夜の河原には、ぽつぽつと人影があった。浴衣の子どもたちが走り回り、家族連れやカップルがシートを広げて花火を待っている。ざわめきと笑い声が、夏の夜にやわらかく溶けていく。
伊坂と葛西は、ひと通り屋台を巡ったあと、少し離れた静かな場所に腰を下ろしていた。
焼きそばとたこ焼き、そしてラムネの瓶。祭りらしい香りが、夜風に乗って二人の間を行き来している。
「金魚すくい、全然すくえなかったですよ。三枚で全部失敗って……」
「いや、あの網の張り方は悪質だ。詐欺に近い」
「ひどいな葛西さん、詐欺とか言っちゃって」
他愛のない会話。けれど、それが妙に心地いい。何も考えずに笑い合える時間が、まるで永遠に続くように思えた。
空を見上げると、夜の帳が完全に降りていた。次の瞬間――ドン、と腹の底に響く音。夜空に、光の花がひとつ咲いた。
「……綺麗ですね」
「ああ」
並んで座るその距離は、いつもよりほんの少しだけ近かった。伊坂は、花火の光を受けている葛西の横顔をちらりと見る。
そのときだった。葛西がふと視線を落とし、静かに口を開く。
「なあ、伊坂」
「はい?」
「……俺、今夜でこの街を出る」
その一言は、夏の風とは違う冷たさを持っていた。
「え……? 急にどうして?」
伊坂は一瞬、意味がわからなかった。
何かの冗談だと思ったが、葛西の顔には笑みがなかった。代わりに、どこか遠くを見るような目をしていた。
「もともと、ここには少しだけいる予定だったんだ。いや――“いさせてもらってた”って言った方が正しいかな」
言葉の意味が、頭の中でからまり合う。
伊坂は立ち上がり、葛西の顔をまっすぐ見つめた。
「意味が、わかりません……。どういうことですか……?」
葛西もゆっくりと立ち上がる。
夜風がシャツの裾を揺らし、背後で次の花火が咲いては消える。その一瞬、彼の顔が光に照らされた。
「俺は――未来のお前だよ」
伊坂は、その場に凍りついた。
鼓動が、ひとつ跳ねる。
冗談として笑おうとしたが、喉が動かない。
否定したいのに、なぜか心のどこかが「そうかもしれない」とつぶやいていた。
「な、なに言って……」
「名前、気づいてなかったか?
「……!」
胸が強く波打った。
今までのやり取り、通じ合いすぎる感覚、癖や考え方、趣味。
思い返せば返すほど、そこに違和感はなかった。むしろ、あまりにも自然だった。
「俺は、少しだけ昔の自分に会いたくなってさ。どうしても伝えたかったんだよ。お前は、お前のままでいいって」
伊坂は、何も言い返せなかった。
葛西の言葉が、真っ直ぐ胸に入ってくる。
そのひとつひとつが、心のどこかでずっと欲しかった言葉だった。
葛西は少しだけ、苦笑のように口元をゆるめる。
「俺はずっと、自分を否定して生きてきた。趣味のせいでバカにされたり、夢を笑われたりするたびに、少しずつ自分を捨てていった。でも、お前に会って気づいたんだ。捨てる必要なんてなかった。あのころのままで、よかったんだって」
未来の自分の告白に、伊坂はただ頷くことしかできなかった。
言葉が出ない。でも、確かに胸の奥が震えていた。
「俺はもう行くけど、お前なら大丈夫だ。ちゃんと、自分を大事にできる」
そう言って、葛西はふっと笑った。
その背後に、ゆらりと空間が歪む。まるで水面のように揺れる空気。そこには確かに、現実とは異なる“向こう側”があった。
伊坂は言いたいことがたくさんあった。
感謝も、驚きも、寂しさも、全部。
でも、喉の奥にひっかかって、どうしても言葉にならなかった。
だから、たった一言だけ。
「心配しないで。未来の俺」
その言葉に、葛西はほんの一瞬だけ目を見開き――そして、穏やかに、満足げに笑った。
「それなら、安心だ」
片手を軽く振って、彼はゆっくりと歪んだ空間の中へ歩き出す。その背中は、まるで未来へ向かう誰かのようだった。
最後の花火が、夜空に大輪の花を咲かせた。
そして、葛西の姿がゆっくりと消えていく。
誰もいない河原に、伊坂はひとり立ち尽くしていた。
けれど、その顔には、もう迷いはなかった。
自分が誰で、何が好きで、どこへ向かうのか。それを、自分の足で選んでいけるという確信だけが、そこにあった。
――この夏、未来と出会って、ようやく自分になれた。