”魔女”の被害に遭ったと思われるビル。その中に入っていく瑠愛たち。
ビルの中には本来あるはずのない光景が広がっていた。
「水浸しですね」
理愛の言葉通り、視線の先には水浸しになったデスクが並んでいた。それだけではない。
用具入れ、パソコン、本棚。オフィス空間のあらゆるものが全てずぶ濡れだ。
通路には靴ごと沈んでしまいそうな水たまりがある。この中で濡れていないものを探す方が、大変なくらいである。
「瑠愛さん、足を出してください」
「う、うん」
瑠愛はスニーカーを履いた足を理愛の前に差し出す。理愛はその足に手をかざし、術式を展開する。
サイリウムのように輝く黄色の幾何学模様。その力は瑠愛の足に吸い込まれていった。
「撥水するようにしました。これで濡れることはないでしょう」
「ありがとう、理愛」
物理魔術の基本的なものだ。これによって、通常とは全く異なる物性は発揮させる。
少し楽しそうに自分の足を見る瑠愛。理愛の言葉通り、水に足を突っ込んでも蓮の葉のようにはじく。
それを微笑ましく見る瑠愛だった。
「その程度の”魔術”、自分で使えないのかしら?」
冷たい視線を送る緋真。瑠愛と同じ魔術を自身にかけて、水に足を入れていた。
「瑠愛さんは得意分野があるのですから、そこを伸ばしているんですよ。時間が限られているのだから、選択と集中を行うのは当たり前じゃないですか」
理愛は瑠愛のカバーをする。瑠愛は”魂魄”属性に適性があり、魔女の家に入ってからそこを重点的に伸ばしていた。
半面、他の属性はからっきし。理愛に習得を任せている。
「そうなのね。不器用な人間は大変そうだわ。こんな魔術、一日で覚えられるけど」
暗に覚えるのが遅いと言っている。喧嘩をしながらでないと集団行動できないのだろうか?
半ばすり足のような動きで進む三人。次々と被害の残滓が視界を横切った。
水を吸い過ぎて半ば溶けてしまったコピー用紙。水を与えられ過ぎて枯れてしまった観葉植物。
部屋の隅に流された小物。水圧で無理矢理引きちぎられたであろう扉。
全てが凄惨な事件の内容を物語っている。事件が起こったのは人が残っていた時間帯というから恐ろしい。
「”魔法”かな?それとも、”魔術”なのかな?」
瑠愛がそう考えるのも当然である。
この会社は津波にあった訳でも、洪水で沈んだわけでもない。隣のビルは全くの無事なのだから。
つまり、誰かがこの会社だけを水に沈めたのである。こんなコンクリートの地面にくっついたビルを丸ごと。
こんなこと、”魔”の力を使わないと不可能だと思われる。
しかし、魔女にのみ許された奇跡、”魔法”なのか?それとも、体系化された技術、”魔術”なのか?
そこが瑠愛にはわからなかった。そんな曖昧な考えを許せない者がいた。
「勉強不足ね。これが”魔術”による凶行でないのは明白。どう考えても、あんたたち”魔女”お得意の”魔法”よ」
緋真だ。彼女にはこの事件の内容が瑠愛より深く見えていた。
この事件が魔女によるものだと断定できていた。
「この部屋に存在する水にはまだ魔力が残っているわ。事件から数日経っているのに、そんなこと普通あり得ない」
言い方こそ酷いが、彼女の指摘は正論だ。小さいころから”魔”について学んでいる緋真の知識は広く深い。
実際、モノに魔力を込めたところで一日したら完全に霧散してしまう。
「つまり、この水は”創造”されている。こんなアホみたいな量の水を”創造”できるのは”魔女”が使う魔法だけよ」
だからこそ、緋真はそれが起こり得る状況を考えた。モノに魔力を込めたのではなく、魔力をモノにしたのだと。
七属性の一つである”創造”。それならば、これだけの長い時間、魔力の拡散を抑えられる。
緋真は自分の推理を語り、鼻を鳴らした。それを見て、瑠愛は素直に驚いた。
「なるほど、創造魔法ならこんなことができるのか」
純粋に緋真の言葉を咀嚼する瑠愛。しかし、その口調はなおさら緋真の神経を逆撫でる。
いや、瑠愛の存在そのものが彼女を苛つかせるので、どうしようもないかもしれない。緋真が瑠愛への”魔女”への意識を変えない限り。
「そんなこともわからないの?本部に帰って魔術書の読み直しでもしたら?」
ぎろりと瑠愛を睨みつける。
実力があるから仕方なくチームを組んでいるのだ。不甲斐ない相手なら、その意味がない。
