ちが楽になった気がしていたけれど、あれは安藤と二度と会うことはないと思っていたからだ。
返事をしない僕に何か感じたのか、安藤を見た松岡が「あ」と小さく声を上げた。
「おまえ、安藤だろ」
睨みつけるような眼差しに変わった松岡に、安藤の顔も険しくなる。
「……誰だ、あんた」
「松岡。卓也の親友だ」
「親友、」
「そ。でもって、あんたが卓也の中学時代のクラスメイトの安藤だよな?」
松岡の言葉に安藤の返事はない。
「こいつを不登校にして人間不信にして、追い詰めた安藤っておまえのことだよな?」
「……」
空気が一気に重くなった。こんなふうになる前に、さっさとここを離れるべきだった。慌てて読んでいた本をカバンに仕舞ったものの、松岡の言葉はさらに続く。
「おまえのせいで卓也はいまも苦しんでる。気安く声かけてんじゃねぇよ」
「なんでそんなこと、おまえに言われなきゃならない」
「おまえのせいで前みたいになったらどうしてくれんだよって言ってんだ」
「言ってる意味、わからないんだけど」
「わかんなくても今後一切話しかけんな。見かけても近づくな」
松岡は本気で怒っていた。高校時代にも見たことがない様子に驚きを隠せない。
松岡は僕より少し小柄で、多少口が悪くなることがあっても明るくて気のいい奴だ。偏見や差別のようなことも口にしないし、突然暴言を吐いたり初対面の人に辛辣なことを言うタイプでもない。それなのに、初対面のはずの安藤に本気で怒っている。
(僕のせいだ)
松岡の大きくてくりっとした猫のような目が完全につり上がっている。いつも笑っているムードメーカーのような男なのに、僕のせいでこんな顔をしているのかと思うと自分が嫌になった。
(どうにかしないと)
早く安藤から離れなければ、そう思った。いまの僕にできることはそのくらいしかない。
「松岡、もういいから。行こう」
ようやく声が出た。カバンを肩に掛けながら立ち上がり、松岡の腕を掴む。そのまま歩き出す僕たちに安藤が声をかけることはなかった。
松岡を引っ張るように文学部棟に入ったところで足が止まった。嫌な緊張感に体のあちこちが強張っていたようで足がうまく動かない。「無理すんなって」と言ってくれた松岡に甘えて学部棟の端にある自販機前のベンチに座った。
「松岡だけでも講義行って」
「いいって。それに次のは出欠取らないから平気だろ」
「そうかもしれないけど……」
「いいから少し休もうぜ」
巻き込む形になった松岡に「ごめん」と謝ると、「気にすんなって」といつもどおりの笑顔が返ってくる。
隣に座った松岡は何か言うでもなくぼんやりと前を見ていた。何も言わないでいてくれるのは松岡なりの気遣いだ。
「今日ってさ、バイトある?」
「いや、ないけど……」
「じゃあ、ちょっと俺んちに寄ってかない?」
そう言った松岡の表情はいつもより硬い。どうしたんだろうと見ていると、一瞬顔をしかめるような表情をした松岡が僕を見た。
「話したいことがあるんだ」
どんな話かはわからないけれど聞かなくては駄目な気がする。僕は「わかった」と答え、大学の近くで一人暮らしをしている松岡の部屋に行くことにした。
到着したワンルームの部屋は適度に散らかっていた。それが高校のときの寮生活を思い出させるからかホッとする。
「適当に座ってて」
そう言って冷蔵庫から僕の好きなミルクティを出してくれた。
「もしかして、これってこの前僕が忘れていったやつ?」
「そ。開けてなかったから、次来たときに渡そうと思ってとっておいた」
自分の分のアイスコーヒーを置くと、向かい側に座った松岡が少しだけ難しい顔をしながら口を開いた。
「あいつだよな、例の安藤」
直球の質問に目を伏せながら「うん」と小さく頷く。
「同じ大学だったんだな」
「さっきまで知らなかった」
「だろうな。知ってたら卓也は絶対にこの大学選んでなかっただろ?」
指摘にこくんと頷いた。
「まさか同じ大学だったなんて思わなかった」
再会したばかりの安藤の顔が脳裏に蘇る。
思い出の中なら平気なのに、本物を前にするとやっぱり胸がざわついた。最初に感じたのは恐怖に近い感情で、それから胸の奥がなぜかキリキリと切なくなる。そういえば「おまえ、ホモなの?」と言われたとき、一番強く感じたのはこの切ないような胸の痛みだった。
「あのさ、卓也に話しておきたいことがあるんだ」
そう言った松岡の顔は少し強張っていた。いつも元気な松岡のこんな表情を見るのは高校のときの一度だけだ。
「何かあった?」
取りあえず安藤のことは後回しだ。松岡の表情が気になってそう尋ねた。
「まぁ、いま現在どうこうって話じゃないんだけどさ」
「うん」
「それに、いまさらこんな話するのもどうかと思うんだけど……」
「僕が聞いていい話?」
「卓也だから聞いてほしい」
「わかった」
聞いてほしいと言いながら、松岡はためらうように視線を逸らした。何か大変なことでもあったんだろうか。心配し始めた僕の表情に気づいたらしく、「俺さ……」と松岡が話し始めた。
「高校のときにちょっと落ち込んだことがあったの、覚えてるか?」
まさに僕が思い出した“たった一度”のことだ。
「ちょっとじゃなかったと思うけど」
「ははっ。うん、まぁそこそこへこんではいたかな」
そう言って笑った松岡の顔はなんだか寂しそうに見える。
