「あ、メッセージ来てる。なになに……? 『そこにいる黒髪のやつがヒカル』……?」
アレックスが空中で何かをタップし、そんな事を言った。
つい俺もアレックスのほうを見てしまう。
視線と視線がぶつかる。
――クスクス
――きゃっきゃっきゃ
それまでの弛緩していた空気から一転。
突き刺すような視線と、嘲笑がどこからともなく聞こえる気がする。
背中から、冷たい汗が噴き出す。
アレックスのパーティメンバーの二人も怪訝そうに、こちらを見る。
誰だこいつという目で見られて、全身が痺れて動けなくなってしまう。
俺は自分でも気付かない内に、視線に強い恐怖を感じるようになってしまっていた。
きっと今の俺は、面白いくらい身体中を青くさせたり赤くさせたりしているはずだ。
熱い風呂に浸かっていたばかりなのに、全身が冷たい。
指先が震え、逃げたいのに身体が言うことを聞かない。
「ヒカル……? ヒカルってのはお前? 中国人?」
アレックスは話しかけてきた。
俺のこと――ナナミとのことをメッセージで聞いたというわけではないのか、ただ普通に話しかけてきた。
……いや、普通に考えて、聞いていないわけがない。
自意識過剰かもしれないが、俺は森を抜けた時に総勢1000人の中で一番視聴率が高かったのだ。その数字が、ナナミのこと抜きであるわけがないのだから。
かといって、俺からその話を振る勇気はなかった。
それ以前に、今の俺は、簡単な受け答えすら難しい精神状態に陥ってしまっている。
「……日本人だ」
俺がそう答えると、アレックスは嬉しそうな顔をして、ザバザバと距離を詰めてきた。
「へぇ、日本人か! 転移者には初めて会ったよ! 俺、ジャック・アレクサンダー・フォックス! カナダのオンタリオから来たんだ! アレックスって呼ばれることが多いよ」
「そ、そうか」
「いきなり異世界なんてなにがなんだかわかんなかったけど、ホントに映画みたいな世界でビビったよな。ヒカルもそうだろ?」
「あ、ああ……」
「知り合いもいないとこに1人なんて、来る前は大丈夫だと思ってたけど、けっこうキツくてさ。でも、友達がギルドに入って仲間を作ればいいってメッセージくれたりして、なんとかやってるよ。ヒカルは1人なのか?」
「まあ、そう……かな」
「ふぅん。日本人はストイックだっていうもんな」
アレックスは明るい奴だった。
その人なつっこい笑顔からは、同郷の人間にふいに出会ったことによる無垢な悦びが表れているように見えた。
だが、俺はそれを素直に受け止めることができなかった。
「俺の向こうの友達には、日本に行ってみたいって奴多かったよ。アニメ、マンガ、たくさんあるんだろ?」
「ああ……まあ」
「ん……? 顔色悪いけど、大丈夫か?」
「あ、ああ……問題ない」
3人が俺を見ていた。
そして、なによりアレックスの視聴者と、俺の視聴者。合わせて何億人になるのだろう。
この出会いを、面白がって全員が見ている。
そう考えると、俺は会話を取り繕うことすらできなかった。
「おいおい、アレックスと同郷なのか? ヒカルって言ったっけ? こいつ異世界ってとこから来たって言ってるけど、ホントなのか?」
連れまで話に入ってきて、俺は正直、限界だった。
「悪い……用事があるから、その話はまた今度でいいか?」
「おっ、そうか。悪かったな、急に声を掛けて。こっちじゃ地球の話できる奴いないからさ。俺、たまにここ来てるから、また話しようぜ!」
「……ああ」
アレックスは最後まで良い奴だった。
俺は自分が恥ずかしくなって、逃げるように公衆浴場を後にした。
いや、実際逃げ出したのだ。
◇◆◆◆◇
公衆浴場を後にした俺は、宿に戻り倒れるように横になった。
(もっと、普通に話せばよかった)
アレックスが話しかけてきた時のことを反芻する。
俺はナナミを殺していない。突然異世界転移に選ばれた、いや巻き込まれたと言ってもいいくらいだ。はっきり言ってしまえば被害者なのである。
卑屈になる必要などない。
それなのに、逃げるようにして……いや、逃げたのだ。
ちゃんと話せばよかったのに。
境遇を分かってもらえたかもしれないのに。
それなのに、俺はまるで後ろめたいことがあるかのように、逃げ出してしまった。
「あああああっ!」
ただやり過ごした。
せっかく出会えた、地球からの転移者なのに。
同じ境遇の仲間なのに。
俺は言葉少なに、あの場面をやり過ごしてしまった。
だって怖かったのだ。
知らない人間と喋るのも心がザワザワするし、なにより注目を浴びた瞬間、自分が自分ではなくなってしまった。
知らない人たちのぶしつけな視線が俺に集まった瞬間、目の前がチカチカして、頭が真っ白になってしまった。
心臓が暴れまわり、頭に血が上り、手足の先が痺れて、立っているだけで限界になってしまった。
あれでは到底まともに喋るなんて不可能だ。
それでも無理をして喋ろうとすれば、言葉より先に涙が出てきてしまっていたに違いない。
心の準備をしていなかったのも悪かったのだろう。
不意打ちで、取り繕うことすらほとんどできなかった。
嫌いだ。
明るい場所も。正しさも。
この世界に来る前は、こんなじゃなかった。
もっと普通だった。
――普通だったのに。
あいつは、俺が幼馴染み殺しの容疑者だということを知っているはずだ。
なのに、あいつはそんなことを知らないような素振りで話しかけてきた。
偶然の出会いだったのか?
