夜のとばりが降り、都会の喧騒が薄れていく。ビル群の隙間から漏れるネオンの光が、清良の歌声をかろうじて照らしていた。
ステージの上の彼は、スポットライトを浴びるたび、観客の喝采を一身に集める人気アイドルだ。彼の歌声は人々の心を癒やし、そのライブ会場はいつも光と熱気に満ちていた。けれど清良自身は知っていた。本当にその歌を必要としているのは、もっと深い闇の底にいる、声なき者たちだと。
清良は生まれつき、人には聞こえない音を聞き、見えないものを見る性質を持っていた。それは、時に耳をふさぎたくなるような悲鳴であり、時に胸を締め付けるようなすすり泣きだった。彷徨う幽霊や、この世に未練を残し嘆き続ける妖怪たちの声。幼い頃から、清良はそうした声にただ寄り添い、慰めるように歌い続けてきた。彼の歌声が届くと、苦しみに囚われていた魂は安らかに霧散し、あるいは穏やかな光となって消えていく。そうして、彼はいつしか、自覚なく「浄化」の道を歩んでいた。
その夜もまた、清良の耳に届く声があった。ライブを終えてもなお、その声は消えず、会場の歌声では浄化できなかったことを示していた。清良はいつものように裏口から外に出ると、声のする方へ向かう。途方もない悲しみに満ちた女性の幽霊の声は、清良の心を痛める。これは、成仏できずに彷徨う幽霊の助けを求める声とは別の、何かを訴えかけるものだった。
「妹を助けて!」
女性の幽霊は清良を見つけると、助けを求めてしがみついた。
「私を殺した男が、今度は私の妹を……!」
絞り出すような叫びは、妹への深い愛情と、迫りくる危機への絶望に満ちていた。清良は、姉の霊に導かれるまま人気の無い路地裏へと急いだ。細い道に入ると、狂気に満ちた男の姿が見える。
「可愛いね。幸子ちゃんにそっくりだね。君も僕の物になれば良い」
息づかいの荒い男は譫言を言っている。正気ではない。震える少女は壁に追い詰められ、腰が抜けて声も出せないでいる。男の手が鈍く光る刃物を振り上げようとしていた。清良は迷うことなく、男に体当たりして一瞬の隙を作り、少女の手を引いた。
「なんだこの野郎!僕の幸子ちゃんを返せ!」
男は刃物を振り回し、追いかけてくる。狭い路地裏は足場が悪く、気が動転していたこともあり、清良はゴミバケツに足を取られてしまった。咄嗟に少女におおいかぶさって庇う。逃げられない。身体を貫くかもしれない衝撃を覚悟して目を閉じた。
その刹那――。
耳元を通り過ぎる風が、まるで何かが叩きつけられたような音を運んだ。目を開けると、目前にあったはずの凶器は、地面に転がっていた。
「いてぇ!なんだてめぇ!この野郎!!」
男の悲鳴が聞こえる。清良は視線を向けた。男の腕を掴み上げ、まるで獲物を狩るかのような鋭い金色の瞳が、闇の中で不気味に光っていた。
「愚かな」
低く、地を這うような声が響く。男の背後には、闇夜に目が光る、いくつもの禍々しい影が揺らめいていた。一目でそれが人間ではないと分かる異形の姿は、男を恐怖のどん底へと突き落とす。茨木。清良がその名を認識するよりも早く、赤い髪の男と彼が使役する妖怪たちは、男を囲み、無言の威圧で彼を支配していた。
「貴方の罪は、貴方自身で償うのですね。……警察に行き、全てを話しなさい。それができなければ、ここから先は地獄です」
茨木の冷徹な声が、路地裏に響き渡った。男は震えながら、ただ頷くことしかできなかった。清良は、庇った少女を抱きしめながら、目の前の光景に息を呑む。
優しく全てを救おうとする清良とは対照的に、力で悪をねじ伏せ、強制的に「裁き」へと向かわせる茨木の姿。これが、光と影、浄化と裁き、相反する二人が交錯し、運命の歯車が回り始めた瞬間だった。
「警察を呼びました。大丈夫ですか?」
茨木は座り込む清良に声をかけた。凶悪な男は既に意気消沈しているが、茨木は念の為に妖怪に目を光らせている。
「駄目。腰が抜けてる」
清良は苦笑いで答えた。
「そうですか。そちらのお嬢さんは?」
茨木が尋ねる。
「妹さんは恐怖のあまり気を失っているみたいだね」
清良は少女を抱きかかえたまま言った。
「妹さん?」
どうやら茨木には幽霊の姿が見えないようだ。
「妹を助けてくれてありがとう」
満面の笑みで、姉の幽霊が清良にお礼を言った。
「君はもう、一人でも成仏出来そうだね」
清良も笑顔で姉の霊を見送る。名残惜しむように、鎮魂歌を口ずさんだ。
「ひゃぁ!清良様の生歌!」
「やべぇ、召される」
「浄化されちゃう!」
にわかに黄色い悲鳴を上げる茨木の使役妖怪たちに、茨木は驚いて眉をひそめた。
「おい、しっかり男を見てろ!あんた、俺の妖怪たちに何をしたんですか!」
茨木が咎めると、清良はにこやかに首を傾げた。
「僕は浄化の歌を歌っているだけだよ」
「その歌、やめて下さい。うちの妖怪が骨抜きになります!」
「気持ちよくなるのは良いことだよ。人間だってマッサージは必要でしょう?」
「仕事中にするもんじゃないでしょう!」
妖怪たちにウィンクする清良に、彼らは「ファンサ頂きました!」「俺、もう浄化されちゃうかな」「今なら天国に行ける気がする」と、ハァハァと興奮している。凶悪犯が意気消沈していて助かった。そうでなければ大変な事になっていたことだろう。
そんなこんなしている内にパトカーがかけつけて、凶悪犯を引き取ってくれた。
「今日もお手柄だったな、茨木。お前を警察官に雇いたいぐらいだぜ」
茨木が懇意にしている警察官が、苦笑しながら声をかけた。
「馬鹿言わないで下さい。俺とつるんでるせいで貴方、風当たり悪いんでしょう?」
「まあな」
ハハッと警察官が笑い、すぐに凶悪犯を連行していった。意識を取り戻した妹も、警察で保護してくれるとのことだ。
「姉の夢を見たわ。助けてくれたのね。ありがとう」
最後に妹は、茨木と清良を見るとお礼を言って去っていった。残された茨木と清良。
「僕も君には命を助けられたね。僕は清良。君の名前は?」
「茨木です」
「今度お礼をさせてね」
「結構です」
自分の妖怪たちが浄化されては困る。そう言うかのように、直ぐに清良の側を離れる茨木は、暗闇へと姿を消すのだった。