僕の中で蘭葡さんの言葉がずっと渦巻いている。同じくらい安藤のことも考えていた。ぐるぐる回る思考の欠片は、それだけでは何なのかわからない。それでも一つずつ拾い集めて組み合わせていくと何かしらに形を変えていく。
「僕は、安藤のことを……」
言葉にしかけて唇を噛み締めた。まだ、言葉にはできない。本当は違うんじゃないかと未練がましく踏みとどまる。そんな無駄な悪あがきは安藤の姿が目に入った途端に呆気なく崩れ去った。
(……安藤)
大学構内で安藤と遭遇したのは偶然だった。安藤の目は見開いていて、焦って歩き出そうとしているということは安藤も想定していなかったのだろう。早く僕の視界から消えなくてはと思ったに違いない。これ以上僕に疎まれないように、僕に嫌われることを恐れるように見えた。
(まるで昔の僕みたいだ)
そう思ったら腹の底から仄暗い愉悦がにじみ出てきた。あんなに怖いと思っていた安藤が、途端にちっぽけなものに見えてくる。いや、ちっぽけなだけじゃない。ちっぽけで弱くて情けなくて、それでいて僕の中の大半を占めてしまった厄介な存在。
僕は慌てている安藤をじっと見た。ギョッとしたような目と視線を絡め、それからゆっくりと前方に視線を向ける。
(これだけできっと伝わる)
そのまま安藤の横を通り過ぎた。後ろのほうで複数の男女が「えぇー、どうしたんだよ」だとか「一緒に行くって言ったじゃない」だとか非難の声を上げている。その声を聞きながら僕はゆっくりと遠ざかった。
いつも文庫本を読んでいるベンチから少し奥に進むと、文学部棟と教養学部棟が隣り合っているところに出る。近くに建物の出入り口がないからか、高校時代の校舎裏や体育館裏のような雰囲気を感じさせる場所だ。僕は安藤がついてきているのを背中に感じながら、小さな裏庭のようなその場所で立ち止まった。
「やっぱりついてきた」
くるりと振り返り、そう口にした。途端にギョッと目を見開いたのは安藤で、口を開きかけたまま視線をうろうろとさまよわせる。
「別に責めてるわけじゃない。ついてくると思ってた。いや、そう仕向けた」
「沢渡……」
安藤が戸惑いながら僕を見た。派手なイケメンで大学でも人気者だと知ったのは最近になってからだ。僕がもっと周囲の声に耳を傾ける人間だったら一年のときに安藤の存在に気づいていただろう。気づいていたら、大学を辞めるか絶対に見つからないように最大限注意を払いながら通っていたに違いない。
(でも、そうしていたら再会しなかった)
どちらが僕にとって幸いだったかはわからない。再会しなかったら、きっといまでも穏やかで何も起きない日常を送っていたはずだ。
でも、僕たちは再会してしまった。そして僕は自分の中の深淵を見ることになった。そこに沈んでいたのは、安藤の告白よりずっと重く自分でも信じられないくらい歪な形をしたものだった。
「安藤は、まだ僕のことが好きなんだよね?」
僕の問いかけに安藤が笑いたくなるくらい大袈裟に肩を振るわせる。偶然見かけた安藤は自信たっぷりで相変わらず人の輪の中心にいたのに、目の前にいる安藤は僕のひと言ひと言に反応し、怯えていた。
「忘れられないんだよね?」
「……あぁ」
安藤の返事に腹の底から愉悦があふれ出した。
「そっか」
「それでも忘れようとして……」
「僕もずっと考えてたんだ。安藤に好きだって言われてから、ずっと考えた」
遮るように話し始めた僕に、安藤が戸惑うような視線を向けてくる。
「誰かのことをこんなに考えたのは初めてかもしれない。ううん、中学のときもしばらくはこんな感じだったかな。考えて考えて、結局考えるのが怖くなって考えるのをやめてしまったけど」
「沢渡……」
「でも、今回はやめなかった。だから気づいたしわかったんだ」
口を閉じた僕を安藤が険しい表情で見つめている。よくないことを言われると覚悟している顔だ。
僕はおかしくてたまらなかった。あの安藤が僕の一挙手一投足を気にしていることに歓喜にも似た感情がわき上がる。「さぁ、このあとどんな顔をするかな」と悪戯を仕掛ける前のようなおかしな気持ちに背中がぞくぞくした。
「僕は、安藤が好きだったんだと思う」
「……え?」
「中学のとき、はっきり認識してたわけじゃないけど安藤のことが好きだったんだ。あぁ、憧れだったのかもしれないけど、好意を抱いていたんだと思う。三年で初めて同じクラスになったけど、僕は一年のときから安藤のことを知ってたしね」
あの頃も僕は周囲の言葉に耳を傾けるような人間じゃなかった。それでも安藤のことは知っていた。何度か見かけた姿はまぶしくて、自分とは違う世界の人間なんだと思った。それでも気になって見ていたのは心のどこかで安藤に惹かれていたからに違いない。
「あの頃本当に好きだったかなんて、正直もうわからない。ずっと思い出さないようにしてたから、あの頃の気持ちはいまもわからないままだ。でも、いまの気持ちならわかる。ずっと考えて、考え続けてようやくわかった」
二人分くらい間を空けた距離で立ち止まった僕は、少し上にある安藤の目を見ながら囁くように告げた。
「僕は安藤が好きだよ」
「……まさか、」
「僕から好かれるのは嫌?」
「そ、そんなことあるわけない! いや、そうじゃなくて、だっておまえは俺のこと怖がってただろ? それに忘れてくれって……」
