茨木と清良がアパートの中央に差し掛かった時だった。
「主、中から異様な妖気と、異質な空気感、空間の歪みが感じられます」
逢魔が告げに来た。一気に緊張感が高まる。
「影縫、禍刻!」
茨木は影縫と禍刻を呼び寄せ、中にいるものを取り押さえる準備をした。
「入るぞ?」
そう言い、全員と顔を見合わせて頷きを確認すると、茨木は先頭を切って進む。
ペンライトで照らし、より慎重に奥を窺う。この部屋は、かつてはリビングルームだったのだろうか、中央には焼け焦げたような跡が残り、壁の一面が大きく崩れ落ちている。
その崩れた壁の奥、普通なら外が見えるはずの場所に、奇妙な歪みがあるのを茨木は目にした。
それは、陽炎のように揺らめき、向こう側の景色を不鮮明にしている。まるで、そこに透明な、だが密度の違う膜が張られているかのようだ。
「あれは……!」
茨木は思わず声を上げた。清良もその歪みに気づき、息を呑む。
その歪みが、ゆっくりと大きくなっていくのが見えた。そして、歪みが最大限に達した瞬間、そこから黒い、不定形な影がヌルリと姿を現した。それは、まるで液体のように床に広がり、ゆっくりと形を成していく。
影は立ち上がり、二つの光る目を茨木と清良に向けた。それは人間のような姿に似ているが、全体が闇でできており、輪郭は常にゆらめいている。口のような場所には、深く暗い穴があるだけで、何も音を発しない。
だが、その存在から、重圧のような、重苦しい何かが周囲に広がっていくのを感じた。清良が言っていた悲鳴やうめき声は、もしかしたらこの影から発せられているのかもしれない。茨木には声は聞こえない。
「あれが……消えた人々を?」
清良は小声で尋ねた。恐怖で体がわずかに震えている。
「おそらく……。裂帛、絡繰童子!」
茨木が叫ぶと同時に、彼の影から裂帛が飛び出し、周囲の気配を探っていた絡繰童子も走ってくる。
「主!」
「怪しげな妖怪め!」
揃った妖怪たちは、すぐさま戦闘態勢をとる。
「清良さん、後ろへ下がってください!」
茨木は清良を庇うように前に立ち、その黒い影を睨みつけた。この気配は、悪意に満ちているというよりも、もっと根源的な、存在そのものが負の感情の塊であるような、そんな異質さを感じた。
影はゆっくりと手を伸ばしてきた。その指先は、溶かすような、黒い渦を小さく纏っている。触れられたら、ただでは済まないだろう。本能的に危険だと身を引く。
「茨木くん、壁」
清良の背中は壁にあたる。これ以上は下がれない。
「影縫!」
茨木の合図で、周囲の影が生きるように動き出し、黒い影の足元に絡みつこうとする。だが、その影はまるで実体がないかのように、容易くその拘束をすり抜けてしまう。
「禍刻、影縫の援護を」
「やっています!」
「チッ……」茨木は短く舌打ちをした。
普通の妖怪とは違う。時間の歪みや影を操る事ができないのか?
裂帛が何かを思い出したように声を上げた。
「主、このアパート……確かすごく古い言い伝えがありませんでしたか?被害者になったホームレスの人たちも、みんなここを知っていたとか」
茨木の脳裏に、大和刑事から聞いた言葉の一部が蘇る。「取り残された場所」「忘れられた記憶」「消え去りたいという願い」……。
「茨木くん、すごく苦しんでいる声が聞こえる」
清良には目の前の不定形な影から、再び微かな、だが以前よりはっきりとした、多くの苦しみを含んだうめき声のようなものが聞こえる。
歌いたい。歌って救いたい。そう思うのに、歌詞や音色がいつものように降りて来ない。付け焼き刃ではあるが、「ラララ」と既存の歌を歌ってみるしかなかった。
裂帛は、この影の正体に、ある程度の見当がついた。
「主、清良さん、あれは恐らく……この場所にとどまり、人々の『消えたい』という願望が集まって生まれた、**感情の残滓(ざんし)**です!」
「感情の残滓……」
清良は裂帛の言葉を反芻するように呟いた。
目の前の黒い影は、物理的な存在というより、この場所に渦巻く人々の負の念が形を成したもの。それゆえに、影縫の拘束も、実体のないがゆえにすり抜けてしまったのだろう。実体がないということは、影もないのだ。
「大和刑事の言っていた『消え去りたいという願い』と……この場所の『言い伝え』」
茨木は、大和から聞いた話を思い出す。消えたホームレスの共通点は常々『消えたい』と周りに話ていたと。
「禍刻、この場所の過去の記憶を探れるか?」
「やってみます」
茨木は黒い揺らめきとの対峙を一時中断する。裂帛が物理的な攻撃を仕掛けているが、駄目だ。黒く揺らめき、全く通じていない。
今は5匹で協力して作る強い結界で取り押さえている状態だ。
刀で切るという方法もあるが、悪意のある妖怪ではないために躊躇ってしまう茨木。
しかし、清良の「ラララ」という歌声も全く通じている様子はなかった。
切るしかないのか?
「……古い時代に、ここで多くの人が、望まない『隠された生』を送っていたようです。表に出られない、忘れられた存在。そして、彼らがひそかに、この場所から『消えてしまいたい』と願っていた……そんな、深い悲しみと、諦めの感情が、この場所にずっと溜まっていたようです」
禍刻が見えたものを説明する。
このアパートがかつて、日陰の存在として生きる人々、世間から隠れるように暮らしていた人々がいた場所だったことを示唆していた。例えば、明治・大正時代の被差別民や、戦後の混乱期に身を隠した人々など、歴史の闇に葬られた存在かもしれない。
逢魔が鋭い声を上げた。
「主!この感情の残滓……ただの負の念ではありません!その奥に、外から加えられた、別の『暗示』の波動を感じます!微かですが、あの精神科クリニックの妖気と似ています!」
逢魔の報告に、茨木はハッとした。
やはり、あの鬼が関わっているのか。太鼓打ちの姿を借りて祭りを襲った鬼が、この「感情の残滓」を利用している、あるいは操っている可能性が高い。
「なんだと!?」
茨木は表情を引き締める。
「茨木くん、駄目だ」
清良の声も届かない。
ただの感情の塊であれば、清良の歌声や、自分の力で浄化することも可能だったかもしれない。しかし、そこに外部からの「暗示」が加えられているとなると話は別だ。それは、この残滓をより強力に、そして悪意を持って動かしているということになる。
鬼め、確実に俺たちの動きを封じに来ている。
眉間に皺を寄せる茨木。
黒い影は、相変わらずゆらゆらと揺らめきながら、茨木たちに向かって、その手をゆっくりと伸ばしてくる。その手からは、今にも全てを無に帰すような、凍てつく冷気が発せられていた。
「どうする、茨木くん!このままだと……」
清良が焦れたように言った。この感情の残滓は、人の心を蝕む力を持っている。このままでは、また自分たちも自身の過去の悲しみや絶望に囚われてしまうかもしれない。