東京に戻って数日、清良はやはり多忙な日常の渦に飲まれていた。連日続くレコーディングやテレビ出演、雑誌の撮影。茨木には「セーブしろ」と口うるさく言われるが、世間は清良を必要としていた。
ほんの少し休暇を取っただけだというのに、SNSでは「清良、歌声を失い鬱に」「失踪、富士の樹海へ」「錯乱し、病院へ」など、適当な話にさらに尾ひれがつき、最終的には「死んだ」にまでなっていた。
ちょっと見ないだけで殺さないでほしい。
たった3日、仕事をセーブして休んだだけだというのに、めったなことで休めないなと清良は改めて思う。SNSでは「清良見れないの耐えられない」「朝の生番組、どこにも清良がいなかったの鬱」「清良の声聞かないと一日が始まらないよ」など、清良がいないことを悲しむ声も多く見られたため、余計に休めないと感じていた。
必要とされているのはありがたいことだ。頑張ろう、と清良は気を引き締めた。それに、あの寺での静かで穏やかな日々は、彼の心に深く刻まれている。
時折、ふと茨木との他愛ない会話や、村の祭りの熱気が脳裏をよぎり、清良は小さく微笑むのだった。
一方、茨木もまた、いつものように清良のマネージャー業務と、裏家業である妖怪退治の板挟みに追われていた。故郷で出会った『暗示』を操る鬼の存在。妖怪たちには捜索と監視、妖気の察知を頼んでいるが、今のところ良い知らせは届いていない。これ以外にも茨木の心には九尾の言葉や、清良の隠された過去が重くのしかかり、思考を巡らせる。清良を守るという使命は変わらないが、その奥に、もっと個人的な、深い絆が芽生えているのを茨木は感じていた。
そんな、少しばかり平穏な日々が続く中、茨木のスマートフォンが珍しく鳴った。表示されたのは、登録していない番号だ。訝しみながらも電話に出ると、聞こえてきたのは、少し疲れた様子の声だった。
「もしもし、茨木さん、でしょうか?警視庁の、大和ですが」
大和刑事。過去に何度か、奇妙な事件で協力したことのある相手だ。彼から連絡があるということは、警察では手に負えない、「あの手の」事件が起きたに違いない。
「お久しぶりです、大和さん。何かありましたか?」
茨木が問うと、大和はため息を一つ吐いた。
「実は、最近、奇妙な事件が続いているんですよ。とある区の廃墟群や、古い地下道があるエリアでね。ホームレスの方々が、立て続けに姿を消しているんです」
茨木は眉をひそめた。行方不明事件は珍しくないが、大和刑事がわざわざ自分に連絡してくるということは、何か裏があるのだろう。
「ただの家出や、夜逃げではないと?」
「ええ。最初はそう思ったんですがね。消えた場所には、寝床に使っていた毛布も、僅かな所持品も、何もかもが綺麗さっぱり無くなっているんです。まるで、そこに最初から何も存在しなかったかのようにね。防犯カメラにも、人が出入りするような映像は残っていない。何というか……空間が、そこだけ切り取られたような不気味さでして」
大和の声には、明らかに困惑と疲労が滲んでいた。警察の常識では説明のつかない現象に、彼は途方に暮れているのだろう。
「なるほど……」
話を聞くに、確かに人間の仕業や本人の意志でいなくなっているわけではなさそうである。空間が切り取られてしまうとは……。
「ええ、茨木さんなら、何かご存じかと思いまして」
大和は直接「妖怪」という言葉を使わないが、その意図は明白だ。茨木は考え込む。歌声や暗示とは違う、「空間」や「消失」に関わる妖怪。
以前の事件とは異なる気配を感じた。
「分かりました。少し、調べてみましょう。清良さんのスケジュール次第ですが、近いうちに現場に向かいます」
茨木は電話を切ると、すぐに清良の今日の予定を確認した。幸い、午後からはオフだ。事件内容的にも一人で行っても良いとは思ったのだが、以前、無断で行動して清良に怒られたことを思い出しての判断だった。
午後、予定通りに仕事をこなした清良は茨木の事務所に来る。もう、ほとんど彼もここに住んでいるような状態になりつつあった。
「清良さん、少し、お願いしたいことがあるのですが」
茨木の言葉に、清良は訝しげに首を傾げた。
