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ホット・バタード・ラムのある風景
ホット・バタード・ラムのある風景
NuitetVerre
文芸・その他純文学
2025年06月22日
公開日
928字
連載中
雪が降る静かな夜、閉店間際のバーにふらりと現れた年配の女性。 注文したのは、ホット・バタード・ラム——ラムとバター、そしてスパイスの香りに包まれた一杯だった。 グラスを両手で包み込む彼女の沈黙のなかに、若き日に失った息子との記憶が少しずつほどけていく。 バーテンダーは言葉を選ばず、ただその記憶に寄り添うように時間を重ねる。 やがて女性が静かに口にした一言が、店内の空気をやさしく変えていく――。 温度、香り、記憶。 過去と今とが交差する、ある冬の夜の、静かであたたかな物語。

ホット・バタード・ラムのある風景

雪は、音を飲み込む。

窓の外、舗道を覆う白は厚みを増し、街灯の光をまろく包み込んでいた。

閉店間際のバー。その片隅で、ひとりの女性が小さなグラスを両手で包んでいた。


ラムとバターの香りに、シナモンがそっと溶けている。

その湯気の中に、何かを思い出そうとするように、彼女は目を伏せていた。


彼女の年齢は六十を越えているだろうか。

凛とした立ち姿の面影を背中に残したまま、今はただ静かに、液面にゆれる記憶を見つめている。

バーテンダーである「僕」は、手元のグラスを磨きながら、その沈黙をやさしく受け取っていた。


「……ずいぶん昔に、ここに似た店があったの」


ぽつりと、氷を落とすように言葉が落ちた。

続けるように彼女は目を細めたが、それが笑みだったのか、それとも痛みだったのかはわからなかった。


「バタード・ラムを、初めて知ったのはそのとき。

 息子が風邪を引いてね。看病に疲れた夜、友人にすすめられたのが、これだったの」


彼女の声は、どこか手紙のようだった。

あたためられ、何度も読み返された想いが、今ようやく宛先を見つけたような。


僕は問い返さない。

記憶とは、湯気のようなものだ。手を伸ばせば消えてしまう。


「……雪が、ひどくてね。

 あの子とふたりで、凍えながら帰った道を、ふと思い出したのよ。

 あれは、最後の冬だったの」


バターがとろけたラムのぬくもりが、彼女の頬に薄紅を差していた。

時間は確かに彼女の中を通りすぎたけれど、あの冬の白さは、今も心の一角に積もったままだったのだろう。


やがて彼女は、空になったカップを見つめながら言った。


「……また、来てしまったわね。あの冬に」


その一言が、店内のすべての音を止めた。

氷の音も、時計の針も、遠くのクラクションさえも。

ただ、彼女の言葉だけが、湯気のようにふわりと漂っていた。


僕は、静かにうなずく。


「今夜は、温まっていただけましたか」


彼女は微笑み、ゆっくりと立ち上がった。

白い息が、彼女の背に一瞬の光をまとわせた。


ドアが閉まると、わずかに外気が流れ込んできた。

だけど不思議と、心は温かかった。


グラスを片付けながら、僕はそっと鼻を近づけた。

ほのかに残るラムとバターとスパイスの香り。

それはまるで——

一度は忘れかけた、誰かのやさしい手のぬくもりのようだった。

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