それとも、俺の居場所や、俺の行動が逐一メッセージで報告されていて、偶然を装って俺の姿を見に来た?
悪い想像が膨らんでいく。
あれだけの会話では、真実など見えるものではない。
なにもわからない。わからないけれど、俺は嫌われていて、そしてすべての転移者たちは、俺の敵となりえる存在であることだけは確かだった。
自分が卑屈になってしまったという自覚はある。
いつ狂ってしまったのか、今となってはわからない。
森を抜けて初めて酷いメッセージを読んだ時か。
それとも迷宮に潜み、死体から装備を拝借し闇市で売りさばいた時か。
元々人間だった精霊石を金に換えて、その金で食料を買い求めた時か。
それとも、元々俺はこういう人間だったのか。
とにかく、そんな俺を見て、みんなが笑っているのだ。
みんなが俺の失敗を望んでいる。
俺が変な笑い方をするのを、俺がとんちんかんな受け答えをするのを。
俺がみじめに死ぬのを。
ヒカルのくせに、対等のつもりで話してんじゃねーよと笑っている。
お前は迷宮で闇に隠れてコソコソ生きるのが精一杯の小男で、ちゃんと人生を生きている者とは違う劣等種だろう? と嘲け笑っている。
……頭ではわかっていた。
そんなのは、俺が自分で感じているだけの
なのに、心の奥底から声がするのだ。
『お前が劣等なのは、どう言葉を尽くして繕ったところで「真実」だろう? その「真実」に対して、どれだけ違う違うと喚いてみたところで、それは「嘘」なのではないか? 嘘で取り繕うのもいいだろう。だが、お前はわかっているはずだ』
そうして、俺は萎縮してしまう。
心の奥底が真っ黒いなにかに包まれて、そのまま動けなくなってしまう。声も出すことができなくなってしまう。
心の中に魔王が住んでいる。
「ううううう……!」
もっと、話せばよかった。
あのアレックスは、ちゃんと聞いてくれたかもしれない。
視聴者達に説明してくれたかもしれない。
事件のことを知っても、俺を信じてくれたかもしれない。
友達になれたかもしれなかったのに。
――あはは
――うふふふ
……いや、そう思うことこそが俺の弱さなのかもしれない。
信じてもっと悪い状況になったらどうする。
アレックスのことだってわからない。初対面だから良い奴に見えただけかもしれない。
転移者ならポイント強化だってしているのだ、迷宮の中ならいざしらず、街中では俺など一捻りにされてしまうだろう。
俺と出会ったことで、何通ものメッセージが届いて俺のことを知り、改めて殺しに来るのかもしれない。
「……そうだよな」
ベッドの上で、小一時間身もだえして、だんだん冷静になってきた。
あれでいい。
あの対応で良かったのだ。
異世界転移者の知り合いなど、リスク以外の何者でもない。
人恋しさから間違った選択をしてしまうところだった。
俺は間違っていない。
――ははは
――クスクスクス
どこからか、笑い声が聞こえてくる。
俺の愚かさを誰かが笑っている。
いいさ。
いくらでも笑えばいい。
俺は愚かで、なにもできないただの黒瀬ヒカルだ。