「う……うそだろ……」
もう一度つぶやき、割れて枠だけが残された鏡へ近寄る。
無残に割れて床へ散らばった、幾百もの鏡の破片。
「そ……そんな…………」
鏡の欠片を指で摘んで拾い上げる。
覗き込んでみても、ただ俺の顔を映している、ただの鏡だ。
諦めきれず鏡を一枚一枚並べ始める。
全部を綺麗に並べ直して接着すれば、直るかもしれない。
答えのないパズルに近いが、やってやれない作業ではないはずだ。
「……あっ! これ……生きてる!」
バラバラになった鏡の中に、一つだけ向こう側へと通じている破片を見つけた。
破片の中では一番大きな破片だ。
鏡は向こう側でも割れているのか、いつものように部屋の入口ではなく、低い位置から角度を付けて地下室の入口あたりを映している。
だが、これで未来が繋がった……!
「やった……! よかった…………」
もちろん、欠片は俺自身が向こうに渡るのは無理なサイズだ。
腕ぐらいなら向こう側へと抜けるが、まだオートマタがウロウロしているだろうから危険だ。オートマタは俺だけをターゲティングしていたから、うちの子たちが戻ってきても、無害だろう。そうでなければただの
だが……だが、しかし。
これからどうする……?
薄ぼんやりと地下室を映し続ける鏡の中を覗き込みながら、まったく働かない脳みそで考える。
その答えは――明白だった。
だが、俺は……。
俺は……その答えを一瞬たりとも考えたくはなかった。
◇◆◆◆◇
「あっ、そうだ!」
ふいに思い出した。
クラン特典のテレポートがあった。
ホームへのテレポート。
戻れるぞ!
「テレポート! クランホームまで!」
クランリングに向かって叫ぶ。
焦っていた。
戻ったら今度は二度と地球に戻れないかもしれないということなど、チラリとすら考えなかった。
だが、結果は沈黙。
なにも起こらない。
「おっ、おい! テレポートだ! クランホームまで!」
魔法陣は出現しない。
天職板も飛び出さない。
「くっ、クランクランクラン! 天職天職天職! おい! おいって……!」
ここは地球。
異世界でもファンタジーの世界でもなんでもない。
精霊はいない。
テレポートは使えない。
それどころか、天職板も出ない。
この世界での俺は、天職も固有職もスキルもなにもないのだった。
それが今、ここにある現実だった。
◇◆◆◆◇
俺はいまだに鏡を並べ直していた。
それ以外にできることはなかったし、テレポートもダメだった今、一縷の望みを託せるのはそれだけだったからだ。
鏡は、幾十幾百の破片と化してしまっている。
ヌルヌルとした赤い液体が指から溢れ、鏡の欠片をつまむ手が滑る。
「くそっ……なんだよ……」
気付けば手は切り傷だらけになっていた。
鏡はほとんど復元できていない。
「うっ……く……。くそっ……ふっ……ぐ…………」
鼻先がツンとして、こみ上げてくるものを堪えることができない。
けぶる視界の中で、ただ、薄明かりの地下室を映し続ける鏡の破片を覗きこんでいる。俺が開けっ放しにした木製の扉から光が射し込み、今では届くことのない世界の欠片を映し続けている。
オートマタの姿は見えない。
どこかに行ったのか、それとも鏡に映らない角度のところで佇んでいるのか。
屋敷には誰もいない。
パレードがどうなったのかわからないが、俺抜きでもきっとうまくやっただろう。
ディダの奴がなにか仕掛けている可能性もあるが、すでにあいつは目的の一つを達成している。パレード自体には手を出さないだろう。
みんな、俺が来ないことを訝しんでいることだろう。
俺抜きでも大丈夫だろうか。
パレード自体はともかく、その後のパーティーはわからない。
いや、みんな優秀だ。俺抜きでもうまくやるだろう。
全部終わって、屋敷に戻ってくるのはあと何時間後だろうか。
ディアナかシャマシュさんが、屋敷の結界が壊されていることに気付くだろう。そして、屋敷の窓が割られていること、地下室の扉が開け放たれていること――――そして、鏡が割れていることに気付くだろう。
俺がいないこと。鏡が割れていること。その関連性に気付くだろう。
窓から差し込む昼下がりの日差しが、暗い部屋を能天気に照らしている。
無職の童貞の二十歳すぎの、なんの取り柄もない男の六畳間を照らしている。
頭の中が真っ白になる。
頭の中が真っ赤に染まる。
ほんのちっぽけな魔法の欠片。
あの世界へ繋がる鏡。
なぜ……?