「どうしたの、茨木くん。何かあった?」
「はい。警察から連絡がありまして。どうやら、都会の隙間で、また新たな事件が起きているようです」
茨木は、消えた人々とその痕跡について、清良に簡潔に説明した。清良は真剣な表情で耳を傾け、やがて静かに頷いた。
「分かった。僕も行くよ。誰かが困っているなら、放っておけない」
清良の瞳には、先ほどの疲れは見られなかった。そこに宿るのは、迷いのない、確固たる決意の光だった。
都心から少し離れた、地図上には存在するものの、どこか空気のよどんだ、古びた住宅街。そこには、忘れ去られたように打ち捨てられたアパートや、錆びついたシャッターが降りたままの商店が並び、都市の深い部分に隠された「隙間」のような場所が広がっている。
「ここだね……」
清良は、茨木に示されたスマートフォンの地図と目の前の光景を見比べて、思わず息をのんだ。写真で見るよりもはるかに荒廃している。日中だというのに薄暗く、人気がほとんどない。建物の壁には不気味な落書きが目立ち、壊れた窓ガラスが空虚な目をしているようであった。
「異様な雰囲気だね。さっきまで感じていた、街の賑やかさが嘘みたい……」
清良は顔をしかめる。彼の敏感な感覚は、この場所が持つ「淀み」を捉えているようだった。
「ええ。こういう場所は、人の念が溜まりやすく、妖怪が住み着きやすいんです。特に、人の『諦め』や『絶望』のような感情がね」
茨木は慣れた様子で周囲を見回す。以前の「暗示」を操る鬼とは違う、だが確実に存在する妖気を感じ取っていた。それは、直接的な悪意というよりは、ジメジメとした、底なし沼のような陰の気配だった。
「警察に言われた消失現場は、この辺りだと。清良さんはここで待っていてください。俺は少し中を見てきます。何かあったらすぐに連絡しますから」
茨木はそう言って、一番近くにあった、ひときわ大きく朽ちたアパートの入り口に足を踏み入れようとした。しかし、清良が彼の袖を軽く引く。
「僕も行くよ。ここに一人でいる方が怖いし。それに、何かあったら僕も力になれるかもしれない」
清良の真剣な眼差しに、茨木は迷った。彼の身を危険に晒すわけにはいかない。だが、この場所の妖気は、清良の敏感な感覚に良くない影響を与える可能性もある。
「……分かりました。ですが、決して俺から離れないでください。そして、何か感じたらすぐに教えてください」
茨木は観念し、清良と共にそのアパートの中へと足を踏み入れた。
中はさらにいっそう暗く、埃とカビの匂いが鼻を衝く。足元にはゴミが散乱し、天井からは錆びた配管が剥き出しになっている。
「足場が悪いですね。清良さん、気をつけて下さい」
ペンライトを片手に茨木は清良に注意を促す。清良も足元をペンライトで照らしながら注意して進んだ。
「影縫(かげぬい)!」
茨木が呼ぶと、彼の影から影縫が姿を現す。
「はい」
「この建物の奥、そしてこの周辺の廃墟を調べてくれ。人が消えた痕跡や、奇妙な『空間の歪み』のようなものを感じるかもしれない。何かあればすぐに知らせてくれ」
影縫は主の命に、素早く闇の中へ溶け込む。続けて、茨木は残りの妖怪たちにも指示を出す。
「絡繰童子(からくりどうじ)、お前は建物の構造や、外部からの侵入経路を確認してくれ。逢魔(おうま)、この辺りに、今回の消失事件に関わるような強い妖気はないか、広範囲で探ってくれ。禍刻(かとき)、何か異変が起きたら、時間操作で動きを止める準備を頼む。裂帛(れっぱく)は、俺達の周囲を警戒して、不意打ちに備えてくれ」
茨木は、各自の能力を最大限に活かすよう指示を飛ばす。彼ら妖怪の存在が、この手の事件を解決する上で、どれほど頼りになるかを知っているからだ。清良は、そんな茨木の姿を隣で見ていた。彼が指示を出すたびに、妖怪たちがそれぞれの特性を活かして動き出す。それは、まるで精鋭部隊を率いる指揮官のようだった。
(茨木くん、やっぱりすごいな……)
清良は改めて、茨木の冷静な判断力と妖怪を束ねる強さを実感する。そして、彼の指揮の下、妖怪たちがこの都会の闇に潜む真実を暴き出してくれることを願った。