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第6話 承認欲求、忍び寄る過去


 頬に柔らかな感触と、微かな揺れを感じた。そうだ。吐き戻した後、俺はどうなったんだ。


 目を開けると、視界いっぱいに広がるのは、イレーヌの心配そうな顔だった。どうやら、彼女は自分の膝の上に俺の頭を乗せ、膝枕で様子をみてくれたらしい。


 彼女の顔が見えないくらい出っ張った豊かな双丘が視界に入り、流石に顔が熱くなるのを感じた。


「フズリナ! 大丈夫!? ごめんなさい、あたし、フズリナが気分悪くなっちゃったの、あたしのせいだって……!」


 イレーヌは瞳を潤ませ、心底申し訳なさそうな顔をしている。俺が魔族の過激な配信を見て気分を害したとは、思っていないのかもしれない。


 彼女の純粋な優しさに、胸に注目してしまったことへの申し訳なさが込み上げてくる。


「いや……大丈夫だ。俺の、ただの体調不良だから。気にしなくていい」


 そう言って起き上がろうとする俺を、イレーヌはそっと押し留めた。彼女の表情から、それまでの無邪気さが消え、戸惑いと、そして微かな後悔の色が浮かんでいるのが分かる。


「ごめんなさい、フズリナ。あたし、こんなに気分が悪くなるなんて、全然知らなかった……。魔族にとっては普通だけど、人間にとっては……」


 彼女は、自分の手で口を覆い、俺の顔を緑色の瞳でじっと見つめていた。


「あのね。本当にごめんなさい。私、フズリナが倒れた瞬間、あなたの感情を食べちゃったの。フズリナの苦しさが伝わってきて」

「だから……気にしないで、本当に」


 起き上がろうとすると、イレーヌの手が伸びてくる。


「まだ寝てなさい! あたし、ダンジョンマスターだから、こういう時くらい役に立たないと!」


 ダンジョンマスターは、そういうことしないと思うけど。


 だが、彼女の温かい膝の上で、俺はしばらく身動きが取れなかった。心地よさと、どこか罪悪感が混じり合う複雑な感情。そして、彼女が昨晩提示してきた、あの多額の報酬のことを思い出す。


「あのさ、イレーヌ」


 俺は、報酬は受け取れないと伝えた。イレーヌは目を丸くして、俺の顔をじっと見つめた。


「どうして? こんなに稼いだんだから、フズリナがダンジョンを出て、借金も……」


 あっ、とイレーヌが口を押える。


「……見たのか? 夢で」


 夢魔である彼女なら、ありうることだ。ぞっとするものが背筋を伝うが、同時に話しが速いとも思えた。


 俺には、その報酬を受け取る資格がない。いや、受け取るべきではないのだ。あの金は、俺の過去を清算してくれるわけではない。むしろ、新たな泥を塗ることになりかねない。


 イレーヌは、困惑しながらも、やがて悲しそうに目を伏せた。


「……フズリナの夢、すごく悲しい味がした……。だから、借金が返せたら、あんな夢を見なくなるかと思って」


 彼女がそう呟いた時、俺の胸がズキリと痛んだ。この心に巣食う悲しみを、彼女は俺と同じくらい強く感じ取ってしまったのだろうか。


「イレーヌからの報酬は、受け取れないよ。でも、配信で得た増えた報酬はもらうからさ……」

「……なら、これからも協力する!」


 翌日からも、イレーヌは俺の配信に積極的に参加してくるようになった。魔族とのつながりができた俺を、ダンジョンマスターとして支援する、ということらしい。


 彼女の狙いは的中し、彼女目当ての魔族たちがRktubeから大挙して押し寄せ、俺の配信は常に大盛況だった。しかし、その賑わいは、長年俺の配信を支えてきた地球の常連視聴者にとっては、苦痛そうだった。


『フズリナさんのコメント欄、濁流だぁ』

『なんか、雰囲気が変わったなー』

『昔の配信、ちょっと懐かしいかも』


 そんなコメントが流れるたび、俺の胸は締め付けられた。彼らは、俺がどん底にいた時から、何も知らないまま、ただひたすらに応援し続けてくれた恩人だ。借金のことも、何か事情があると察してくれたような人たち。


 時には、配信の機能で『投げ銭』までくれた。


「みんな……本当に、ごめん」


 配信の最後に、俺はカメラに向かって深々と頭を下げた。顔はみせられないけど、精いっぱいの謝意を示したかった。


 すると、コメント欄が一時停止したかのように静まり返り、やがて温かいメッセージが流れ始めた。


『フズリナさん、謝らなくていいよ』

『俺たちはフズリナさんの地道に頑張る姿が好きだったんだ』

『フズリナさんのこと、ずっと応援してきたんだから、何か事情があるんだろうって分かってる』

『フズリナさんの平和な日常が、ずっと続いてほしいんだ。だから、その謝罪はいらないから、いつも通りでいてくれ』


 心臓の奥が、きゅう、と痛くなる。彼らは、俺の過去を知らない。


 ただ、黙々と採掘を続ける俺の姿に、何かを感じてここにいてくれた。どんな些細なきっかけでもいい、彼らは間違いなく俺を応援してくれていたのだ。彼らの優しさが、俺の胸に温かく染み渡った。



===



 そのころ。


 ダンジョン【石櫃】から遠く離れた都会の片隅で、バズり続けるフズリナの配信を見つめる一人の女がいた。


「まさか、あの男が……こんなところで、のうのうと生きていたとはね」


 彼女の顔に浮かんだのは、歪んだ笑みだった。斎藤澄玲。彼女は、かつての栄光を失い、見る影もなく荒れ果てた生活を送っていた。


 最高裁まで争った裁判で得た慰謝料は、ホストクラブで散財し尽くした。もともとのホスト狂いが祟って、職場である弁護士事務所の金を横領していたことが発覚。既に弁護士資格も剥奪され、借金まみれの転落人生を送っていた。


 天谷時哉と出会ったのは偶然だった。職場で生真面目に働く彼を自身の顔で落とし、都合の良いATMとして使いつぶそうと思いついたのもつかの間。


 時哉は、まったく澄玲を見ようとしなかった。それどころか「今は恋愛なんて考えられない」とまでいった。


 私が声をかけてるのに何様のつもり!?


 そう思って行動した痴漢でっちあげは、とんでもなくうまくいった。世間を煽ったのも澄玲自身、涙ながらの記者会見は多くの人の正義に向けて突き動かした。


「でもこれなら……まだ使えるわね、あの男は」


 彼女の冷たい眼差しが、スマートフォンの画面に映るフズリナの姿を捉える。


「フフ……今度こそ、徹底的に絞り取ってやるわ。私の人生を狂わせた、あの忌々しい男から、全てを」


 彼女の歪んだ認識は、異様な行動力を産み出す。そしてすぐさま、彼女はSNSの新しいアカウントを取得して、コメントを投稿した。


『フズリナってやつ、ダンジョンに引きこもるのも、後ろめたいことがあるからだろ。というかこの声、10年前の最高裁まで痴漢冤罪だって争った奴じゃね?』


 丁寧に時哉の声がのった動画を添付する。その声は、配信の時哉の声と雰囲気は全く違うが、音声解析にでもかければ同一人物と判明するはずだ。


 ぴこん、と音が鳴る。それは、正義と悪意が入り交ざる、拡散を知らせる合図だった。


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