どうして……?
どうしてこんなことになった……?
どうもこうもない。
悪いのはもちろんディダだが、俺自身も甘く考えていた。
あの優しい世界で、なんだかんだ言ってもうまくやっていけると、ずっとあの幸せが続くと、そう考えていた。
あるいは、なにも考えていなかった。
イオンの話を聞いても、アイザックの話を聞いても、結局はリアリティを持てていなかったんだろう。
より最善を選ぶのなら、イオンを衆目にさらす必要はなかったのかもしれないし、騎士隊のパレードなんて目立つことをやる必要だってなかったのかもしれない。調子に乗って、ドラゴンなんて召喚しないほうが良かったのかもしれない。
目立てば悪いものも引き寄せる。
そのことは、ずっとわかっていたはずなのに。
動悸が収まらない。
手足の先が痺れる。
つま先からこみ上げてくる後悔が、吐き気と汗と涙となり、止めどなくあふれ出す。
部屋に反吐をぶちまけ、少しずつ頭が冷えてくるにつれ、現実が、鏡が割れたという現実が追いついてくる。
滲む視界の先に映る、粉々になった鏡。
◇◆◆◆◇
少し。ほんの少しだけ冷静になった俺は、唯一生き残った鏡を検分した。
まだ、誰も帰ってこない。
後悔と自己嫌悪に塗りつぶされ、部屋をのたうち回り、何時間も経ったかと思ったが、まだ二時間程度しか経っていなかった。
鏡は、ほんの小さな25センチ四方程度のものになってしまったが、まだ生きていた。
腕くらいなら向こう側へ通すことができるし、物を向こうへ送ることも可能だ。
完全に機能を失ったわけじゃないのなら、希望があるかもしれない。
「そ、そうだよ。ディアナの魔法だってあるし、シャマシュさんだっているんだから……。よ、よし。よし。大丈夫、大丈夫だ……!」
俺は一人つぶやいた。
そうしなければ、まだ希望が、未来があると思い込まなければ、本当に押しつぶされてしまいそうだった。
…………
………………
……………………
どれほどの時間が経っただろう。
無限とも思える時間の果て、ついに鏡の中に動きがあった。
向こう側の破片がどうなっているのか分からないが、破片と破片が重なり合って、ちょうど少し角度がついていて、地下室の入り口が見える。
明かりが人影で遮られ、逆光の中現れたのは、血相を変えたディアナだった。
「ディアナ! ディアナ!」
鏡に向かって叫ぶ。
ディアナは、鏡が粉々砕かれているのを発見し、口を手で覆い呆然と立ち尽くしている。
続いて、マリナ、レベッカさん、エレピピ、エトワ、オリカ、イオン、シャマシュさん、シェローさんと続く。
みなが呆然と立ち尽くしている。
マリナと目が合う。
あのメンバーでこちら側の世界が見えているのは、マリナとイオンとシャマシュさんだけだ。
マリナがなにかを叫び、こちらに駆け寄ってくる。
向こう側には、鏡に俺の顔が、まるで鏡に閉じ込められてしまったかのように映っていることだろう。
マリナがまたなにかを叫び、イオンとシャマシュさんが確認するかのように交互に鏡に映る。
俺はせめて声が届けばと、近所迷惑を顧みず叫んだ。
だが、声は届かない。
シャマシュさんがオートマタに気付き、あるいは最初から気付いていたのか、背中を開き、精霊石を取り出すのが見える。シャマシュさんは、オートマタがどんなものか知っていたのかもしれない。
シャマシュさんが取り出した精霊石を、未だ呆然と立ち尽くすディアナに渡す。
肩を揺さぶり、なにかを叫んでいる。
マリナは泣きじゃくって、ディアナにすがっている。
ディアナが意を決した表情になり、こちらへ向かってくる。
ディアナには鏡のこっち側は見えていない。
俺は手を伸ばす。
鏡から手を伸ばす。
ひんやりとした感触。いままで何度か握ってきた、ディアナの冷たい手。
強く強く握り、握り返して。魔法はまだ閉じていないと確認しあう。
手を離して、鏡の中のディアナが、涙に濡れた瞳で精霊石に呪文を送る。
鏡越しに溢れ出す、ディアナの精霊魔法。
マリナの傷を元通りに
この魔法で直る。
鏡は直る。
それで、また、いままで通り。
それは祈りだった。
そして、今できる唯一の希望だった。
鏡から漏れ出す光が収まっても。
鏡になんの変化もなくても。
鏡の中で首を降り俯くシャマシュさんも。
