路地裏での一件から数日後。清良の日常は、相変わらず忙しないままだった。昼間は人気アイドルとしてテレビ収録や雑誌の撮影に追われ、夜になれば人知れず、彷徨える魂の声に耳を傾ける。
あの夜、妹を助けたいという霊を救うことができたのは、茨木という赤い髪の男がいたからだ。自分一人では、自分自身はもとより、妹さんさえ助けられたか分からない。常軌を逸した人間ほど恐ろしいものはないと、清良は改めて痛感した。彼の冷徹な「裁き」は、清良の「浄化」とはまるで正反対。だが、間違いなく必要だった。
清良はふと、鼻歌を歌う。あの夜、茨木の妖怪たちが彼の歌声に骨抜きにされ、茨木が眉間に深い皺を寄せて怒鳴っていた姿を思い出し、密かに笑みがこぼれた。彼らは今頃、どこで何をしているのだろう。その歌声は、夜の帳に溶けるように消えていった。
一方、茨木の事務所「夜鴉堂」は、今日も独特の静けさに包まれていた。都心の裏通りにひっそりと佇むその場所は、警察や法律が介入できない「人ならざる」トラブルを専門に扱う「何でも屋」だ。茨木は眼鏡の奥の金色の瞳で、目の前の書類を睨んでいた。依頼主は、この地域の古参の住人である老夫婦。彼らが抱える問題は、隣家から聞こえる奇妙な「音」だった。
「先生、最近、お隣から変な音が聞こえるんです。夜中にだけ。最初は猫かと思ったんですが、どうも違うようで……」
老夫婦の怯えた声に、茨木は無表情で耳を傾ける。口調は常に礼儀正しく、「承知いたしました」「ご安心ください」と、丁寧な言葉を紡ぐ。しかし、その声の低さと、纏う冷気は、彼がただの便利屋ではないことを物語っていた。彼は妖怪たちを呼び寄せ、詳細な調査を命じる。彼らは即座に姿を消し、夜の闇へと溶け込んでいった。
「全く、厄介なものですね」
茨木は独りごちた。ワーカーホリック気味な彼は、睡眠時間を削ってまで依頼をこなすことを厭わない。しかし最近は困ったことに、あのアイドルの歌声が頭の片隅でしつこく鳴り響いている気がして、集中力が乱れるのが悩みだった。特に、疲労困憊の時にふと思い出す、彼の優しい歌声はまるで子守唄だ。そんなもの、自分には必要ないと、茨木は内心で毒づいた。しかし、その歌声が、あの夜の残像のように、彼の心に微かな余韻を残していることを、彼はまだ自覚していなかった。
妖怪たちの調べによると、音の正体は座敷童子であった。
「座敷童子がどうして、そんな不気味がられるような音を出すんですか?」
夜中、音がする時間に茨木は様子を見に来た。たしかに異様な音が聞こえる。これはもう、猫の出す音ではないだろう。ガラスが割れるような音まで聞こえている。本来、座敷童子は住み着いた家に幸福をもたらすはず。しかし、その家からはあまり幸せそうな雰囲気を感じさせなかった。
「どうも家族が忙しく、家に寄りつかない様子で、座敷童子も寂しがっているのです。今、絡繰童子が遊び相手をして慰めているところですが……」
報告する影縫の声に、茨木は眉をひそめる。
「座敷童子も、そんな家は捨ててしまえば良いというのに」
「一度気に入った家を座敷童子はそうそう見捨てたりしませんので。相当、昔は良くしてもらったようですよ。子供さんが小さい頃など、良く遊んでもらったそうです。ですが、そんな子供さんももう社会人で、座敷童子の事も見えなくなってしまったとか」
「困りましたね。このままでは悪霊に変貌してしまうかも知れません」
禍々しい妖気を感じ取る茨木。滅するしかないのか? 相手は幸福をもたらすと言われる座敷童子だぞ? しかし、このまま放っておけば、座敷童子は悪霊化して大変なことになってしまう。
人間になんて肩入れするから……。
茨木が、苦肉の策で滅する言葉を発しようとした時である。
風に乗って歌声が聞こえてきた。
肩の力が抜ける。天使の歌声だ。
「こんばんは、茨木くん」
陽気な声に視線を向けた。夜だと言うのに眩いくらいに輝いて見えるのは清良だ。
「すごく寂しいって声が聞こえたから来てみたんだ。スケジュールに空きが無くてね、来るのに時間がかかっちゃって」
ごめんね。そう謝る清良の側に、いつの間にか座敷童子が来ていた。座敷童子は清良の手を握る。
「正気に戻してくれてありがとう」
そう、微笑む。
「この家はもう君を必要としていないみたいだから、新しい家を探すと良いよ」
清良がそう声をかけると、座敷童子は笑顔で走り去った。元凶が去ったため、物音も消えた。
「君もよかったね」
清良は茨木を見て微笑む。
「何が良かったんですか?」
「すごく嫌そうな顔をしてたから。今は、安堵した表情をしているよ」
「気のせいでしょう。この前のと今日ので借り貸しは無しと言うことにしましょうか。では」
「つれないね」
ウズウズしだしている妖怪たちを引き連れて帰路につく茨木。さっさと離れないと、俺の妖怪がメロメロにされる。
それに、俺も……。