透き通るような高らかな歌声が、神託の国の首都エルデにある大聖堂に響き渡る。人々の希望そのものであるその声の主は、国一番の魔法使いにして、若き**奏(かなで)**だ。太陽の光を宿したような金色の髪が、聖堂のステンドグラスの光を浴びて輝き、その華やかな笑顔は、集まった民衆の心を瞬く間に明るく照らした。彼の歌声は魔を祓い、豊穣を約束すると信じられ、奏はまさに生ける偶像だった。
その日もまた、郊外に現れた大型の魔獣を退けた奏は、かすり傷だらけのローブを翻し、いつもの路地裏へと滑り込んだ。目指すは、ひっそりと佇む小さな薬草屋。引き戸を開けると、鼻腔をくすぐる薬草の穏やかな香りと共に、主の静かな声が響いた。
「また無茶をしましたね、奏様」
カウンターの奥で、無数の薬草瓶に囲まれて座る男が、ゆっくりと顔を上げた。端正な顔立ちを彩る黒縁眼鏡の奥から、静かで怜悧な瞳がまっすぐに奏を捉える。漆黒の髪は夜の闇を思わせ、彼、**宵(よい)**の存在は、奏の眩い輝きとは対照的だった。
宵は手慣れた様子で薬草をすり鉢に入れながら、深々とため息をつく。その所作の一つ一つが、どこか神秘的で、近寄りがたい雰囲気を纏っていた。奏はそんな宵の静けさにいつも癒されていた。ここは、人々に囲まれて生きる奏にとって、唯一、素の自分でいられる安らぎの場所だった。
だが、宵の静かな瞳の奥には、奏が知る由もない、深い秘密と冷徹な覚悟が隠されている。彼の指先が薬草に触れる度、目には見えぬ魔力の波が密かに脈打っていた。
「傷口を拝見させてください」
「ああ」
そう言って、奏は着物を下げて腕と背中を見せた。
「綺麗な肌が台無しですね」
「傷は男の勲章だって言うけどね」
「背中の傷は剣士の恥とも言いますが」
「僕は剣士じゃないから。あと、逃げたんじゃないから!」
「どうせ側近を庇ったのでしょうけど、将がやられちゃ意味ないですよ」
宵はため息を吐きながら、白く綺麗な指先で奏に薬を塗り込む。
「僕なら致命傷を避けられるからいいの。それに君にこうして薬を塗ってもらえるしね」
「あまり頻繁に来られるようなら、出入り禁止にしますよ」
「それは困るな」
ハハッと苦笑する奏に、宵の視線が向けられる。
「奏様ならもっと良い治療を受けられるはずです。わざわざこんな路地裏の廃れた陰気臭い薬屋に来なくてもいいのでは?」
「僕には何よりも素晴らしい治療だよ」
「……変わり者ですね」
薬を塗り終え、離れかけた宵の手を奏が逃さないように掴む。優しく触れるか触れないかのキスを落とした。
「薬のお礼」
「祝福をそう簡単に与えるものではありません」
「君に幸せが訪れますように」
「もう間に合ってますよ」
宵は顔を赤くした。
奏が出ていった後、薬草屋の戸を乱暴に叩く音がした。随分と騒がしい音に、宵は眉間に皺を寄せる。
「何ですか、夜分に騒々しい」
近所迷惑だと、木の棒を取って扉を開けると、男に乱暴に地面に押し倒された。
「何ですか?酔ってんですか?」
「何チンタラしてんだ、宵。早く奏を誑し込め。服を脱いで股開けよ。お前のお得意だろ?」
「本当に下品ですね。あの御方が淫乱を好まないのは、あなたとは違うんだ。好みのタイプを演じているんだから、もう少し待っていろ」
宵は男を押し返す。深いため息を吐いて着物を直した。
「待ってやるのはあと一週間だけだからな。魔獣で殺(や)れねぇんなら腹上死させな」
「分かったよ」
男は地面に唾を吐いて出ていった。
宵は塩を撒いて扉を閉める。
「ああ、誰が片付けると思ってんだ」
イライラしつつ、宵は掃除を始めた。
「宵、何をモタモタしている。早く奏を亡き者にするのだ。あの者の光さえ奪えば、神託の国も闇に落とすことができる。我々闇の国の住人が天下を取るのだ」
フハハハと高笑いするのは、闇の帝国の魔王、レグナスである。
光を嫌い、全てを闇と破壊の混沌に沈めることを夢見ている。
そして、その魔王の手足となって動くのが、魔獣使いである**宵(よい)**だ。
奏に魔物をけしかけ、怪我を負わせているのも、他ならぬ宵の仕業だった。
「奏は確実に私の術中に嵌ってきております。今しばらく辛抱ください」
宵は深く頭を下げる。
「しかし、良い拾い物であったな。お主がこうも優秀な魔獣使いだったとは。そして、優秀な毒師である。本当に毒蛇のような男よ」
「お褒めに預かり光栄です、レグナス様」
「近うよれ」
レグナスは宵を手招きする。
スッと近寄り、レグナスの差し出した手に、宵は自らの頬を寄せた。
レグナスは宵の眼鏡を外す。
「本当に美しい顔をしておるな。まるで宝石のような瞳だ」
レグナスの長い爪が、宵の白い肌に薄く傷をつける。
「おっと、すまんな。爪がいたずらしたようだ」
「構いません。かすり傷ですから。身体につけてくださっても構いませんよ」
「宵は魔性よな」
レグナスはハハッと笑って宵を離す。
「そうじゃな。奏を亡き者にしたなら、褒美に夜伽を任せよう」
「お任せください」
宵はもう一度深く頭を下げる。
「退室しろ」
レグナスの側付きにそう命じられ、宵は部屋を後にした。
「レグナス様を誘惑するな、ゲス野郎」
側近にそう睨みつけられる宵。
「ご自分に色気がないからと、私を責められても困りますな」
宵も側近を睨み返し、その場を去るのだった。
「レグナス様、宵をあまり信用なさらない方が宜しいかと。素性が調べても明らかになりませぬゆえ、怪しげでなりません」
「嫉妬しておるのか、ユラ? 安心しろ、我の側近はお前だけだ」
「有難き幸せ」
ユラはレグナスに頬を寄せる。
レグナスはユラの頬にも、宵と同じように傷をつけるのだった。