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 澄み切った朝の光が、寺の庭園に降り注いでいた。清良は、その光の中で、昨日と同じようにそっと歌を口ずさむ。澄んだ歌声は、山間の空気に溶け込み、遠くまで響き渡っていく。

 昨日の座禅や掃除の疲れもどこへやら、清良の表情は心から安らいでいるようだった。体の芯から力が湧き上がってくるような感覚に、清良は歌いながらふわりと笑った。

(ああ、こんなに体が軽いのは久しぶりだな……)

 歌い終えると、後ろから拍手が聞こえた。振り返ると、そこには茨木と元真の姿があった。


「いやぁ、朝から素晴らしい歌声ですね」

「流石、アイドルです。昨日の朝も歌っていましたね」


 茨木と元真が感嘆の声を上げる。清良は少し照れくさそうに笑った。


「今日はもう帰っちゃうんだよね?名残惜しいな」


 清良が寂しそうに呟く。

 明日には清良の仕事が入っているので、どうしても帰らなければならないのだ。

 茨木が口を開いた。


「ええ、しかし、もう少しだけ時間があります。今日、麓の村で夏祭りがあるんです。行ってみませんか?」


 元真も「この時期にしか見られない、伝統的なお祭りですよ」と促す。

 清良の目が輝いた。


「お祭り!?良いね。僕、お祭りってあんまり行ったことないんだ!」


 都会の喧騒とは違う、素朴な祭りの響き。清良の心が、また新たな期待で弾むのがわかる。

 茨木もまた、故郷の祭りで清良が楽しんでくれることを願い、わずかながらの不安を胸に、彼を誘った。




 村の中心にある広場には、すでに多くの人々が集まっていた。

 色とりどりの提灯が飾られ、屋台からは香ばしい匂いが漂う。太鼓と笛の音、そして賑やかな人々の声が混じり合い、祭りの活気に満ちていた。

 清良は目を輝かせ、その雰囲気にすっかり魅了されているようだった。


「すごい!こんなに活気があるんだね!」

「ええ。疫病退散と五穀豊穣を願う、大切な祭りなんです」


 茨木が説明すると、清良は興味津々といった様子で周囲を見回した。元真は屋台で甘酒を買ってきて、清良と茨木に手渡す。温かい甘酒を飲みながら、清良は人々の笑顔を眺めていた。


 広場の奥から、祭りのメインイベントである山車(だし)の音が響き渡った。

 厳かでいて、どこか神秘的な笛と太鼓の音色。それと同時に、人々の表情に、わずかな異変が起こり始めたのを茨木は感じ取った。

 最初は何かの気のせいかと思った。だが、人々が、先ほどまで見せていた楽しげな笑顔のまま、どこか一点を凝視し始めたのだ。

 その視線の先には、山車の上で舞う演者と太鼓打ちの姿。

 彼らの動きは次第に滑らかさを失い、どこかぎこちなく、人形のようにも見えた。そして、人々の口からは、祭りの囃子歌とは違う、奇妙な旋律が漏れ始める。それは、感情を込められたものではなく、ただひたすらに同じ音を繰り返す、不気味な不協和音だった。


「……何か、おかしい」


 清良が不安そうな声で呟いた。彼の敏感な耳は、既にその異変を捉えているようだった。


「ええ。この音は……暗示か!」


 茨木の脳裏に、先日「無音」を操っていた妖気の残滓がよみがえる。しかし、それは以前よりもはるかに広範囲に、そして巧妙に、この村の人々に影響を及ぼしているようだった。人々の目がうつろになり、顔には感情のない、しかし完璧な「笑み」が貼りついている。

