雪は、音を飲み込む。
窓の外、舗道を覆う白は厚みを増し、街灯の光をまろく包み込んでいた。
閉店間際のバー。その片隅で、ひとりの女性が小さなグラスを両手で包んでいた。
ラムとバターの香りに、シナモンがそっと溶けている。
その湯気の中に、何かを思い出そうとするように、彼女は目を伏せていた。
彼女の年齢は六十を越えているだろうか。
凛とした立ち姿の面影を背中に残したまま、今はただ静かに、液面にゆれる記憶を見つめている。
バーテンダーである「僕」は、手元のグラスを磨きながら、その沈黙をやさしく受け取っていた。
「……ずいぶん昔に、ここに似た店があったの」
ぽつりと、氷を落とすように言葉が落ちた。
続けるように彼女は目を細めたが、それが笑みだったのか、それとも痛みだったのかはわからなかった。
「バタード・ラムを、初めて知ったのはそのとき。
息子が風邪を引いてね。看病に疲れた夜、友人にすすめられたのが、これだったの」
彼女の声は、どこか手紙のようだった。
あたためられ、何度も読み返された想いが、今ようやく宛先を見つけたような。
僕は問い返さない。
記憶とは、湯気のようなものだ。手を伸ばせば消えてしまう。
「……雪が、ひどくてね。
あの子とふたりで、凍えながら帰った道を、ふと思い出したのよ。
あれは、最後の冬だったの」
バターがとろけたラムのぬくもりが、彼女の頬に薄紅を差していた。
時間は確かに彼女の中を通りすぎたけれど、あの冬の白さは、今も心の一角に積もったままだったのだろう。
やがて彼女は、空になったカップを見つめながら言った。
「……また、来てしまったわね。あの冬に」
その一言が、店内のすべての音を止めた。
氷の音も、時計の針も、遠くのクラクションさえも。
ただ、彼女の言葉だけが、湯気のようにふわりと漂っていた。
僕は、静かにうなずく。
「今夜は、温まっていただけましたか」
彼女は微笑み、ゆっくりと立ち上がった。
白い息が、彼女の背に一瞬の光をまとわせた。
ドアが閉まると、わずかに外気が流れ込んできた。
だけど不思議と、心は温かかった。
グラスを片付けながら、僕はそっと鼻を近づけた。
ほのかに残るラムとバターとスパイスの香り。
それはまるで——
一度は忘れかけた、誰かのやさしい手のぬくもりのようだった。