それが九條緋真の考えだった。
「す、すみま……」
謝ろうとする瑠愛。しかし、援護が入る。
「でしたら、九條さんは”魔法”書を読み直してはいかがでしょう?」
緋真の言葉に対して、理愛は反論を用意した。緋真の読み漁っている”魔術”書ではなく、”魔法”書の範囲から。
その言葉で愛しい瑠愛を守り、緋真に手痛い一撃を返すことができる。理愛は笑顔だった。
「何が言いたいの、宵宮理愛?」
楽しく攻撃をしていたところに、水を差されて苛ついている緋真。そのような態度に動じる理愛ではない。
「いえ、御託を並べるにはあまりにお粗末な考察だったもので。付け加えることがあるなら、今聞いてあげますよ?」
これから殴る相手に手心を加える理愛。イジメる相手は無様に抵抗してくれる方がいいと考えていた。
「へー、じゃああんたの考察とやらを聞かせてくれる?さぞ、私よりも深い話をしてくれるのでしょうね?」
互いの神経をやすりで削り合うような論戦が続く。身のない話だったら瑠愛はすぐさま止めていただろう。
しかし、この争いは地獄の様相を呈しながらも、着実に真実へと進んでいる。聞く価値があると思い、胃を押さえながら聞くことにした。
「この水が創造属性によるもの。それはおおむね賛成です。しかし、”魔法”は”魔術”と違って複数の属性を織り交ぜることが可能なんですよ。
この水に使われている属性は創造だけじゃありません。何かわかりますか?」
「……”物理”ってこと?」
緋真は七属性の中から一つを挙げる。
その名の通り、”物理”属性は物理現象を操る。水を操るにはこの属性がないと始まらない。
「このビル、外から見ても濡れているのがわからなかったでしょう?中はこれだけ水であふれているのに」
理愛は両手を広げて周囲を注目させる。未だに泳げるほど水が残っているオフィスが存在する。
「大量に生み出した水を制御しないと、このビルだけずぶ濡れにするなんて不可能なんですよ」
理愛はきれいに微笑む。緋真を挑発するために。
「そんな言葉狩りみたいなもの、私だって簡単に……」
負け惜しみをする緋真。逃げる獲物を見つけたら、追い詰めようとするのが
「では、もう一つ属性が使われていることには気づけたのですか?」
「何ですって?」
緋真は冷や汗をかく。理愛は使われている属性が”創造”と”物理”の二つだけなんて言っていない。
むしろそっちこそ本命だ。物理属性などおまけでしかない。
「”魂魄”属性、使われていますよ」
「本当、理愛⁉」
その言葉に緋真よりも反応見せたのは瑠愛だ。周囲の人間の方が驚くほどの声を上げている。
「ええ、でないとこの水に説明がつきません」
「どういうこと?」
緋真は理愛に問いかける。その言葉を聞いて、理愛は機嫌よく解説を続けた。
「創造属性だけで創造した物質は自然科学の法則に従うもの。この液体はそんな基本すら守っていないではないですか」
「⁉ちっ、何で気づかなかったのかしら。この水、蒸発が遅すぎる」
事件が発生して数日経過している。ただの水がこんなに残っていてはいけないのである。
水は確かに蒸発しにくい液体である。しかし、それにしてもまるで一切蒸発していないかのようである。
「ええ、つまりこれの主成分はH2Oじゃありません。正確には、水のイメージを中途半端に与えられた”ナニカ”といった所でしょうか?」
”創造”と”魂魄”を織り交ぜて生み出されたものは純粋な物質ではない。何かしらのイメージを植え付けられたこの世界の異物だ。
今回の場合は水の都合いい性質を付与されている。そうまるで……
「溺れさせるための水ってこと?」
瑠愛がぽつりとつぶやく。身の回りにある光景を見て、なんとなくそんなイメージを持ったからだ。
「その認識で合っていると思いますよ。見る限り、粘性も水道水や海水より高いでしょう。これは人を害するための液体、ですね」
理愛が瑠愛の言葉を肯定する。理愛の直感は正しい。
この水は何かを攻撃するという意思が強く宿っている。既にこの場にはないが、被害者を見ればその異常性がよくわかるだろう。
人やモノを絡めとり、冷たい水の底に沈めるためのナニカ。それがこの液体の正体である。
「たった一年、”魔女の家”の書物を読んで勉強しただけですよ。その程度の私に負けるだなんて、九條さんは二十年以上も何をしていたのでしょうね?」
