「オタクくんさあ、このボクを指名しないなんて何様のつもり?」
中性的な怒声と同時にサーモンピンクのメニュー表が同色のカフェテーブルに叩きつけられる。
それをしたのは「男の娘メイドカフェ・チェリープリンセス」の従業員である一人の青年だった。店では「ルナ」という源氏名で働いている。
彼は外見だけ見ればアイドルレベルの美少女に見える。
しかしこの店で働ける者は十八歳以上の男性と限られていることからメイドのルナは紛れもなく男性なのだ。
そして客層もほぼ男性が占めている。
今この男の娘メイドがヒステリックに怒鳴っている相手は、その中でも最古参の客だった。
不自然な程黒い髪に額を隠す様に赤いバンダナが巻かれている。眼鏡はレンズが厚過ぎる上、時たま謎の発光をした。
服はチェック柄のネルシャツ、中のTシャツには大人気長寿アニメ「男の娘天使、翼ちゃん」のヒロインが大きくプリントされていた。
その独特のファッションを着こなしているのは御宅道生(みやけ みちお)という青年だ。
彼は椅子に座り少し前に提供されたコーヒーを飲みながら、突然目の前に乱入してきた従業員を見つめていた。
眼鏡に隠された瞳に動揺は浮かんでいない。彼はコーヒーを飲み終えると静かに口を開く。
「申し訳ないが、拙者がルナりんを指名することは絶対ないでござるよ……そこに愛は無い故に」
指抜きグローブをはめた手でふわりと前髪をかき上げ宣言する。
彼は確かにキモオタ呼ばわりされても仕方がない人間だった。
いや言葉遣いだけではない、服装も挙動も今時芸人のコスプレでも見かけない程太古のオタクを模している。
そしてそんな彼に拒否されて下唇を噛みしめている相手もオタクカルチャー的な意味でのメイドである。
丈の短いパステルピンクのメイド服を身に纏い、栗毛色のツインテール。メイドカチューシャには月のワンポイント。
その華奢な体を包むエプロンの胸元には丸文字で「塩担当・ルナ」と書かれた名札が飾ってある。
ちなみに二週間前は「ツンデレ」そして先週は「ツンツン」だった。
つまりこのルナというメイド従業員は接客態度が非常に宜しくないのだった。
常連客達は名札に書かれている紹介文の変遷を知っているので「猛犬注意」と同等の警告であることを理解している。
だが外見美少女メイドとウキウキで触れ合おうと彼を呼んだ新規客は気の毒な程に極寒対応されていた。
それでも彼はその外見の愛らしさのみでこの店の人気ナンバーワンの立場に居るのだ。
実績に支えられた傲慢さは益々ルナに暴君そのものの振舞いをさせる。
それさえも男の娘に美しさと可愛らしさのみ求める客たちは「女王様」と崇め、喜んでしまうのだった。
そんな余り健全ではない状況に、現在のこ老舗男の娘カフェは陥っていた。
しかし最も古参客である御宅道生はそれを今正面から否定した。彼に女王気取りなメイドの美貌は全く通用しない。
そのことを誰よりも知っているのはルナだった。だからこそ我慢ならず彼自ら目立たないよう隅に座っていたこの男に声をかけたのだ。
この店が働き始めて数か月経つ。それは彼が女王に即位した歳月とほぼ同等だ。
古参客の殆どは一度はルナを指名した。なのにこのキモオタのなりきりをしているような男だけは別だ。
だからいい加減店の一番人気である自分を指名しろ。求めろと怒鳴りつけた。それが焦りと渇望から来る怒りであることを男の娘メイド本人は気づいてない。
ちなみに指名とはこの「オムライスにメッセージふぉーゆー」「パンケーキににがおえー」「ふたりでチェキっこ」のいずれかの有料オプションについてである。
その相手に選ばれた数がこの店での人気のバロメーターになる。
最近はそのどれもまともにこなしたことはないが、それでもルナがナンバーワンであることは疑いようのない事実だった。
彼を指名しない男はこの店内ではバンダナを鉢がねのように巻いているこの男だけである
店内には客がそれなりにいるが、ルナの癇癪が爆発して以降は誰も一言も話そうとはしない。皆好奇心と怯えがないまぜになっている。
オタクは他人事でも怒鳴り声が苦手な者が多いからだ。美味しいご飯を食べに来たのに店長がバイトを怒鳴り始めた時のような気まずい空気が流れている。
流石にこの空気の悪さを放置する事が出来ず、この店でチーフメイド「みんなのお姉さん担当」のサクラが顔を強張らせて駆け寄ってこようとした。
それを道生はメニュー表を立てるという合図で制止する。
この店内に置いて客がメニュー表を立てる行為は「この席のオーダーは後回しでいいよ」を意味する。常連とメイドのみが知るアクションだ。
それを最古参客である道生は今回「この場は預けて欲しいでござる」という意味で使った。
彼と長い付き合いのチーフメイドはハッとした顔しながら無言で頭を下げる。その表情には申し訳なさと彼に対する信頼が同時に浮かんでいた。
そのようなやりとりがされているとも知らずに、新人でありながら女王気取りのルナは古参客のキモオタ青年に対し怒りを浮かべている。
攻撃的な表情でさえ整った顔が行うとどこか愛らしく魅力的になる。それは事実だった。
まるで芸能人のように、いや人気アイドルグループでも中々見ない程このルナは可愛らしい顔立ちをしている。
勝気そうな瞳は明るい茶色で、その大きい目を長く多めの睫毛が絶妙な華やかさで縁取っている。
唇は小さいがぽってりとしていてリップすらつけないまま無垢な艶やかさを童顔に付与し魅力上げに貢献している。
滑らかなペールオレンジの肌は見るからに瑞々しく産毛の存在を確認できない。まるでドールの素体のようだ。
業務中、服の袖で顔を拭う仕草を頻繁に行うことからファンデーションも使っていないということがわかる。
外見だけなら最上級の大型新人、開店以来最上級の美形、それがこのルナという人物だった。
しかし中身はそれと反比例するような爆弾娘、いや爆弾男の娘だったのだ。
ジェンダーレスな少年とも少女ともとれるような声は、いつしか不機嫌か無感情かの二択のみになった。
メイド服を身に纏いながら動作も口調も乱暴で奉仕精神どころか、到底接客をすべき人間ではない。
それでも勤続を許されているのはその並外れた外見の良さが悪態を「個性な魅力」に変えているからだろう。
だが、それは御宅道生には通じない。彼が男の娘メイドに求めるのは外見の美しさではないからだ。
彼だって最古参の一人、当然この問題児の存在は認識していた。
しかし彼の態度の酷さによってこの店の経営が傾くなら焦りもするが、まだその時期ではない。
常連であろうと客は客でしかない。訳知り顔で口を挟むこともすまい、そう思っていたのだ。
しかし向こうから関わってきたなら話は別だ。
道生は額に巻いていたバンダナをゆっくりと外す。それで自らの汗を拭きながら再度ルナの抗議に答えた。
「拙者、身も心も可愛い男の娘メイドさんにしか貢ぎたくないでござる。何卒ご理解くだされ。ぺこり」
これはオネエ言語にするなら、アンタみたいなおブスなんかお金払って指名したくないわよっと同じ意味だ。
ルナは今まで一度も容姿について貶されたことがないだろう。この挑発めいた回答に対しすぐ噴火すると店内の誰もが予想する。
しかしルナが浮かべたのは怒りではなく無防備な驚きだった。それは子供のようにあどけなく、可憐な顔立ちに良く似合っていた。