鏡の中で虚ろな瞳でマリナに肩を揺さぶられているディアナも。
なにもかも、鏡の中の。
夢の中の出来事だった。
◇◆◆◆◇
後悔が押し寄せてくる。
どうして法事になんて参加したのか。
断ればよかったんだ。
パレードのほうがずっと大事だった。
どうして誰かに屋敷で待っていてもらわなかったのか。
たとえば、シャマシュさんにでも待っていてもらえば、こんなことにならなかった。
どうしてディダと話なんてしてしまったのか。
あんなやつ無視してりゃ良かったんだ。
あとでなにかしてきたとしても、みんなといっしょならどうにかなったのに。
どうして屋敷のほうに逃げたんだ。
街に逃げれば誰かに助けを求められたのかもしれないのに。
どうして結界が破られたあと、鏡から逃げようなんて思ったのか。
足は俺のほうが速かったんだから、森を抜けて街のほうに逃げたってよかったじゃないか。
「たられば」が頭の中から止めど無くいくらでも湧き出てくる。
あのときこうしていたら。
あのときこうしていれば。
後悔先に立たず。
俺の一生の中で、今日ほどこの言葉を噛み締める日は来ないだろう。
◇◆◆◆◇
なにもする気が起きない。
ただ部屋で、鏡を見て、壊れた部分を並べ直して、あの世界での思い出を頭の中で反芻して、ディアナの手を握りしめて毎日が過ぎていく。
鏡の欠片は、ずっとディアナが持ち歩いている。
手を伸ばせば必ずディアナに触れることができた。
頭を撫でて、頬の涙を拭った。
手を握って、胸に触れた。
だが、それは、もう届かない幻の欠片に触れているようなものだった。
鏡ひとつを通して隔てられた、世界と世界。
その距離は、こんなに近いのに。
触れることだってできるのに。
いっそ、繋がっていなければ――
一瞬、そんな考えが頭に浮かぶ。
もう、こちらからできることはない。
向こう側で、鏡を直す手段を探してもらうしかない。
きっと、レベッカさんやヘティーさんやシャマシュさんや神官ちゃんが、きっと、きっと探してくれているだろう。
そう、信じる以外にない。
こちらから、できることはないのだから。
◇◆◆◆◇
鏡が割れてからも、頻繁にレベッカさんもヘティーさんも顔を出してくれた。
マリナも無理に作ったとわかる笑顔で、毎日の報告をしてくれる。
ときどきエトワがやってきて、紙に描いた絵で店の状況を報告してくれる。まだ商品の在庫は大丈夫なようだったが、部屋にあった在庫をすべて鏡から送れるだけ送っておいた。
シャマシュさんは、鏡の構造について研究してくれているようだ。身振り手振りだからわからないが、紙によくわからない魔法式のようなものを書いて頭を抱えている。
ひとまずディダの影がないことに安心しつつ、しかし、寄る辺のない日々を過ごした。
俺だってこのままじゃいけない。
そうわかっているのに、一歩も動き出すことができないでいた。
パソコンはもう何日も開いていない。
オクに出していた分はもうとっくに落札されているのだろうが、取引き作業をやる気がおきなかった。「とても悪い出品者」の評価が付くだろうが、そんなことは心底どうでもよかった。
鏡の向こう側のディアナは、毎日泣いていた。
ちゃんと食べているのか、ずっと閉じこもっていて健康に悪いんじゃないかとか、そんなことを考えたが、それは俺も同じだった。
もうずっと部屋に閉じこもっている。
トイレと、せいぜい夜中にコンビニに出かけて食べ物を調達するくらいだ。
母親は夜勤が多くあまり家にいないが、さすがに俺の異変に気付いたようで、なにかと話しかけてくるが、相手にする気になれなかった。
なにもかもどうでもよかった。
このまま世界ごと滅びてしまえとすら思った。
良くないと思う。向こうでみんなも頑張ってくれている。俺もできることをしないと。
頭ではわかっていても、できなかった。
どうしようもなかった。
そんな日々が1ヶ月も続いたある日、いつものように鏡に手を入れると、なにか紙束のような物と、石をひとつ渡された。
「……手紙……? と、これは精霊石?」
ずっと前に、俺もお導きを達成して手に入れたことがある、
それと、一通の手紙。
そこには、たどたどしい日本語で、「だんなさまへ オリカより」と書かれていた。
オリカからの、手紙だった。