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第二章:隠された旋律と、軋む歯車

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 茨木の事務所「夜鴉堂」は、今日も独特の静けさに包まれていた。依頼主は、業界では名の知れた音楽プロデューサー。彼が抱える問題は、自身の周囲で頻発する、原因不明の**「廃人化」状態**だった。


「先生、どうも最近、私の周りで奇妙なことが起こるんです。優秀な作曲家や才能ある若手歌手が、次々と意識不明の重体になったり、記憶を失ってしまったりするんです。医者も原因が分からないと……」


 プロデューサーは怯えた声で語る。茨木は眼鏡の奥の金色の瞳で、その男の顔色を冷静に窺った。彼の背後には、薄くではあるが、何か禍々しい「影」が付きまとっているのが見えた。それが、依頼人が抱える問題の根源であることはすぐに察しがついた。


「承知いたしました。詳しい調査を始めましょう」


 茨木は、いつものように丁寧な口調で応じると、すぐに妖怪たちを呼び寄せ、調査を命じた。禍刻には時間軸の淀みを、影縫には依頼人の心の影を、裂帛には現場周辺の妖気の探索を命じる。彼らは即座に夜の闇へと溶け込んでいった。


「全く、人間というものは、厄介なものを生み出すものですね」


 茨木は独りごちた。ワーカーホリック気味な彼は、睡眠時間を削ってでもこの依頼をこなすつもりだった。最近、あのアイドルの歌声が脳裏から離れず、集中力が乱れるのが悩みだったが、この依頼は彼の「裁き」の領域に深く関わるものだ。清良の歌声が届かない、人間の根深い「悪意」が絡んでいる。




 茨木は妖怪からの情報を持って、例の音楽プロデューサーと共にレコーディングスタジオへと足を運んだ。現場検証である。スタジオに入ると、どこからか歌声が聞こえてくる。

 またアイツだ。茨木はすぐに気づいた。必死な様子で歌う清良の姿が目に入る。いつもの様子と違い、その顔色は悪く、震えているようにも見えた。どこか苦しげだ。


「清良さん、止めてください!」


 茨木は思わず声を荒げた。


「影縫、清良さんの影を!」


 即座に影縫に命令し、清良の動きを止めさせる。影縫は清良を抱きかかえると、休憩用のソファーに座らせた。


「大丈夫ですか?酷い汗ですよ。記憶はありますか?」


 茨木は自分のハンカチで清良の汗を拭う。清良はショックを受けたように、虚ろな瞳をしていた。


「大丈夫。ごめん。僕の声が届かなくて……」


 清良が力なく呟いた。


「プロデューサー。すぐに救急車を……」


 茨木がプロデューサーに指示を出そうとした、その時。清良が首を振ってそれを遮った。


「大丈夫。そんなことより、すぐにここから出ないと」

「どうしましたか?」

「彼女たちを怒らせてしまった」 


 清良が言い終わるか早く、突然、耳を塞ぎたくなるような不協和音が響き始めた。精神を壊されそうな、息苦しさを覚える音だ。


「全員、結界!防御の構え!」


 何とか声を出す茨木は、妖怪たち全員で強固な結界を張る。音を跳ね除け、その隙に清良を抱え、慌てふためくプロデューサーを連れて一旦、部屋の外に退避した。

 手強い悪霊だ。



 いまだぐったりした様子の清良に、茨木はミネラルウォーターを差し出す。


「ごめんね。ありがとう」


 清良は申し訳なさそうにミネラルウォーターを受け取った。


「取りあえず、お互いの情報を交換しませんか?貴方はなぜ此処にいるんですか?」


 茨木が冷静に問いかける。


「アイドルがレコーディングスタジオで歌っているのは、普通の事だと思うけど?」


 清良は虚ろながらも、少しだけいつもの調子を取り戻して言った。


「はぐらかさないでください。貴方、このスタジオ使う予定なんて無かったでしょう」

「どうして?」

「どうしてって……名前が無かったから……」


 言い淀む茨木。清良のスケジュールをある程度把握しているなどとは、口が裂けても言えなかった。いや、別に俺はコイツがどうなろうと知ったことではない。でも、妖怪たちが心配するから仕方なく。バツが悪そうに視線を泳がせた茨木に、清良は苦笑した。


「僕がここに来たのは、とある歪んだ旋律を聞いたから。苦しい、助けてって、そう聞こえたんだ。だから僕の歌声で浄化しようとしたんだけどね。反発されちゃって、僕の歌声では届かないみたい。こんなこと、初めてなんだ」


 何がそんなに苦しいのか、何から助けて欲しいのか、どうしたら良いのか、何も教えてくれない。ただただ苦しんでいる。そんな悪霊化した霊の集合体が歌声の正体だ。その苦しむ歌声は、人の心を蝕む。


「多くの人を廃人にさせてしまっているのは、彼女たちですね」


 茨木が冷静に分析する。


「被害が出てしまっているんだね」


 清良は力なく呟いた。そうではないかと思っていた。どうにかしなければならない。彼女たちも救いたい。しかし、打つ手がなかった。清良は完全に打ちのめされ、いつもの明るさが一切感じられない。


「貴方らしくないですね」


 あまりに落ち込んだ清良の様子に、茨木は思わずそんなことを言ってしまった。


「君が僕の何を知っているの?」


 清良の虚ろだった瞳が、初めて茨木を捉え、少しだけ強い光を宿した。


「何も知りませんよ。でも、そんなことを言って俺を睨むような人じゃないのは知っています。霊の不協和音に当てられてますよ」

「僕が?そんなわけないでしょう」

「いいから。プロデューサーさん、今日は一旦引きましょう。戦略的撤退は必要です。レコーディングスタジオはしばらく閉鎖でお願いします。清良さんはうちの事務所で休ませましょう。貴方、働き過ぎなんですよ」

「茨木くんだけには言われたくないな」

「はいはい。裂帛、清良さんを運びましょう」


 茨木は清良を抱き上げると、裂帛に跨った。すごいスピードで駆け抜ける裂帛は、障害物をまるで無視して突き進んで行く。


「うわぁ!!これはどうなってるの!?」


 清良は驚きに声を上げた。


「人には見えてませんので大丈夫です」


 茨木は冷静に言い放つ。


「そういう問題じゃないと思うよ!」


 清良は茨木と裂帛のせいで、余計に疲れた気がするのだった。


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