理愛は嘲る視線を緋真に向ける。理愛が優秀なことは間違いないが、あまりにもキャリアが違い過ぎる。
それなのに言葉は理愛が圧倒した。それを呆れずにはいられなかった。
「…………」
人を殺せそうな眼光で理愛を睨む緋真。しかし、反論の言葉は出てこなかった。
緋真は、普通の子供が絵本を読みや人形遊びを楽しむ時期から魔術の勉強をしていた。生まれたときから魔術を学び、魔術師となるための英才教育を受けてきた。
しかし、その知識には偏りがあった。”魔女”を嫌う彼女の生家では、”魔法”は邪法とされ、学ぶことすら禁忌されていた。
それが今回、理愛に屈した原因である。
「これに懲りたら、瑠愛さんへ突っかかるのは止めたらどうですか?あなたが”魔女”を嫌いなのはどうでもいいですけど、瑠愛さんが気持ちよくお仕事できないんですよ」
理愛は瑠愛を守るために言葉をかける。彼女の行動は徹頭徹尾、瑠愛のためのものである。
「そいつにそんな資格、あるわけないじゃない。”魔女”のそいつに」
緋真は拳を握って怒りに震えた。この屈辱を二度と味わいたくないと心の底から思った。
♦♦♦
”魂魄”属性はその名の通り人の魂に干渉することができる。例えば、自分の魂と創造したモノを繋いで盗聴器代わりにするなど。
三人の誰かが気づかなければいけなかった。深淵を覗いているとき、こちらも覗かれていると。
その女性はキャミソール姿のままソファに体重を預けていた。ウェーブ上の髪の隙間から除く深海のような瞳は何もかも吸い込んでしまいそう。
彼女のかもし出す空気は重く粘ついている。まるで水の中にいるかのように。
彼女は生み出した”水”を通して自身を嗅ぎまわっている人間を見ていた。敵を見つけての彼女の反応は警戒でも高揚でもない。
彼女の視線は冷めていた。つまらないものでも見たかのように興味をなくしている。
まるで、面白くない映画がベッドシーンで誤魔化し始めたときのように。顔は明らかに白けている。
「ふ~ん、”魔女の家”か。”魔術協会”が一番じゃないんだね」
魔術協会の人間が来ることを期待していた。自信の加虐欲を満たしてくれる人形を欲していたから。
しかし、魔女の家の人間には興味がなかった。魔女の家は敵対する意味が薄く、その危険は大きすぎる。
背後には絶対に勝てない相手がいる。そこまでいかなくても、”ストーカー”でも出てきたら厄介だ。
「内々で責任の押し付け合いでもしてるかな?あのクソどもならやりそうだね。
でも、流石に誰か寄こすでしょ。あんなものを取られちゃったら」
目的は既に果たしている。彼女にとってこれはただのウィニングラン。
大嫌いな魔術協会の人間を殺すための遊びだ。瑠愛たちは見逃すつもりだった。
「九條?」
彼女たちの会話を盗み聞きしているとき、聞き逃せないワードが飛び出した。九條緋真の苗字、”九條”。
その言葉が出なければ動かなかった。しかし、その言葉だけはスルーできなかった。
「”魔”に関わる人間で九條。もしかして?」
彼女はすぐさま電話を取り出す。慣れた手つきで相手を探し、即座に電話をかける。
「もしもし、いきなりすみません。少しお伺いしたいことがありまして。九條緋真という名前をご存じでしょうか?」
恭しい態度で問いかける。その言葉に電話の相手は愉しそうに答える。
「ええ、そうですか。やはり……。どうしましょうか?」
九條緋真をどのように扱うか?相手に対して確認を取る。
その答えもやはり愉悦の混じったものであった。
「わかりました。では私の好きにさせていただきます。殺しても構わないのですね?」
その言葉に対し、激励が送られる。獣が檻から解き放たれた。
「はい、ありがとうございます。お忙しい中ありがとうございました」
電話を切って少し余韻に浸る。その声を聞くことが彼女にとって何よりの幸せだった。
たっぷりと幸せをかみしめた後、心を強く固める。その落差は同じ人間か疑うほどに激しい。
クローゼットの中から服を取り出し、手早く身に着ける。水玉模様をあしらった彼女らしい上品なワンピースだ。
彼女は白っぽい服を気に入っている。戦場で着ていたら台無しになりそうなそれを。
しかし、彼女は全く気にしない。彼女が戦闘で汚れることなど、ほとんどないから。
「さて、行きましょうか」
数多の傀儡を引き連れる。