「たしかに怖かったし忘れてほしいと思った。でも違ったんだ。まぁ、蘭葡さんと話していて気がついたんだけど」
「……あの人か」
安藤の顔がわずかに歪む。その顔が嫉妬によるものだと、いまの僕ならわかる。
「まさか蘭葡さんのほうに嫉妬する人がいるなんてなぁ」
「どういう意味だよ」
「だって、普通なら蘭葡さんのほうに気が向くよ? 美人だし、現にたくさんの人に言い寄られてるし。しかも言い寄ってる人たちの半分は男性だ」
「あの人にそんな気持ちは持ってない。俺は沢渡しか見てない。本当だ」
「うん、わかってる」
「それに、あの人よりおまえのほうが可愛い」
「そんなこと言うのは安藤くらいだよ」
「俺だけでいい。おまえが可愛いことに気づくのは、俺だけでいいんだ」
安藤の視線がジリジリと焦がれるようなものに変わっていく。熱に浮かされたような言葉がこんなに耳に心地いいものだなんて初めて知った。きっと中学生の僕は安藤のことが好きだったんだろう。覚えていないけれど、そんな気がした。そしていまも好意を持っている。口にしたことでいろんなことがストンと腑に落ちた。
(でも、それだけじゃない)
安藤が僕に夢中だということがおかしくてたまらなかった。「あの安藤が僕を」と思うだけで歓喜にも似た感情が体中を駆け巡る。
(中学のときの安藤も、こんな気持ちだったんだろうか)
自分だけを見ている姿はたまらなく心地いい。自分だけのものになった気がして興奮する。クラスメイトから無視されていた僕を見て、安藤も似たような感情を抱いたに違いない。
(でも、僕はああいったことはしない)
いつもの安藤が、僕の前でだけ
だって、安藤の手は決して彼らの手を掴むことはないのだ。それを僕と安藤だけが知っている。あぁ、なんて甘美なんだろう。
「あのさ、念のため聞くけど、安藤の好きっていうのは恋愛の意味でだよね?」
「当然だ」
「それって、たとえば僕とキスしたいとか、そういったこと?」
安藤がごくりと喉を鳴らすのがわかった。そんな些細な反応でさえ僕の腹の底を気持ちよくくすぐる。
不意に「春みじかし」という言葉が脳裏に浮かんだ。そのまま「何に不滅の命ぞと ちからある乳を 手にさぐらせぬ」と言葉が続く。
僕はいま、その言葉を体現したいと思っていた。情熱的な想いの丈を綴った女流歌人は僕の中にもいたのだ。もちろん僕に女性のようなふくよかな胸はない。でも、同じような唇はある。安藤は僕の唇に触れたいと思っている。それなら僕にも触れさせることができる。
ゆっくりと人差し指を安藤の顔に近づけた。そうして食い入るように僕を見つめる目元に触れ、頬を撫でてから唇に触れる。さぁ、これは最初の呼び水だ。
「さ、わたり」
安藤の手が唇に触れている僕の手を掴んだ。そうしてグイッと引き寄せ勢いのまま唇をぶつけてくる。どさりと音がしたのは、僕が持っていたカバンから左手が離れたからだ。そういえば安藤はボディバッグだったな、なんてことを頭の片隅で思い出す。
「沢渡、好きだ」
一度唇を離した安藤に眼鏡を取られた。そうして今度は違う角度でキスをされる。最初は触れるだけのキスだったのに今度は噛みつくようなキスだ。上唇を吸われ、続けて下唇を噛まれた。刺激に驚いて口をほんの少し開くと、舌がぬるりと入ってくる。キスなんて初めての僕は安藤の舌に翻弄されるしかない。
「ん……っ」
他人の熱が自分の口の中で勝手に動き回っていることにゾクッとした。熱い舌が上顎を擦り、歯を舐め、僕の舌に絡みつく。
ぴちゃ、と濡れた音が聞こえて「本当に小説みたいな音がするんだな」と思った。文豪たちが描いた世界でこうした行為の想像はできたものの、実際に体験すると文字では言い表せない感覚に背筋がぞくぞくする。想像以上に官能的な接触に下腹部がじわっと熱を帯びるのを感じた。
「んふっ」
唇の隙間から吐息が漏れた。途端に安藤がグッと身を寄せてくる。後頭部を掴まれますます逃げ道がなくなった。同時に安藤の下腹部が僕のそれに当たり、自分と同じくらい興奮していることに官能とは違う満悦を感じ心が震える。
「はっ、はぁ」
解放されて、ようやく息ができた。最中も鼻で息はできたのかもしれないけれど、そんな余裕は僕にはない。
「がっつきすぎた、ごめん」
見上げた安藤は息を乱していなかった。きっとこれが経験の差というものなんだろう。そう思ったら胸の奥に黒いものがゆらりと揺れる。
「いいよ。初めてで、勝手がわからなかっただけだし」
「初めて……」
「これから何度もしているうちに、僕も慣れていくよ」
安藤ののど仏が「ごくり」と動くのがわかった。何もかもが初めての僕にキスを教えるのは自分なのだと想像し、興奮したに違いない。これで安藤は二度とほかの人とキスをすることはない。そう思うだけで笑いたくなる。
「僕が安藤を好きだって、信じてくれた?」
頷く安藤に「眼鏡、返して」と告げる。
「これ、伊達眼鏡だったのか」
「そう。中学時代の誰にも見つかりたくなかったからかけようと思った。前髪を伸ばしてるのもそのためだよ」
「……ごめん」
「もういいよ。それに結局安藤には見つかったわけだし。中学のときと全然見た目が違うのに、よくわかったね」
「すぐにわかった」
「そっか」
そう言って笑った僕に、安藤が恭しい手つきで眼鏡をかけた。
「ありがと」
「……おまえから、そんな言葉を聞けるとは思わなかった」
懺悔するような声に、僕はにこりと微笑み返した。