「あのときさ、俺……じつは失恋したんだ。高瀬先生に」
「え……? あの、高瀬先生って、」
「そう。二年のときの数学の高瀬」
高瀬先生というのは高校のときの数学教師で二年のときの副担任だ。二十七歳と若くて生徒たちの話を聞いてくれる先生だったからか人気があった。眼鏡がちょっと怖く見えるときもあったけれど、生徒たちからは「イケメン眼鏡」なんて呼ばれていたのを覚えている。
「俺、初めて男の人のこと好きになってさ。しかも一年のときの一目惚れだったんだ。ははっ、笑えるだろ?」
そういって笑った松岡はどこか寂しそうだ。
「一年のときから先生のことがずっと好きだった。もちろん告白するつもりなんてなかった。見てるだけで幸せだったし、コクってもどうしようもないってわかってた。でも、三年になって“卒業したら二度と会えないんだ”って思ったら……コクらなきゃって急に思ったんだ」
松岡の様子がおかしかったのは三年の夏休み明けだった。妙にテンションが高いかと思えば急に落ち込んだりして、話しかけるのを躊躇するときもあった。そんなふうかと思えばやたらとお節介を焼いてきたり、急に寮の部屋に閉じこもったりもした。きっとあの前後で告白したに違いない。
「そっか、告白したんだ」
「コクった。すンげぇ緊張したけど、どうしても言いたくてさ」
松岡の顔が笑いながら歪んでいく。
「一生分の勇気を振り絞ってコクったんだ。そしたら高瀬の奴さ、馬鹿にしたみたいに笑いやがったんだ。笑いながら『男同士なんてあり得ない』って言ったんだ」
松岡の顔がさらに歪んだ。
(そうか、だからか)
僕は高校時代の松岡の言動をようやく理解できた。
高校二年に進級した頃、どこで聞いたのか僕が中学時代にクラスメイトの男子に告白したらしいという噂が流れた。おそらく僕と同じ中学だった人が知り合いにでもいたんだろう。同じクラスじゃなくても僕のことは噂になっていたから、後輩の誰かがこの学校の人に話したのかもしれない。
(あぁ、また始まるのか)
そう思った。高校になっても中学三年のときのようなことになるに違いない。今度は寮だから逃げ場もない。学校でも寮でも無視され、それなのにチラチラ見られる生活を一年以上も続けることになる。絶望的な気持ちになったとき、声を上げたのが松岡だった。
「そんなの噂だろ? 誰かこいつがコクったところ見たのかよ」
決して大きな声じゃなかったけれど、怒っているのは顔を見れば一目瞭然だった。ムードメーカーで笑顔ばかりだった松岡の様子に、クラスメイトはハッとしたような顔をして口を閉ざした。その後、僕が無視されたり陰口を叩かれたりすることはなかった。
あのとき松岡は、自分の恋心まで馬鹿にされたような気がしたんだろう。もしくは同性に恋をするのは間違いだと言われたような気がして腹を立てたのかもしれない。このことがきっかけで、その後僕と松岡はさらに仲良くなった。
「そういう経験があったからってわけじゃないけど、卓也から安藤の話を聞いたとき無性に腹が立ったんだ。男を好きになっちゃいけないのかよって思った。そもそも卓也はあいつのこと、好きでも何でもなかったんだろ? それなのにホモとか言うなんてクソだろ」
可愛い顔で時々こうやって口が悪くなることがある。そういうときは大抵理不尽な何かを見聞きしたときで、僕のために怒ってくれたときもそうだったなと思い出した。安藤のことも、きっと自分の過去を重ねて腹が立ったに違いない。
「青ざめてた卓也を見てピンときたんだ。あぁ、こいつが安藤に違いないって。っていうかさ、なんでいまさら卓也に声かけてきたんだよ?」
「わからない」
「会ったのは中学卒業以来なんだよな?」
「うん」
僕の返事に松岡が「そっか」とつぶやく。
「でも、それなら変だよな」
「変って?」
「卓也って中学のときと見た目全然違うだろ? 髪型もだけど伊達眼鏡してるし、卒アル見たときどれが卓也かわかんなかったもん。それなのによく気づいたな」
指摘されて初めて気がついた。自分でも中学のときとは見た目が大きく変わったと思っている。前髪を伸ばして伊達眼鏡をかけるようになったからか、祖母や弟にも「別人みたい」と言われたくらいだ。
そんな僕に、中学卒業以来一度も会っていない安藤がどうして気づいたんだろう。そもそも安藤が僕を覚えていたこと自体信じられなかった。
中学三年のとき、蔑むような目で僕を見ながら「おまえ、ホモなの?」と言い放った安藤の口元は歪んでいた。それで僕のことが嫌いなんだということがわかった。
(僕のことが嫌いなはずなのに、なんで声をかけてきたんだろう)
どうして、なぜ、そんな疑問が頭の中をグルグルと巡り出す。
「ま、なんにしても俺がついてるから心配すんな」
そう言った松岡の顔に、さっきまでの歪んだ表情は残っていなかった。いつもどおりの明るい顔にホッとする。
「松岡って頼もしいよな」
「おう、俺はおまえの親友だからな。あんな奴のせいで卓也がつらい思いをする必要なんて絶対にないからな?」
「そうだね」
「そうだ、そうだ」
松岡の声に気分が少し浮上した。それでも僕の中にはすっかり消えていたはずの中学時代の安藤と、さっき見た大学生の安藤の二人が居座ってしまった。幼さの残る顔と大人の顔が嫌な笑みを浮かべながら僕を見ている。そんな二人の姿が何度も浮かんだり消えたりした。