 これは、ただの悪霊の仕業ではない。

 茨木の背筋に、冷たいものが走った。


 頭が痛い。


 茨木は頭を抑えてしゃがみ込む。何度もあの時の悲惨な映像が流れるのだ。


「うゔ〜おばあちゃん……」


 清良は茨木の異変に気づいて身体を支える。


「茨木くん!大丈夫!?」


 そう、声をかけるが清良にも嫌な記憶が脳裏に過った。

 両親が自分に見向きもせず、アイドルとして、商品としか見ていない。一人ぼっちの食事。辛いレッスン。下手くそと何度も怒鳴られた事。


「うゔ……」


 清良も頭をおさえる。


「主、清良様!!!」


 裂帛の声が聞こえた。

 茨木に仕える妖怪達が異変に気付いて戻ってきてくれたのだ。

 直ぐに茨木と清良に駆け寄って来る裂帛に絡繰童子。

 禍刻が時間を緩め、影縫が影を止めることで、一時的に全ての動きを止めさせて、暗示の音を消す。


「主、アイツです!精神科クリニックの時と同じ妖気を感じます!」


 逢魔が出どころを突き止める。太鼓打ちだ。

 逢魔の声に影縫と裂帛が直ぐに動く。しかし、ヤツのほうが上手だ。

 影縫と裂帛が追いかけるが、逃げ足が早く、追いつけるかは分からない。


 時が動き出した会場は、何事も無かったかのように、さっきまでと同じ熱気に包まれる。

 ただ、踊り手だけが(あれ?太鼓打ちは!?)という表情をしていた。

 それ以外は他の楽器の音色もあり、問題なく進行されている。


「茨木、清良さん、どうしたんですか!?」


 駆け寄ってくる元真。彼も妖怪に暗示をかけられていたようで、何があったか分からない様子である。

 ただ二人の顔色が悪い事を心配していた。


「すこし、人混みに酔ったみたいだね」

「ごめん、ちょっと休んでくる」


 一旦、人混みを離れる清良と茨木だ。

 元真は二人を心配したが、祭りの役員でもあるため、その場から抜け出すことは出来ず、後ろ姿を見送るのだった。




 二人は近くの河川敷まで降り、足を水に浸す。

 祭りの警備と監視を任せて禍時、逢魔、絡繰童子は置いてきた。


「体調はどう?」

「大丈夫です。清良さんは?」

「うん、大丈夫」 


 お互い一息ついて、体調も落ち着いてきた。


「僕ね、幼稚園の頃、ピアノを習わされていたんだ。母が有名なピアニストでね。でも、僕に才能が無くて、すごく悲しませちゃったんだ。父は俳優だったんだけど、僕、演技の才能も無くてね。あの両親から何でこんな出来の悪い子が出来たんだって、散々言われたよ。レッスンも、勉強も、すごく頑張ったんだけど、全然駄目で、下手くそってなじられて、本当に辛かった。歌の才能が有るって気付いた時もね、最初は良かったよ。母も喜んでくれて、周りも凄いねって言ってくれた。でも、そればっかりになって、僕には歌の才能しかないから、毎日何時間も歌わされた。そうするとね、歌うのも嫌になって、でも、僕は歌しかないから、僕には歌しか価値が無いから……」


 ポロポロと涙を溢れさせる清良は本当に辛そうで、茨木は見ていられなかった。

 強く、抱きしめて背中を擦る事しか出来ない。

 清良はすごく優しくて、温かい存在で、キラキラしていて、周りを明るく照らしてくれる。

 そんな彼がこんなに寂しくて暗いところで一人泣いていたなんて、知らなかった。


「俺は清良さんの事をまだ良く知っているとは言えないかもしれませんが、いつも助けられています。歌はそうだけど、側に居てくれるだけで安らぎます。貴方の価値が歌しか無いと思えません」

「ううん、良いの。歌だけでも僕には価値が有るんだから。歌を歌うのは好きだよ。一時期、ちょっと嫌になっちゃっただけ。反抗期だったのかも」 


 茨木は清良は大事な人だと伝えたくて、口を開いたが、清良には上手く通じていないようだった。


「なんか、嫌な事を思い出して愚痴っちゃった。ごめんね。忘れて」


 清良はハハッと健気に笑って見せる。その笑顔が悲しげに見えたのは気の所為ではないだろう。


「清良さんはいつも我慢しすぎです!頑張り過ぎなんです!俺に休めと言う前に、貴方が休んで下さい。清良さんの代わりは居ないんですからね!両親がどうか知りませんが、少なくとも俺は清良さんが居なくなったら困りますから!!」


 茨木は清良の手を掴む。


「うん、分かってる。きっと、僕と茨木は同じ気持だよ。僕にとっても茨木くんの代わりは居ないよ」


 そう、清良は茨木に微笑みかけるのだった。


「うわっ!」

「えっ、どうしたの!?」


 急に声を荒らげた茨木に驚く清良。


「河童に足を引っ張られたんですよ。駄目だろ、悪戯したら」


 茨木の言う方を見ると、緑の甲羅が見える。


「ヒエッ!茨木くんを連れて行くのはやめて!」


 慌てて茨木の手を引っ張る清良。


「大丈夫ですよ。コイツは悪い河童じゃありません。俺になついてて、じゃれついてるだけです。ん?きゅうりをくれるのか?」


 河童は茨木を心配し、慰めるためにきゅうりを持ってきてくれたようだ。


「ありがとう。清良さんのぶんもくれるのか?」


 河童は二本の瑞々しいきゅうりを茨木に渡すと、泳いで何処かへ消えてしまった。


「どうも俺達を心配して慰めてくれてるみたいです」


 茨木は苦笑して、きゅうりを一本清良に渡した。


「え、ありがとう。きゅうり。美味しそう!」


 ガジっと噛む。コリコリと良い歯ごたえである。

瑞々しくよく冷えたきゅうりは何の味付けがなくても美味しかった。


「きゅうりってそのまま食べても美味しいんだね」


 清良はまた新しい発見だ!と、目を輝かせる。


「やっぱり河童がくれるきゅうりは格別ですね」


 茨木もコリコリときゅうりの歯ごたえを楽しんだ。


「河童くんに捧げるきゅうりの歌〜」


清良は気分を良くし、河童に捧げるきゅうりの歌を即興で作り上げ、披露するのだった。

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