分厚い雲が夜空を覆い、星明りも心許ない新月の夜。絢爛豪華な邸宅の一室では、ランプの薄明りの下でも分かる陶磁器のような透き通った肌に、性別問わず道行く人々を振り向かせる程美しい容姿の令嬢が、濃紺のソファーに背中を預け、膝の上の黒猫を撫でている。緩やかなウェーブがかった長いブロンドを、老齢の乳母が丁寧に梳かしながら優しい声色で令嬢の名前を呼んだ。
「カメリアお嬢様」
カメリアは警戒心なく丸まっている黒猫の背中を撫でながら短い返事をした。
「何、ばあや?」
「アルは、よっぽどお嬢様のことがお好きなのですね」
カメリアはふっと笑みを漏らし、黒猫の顎を撫でると、気持ちよさそうに顎を持ち上げた。艶やかな毛に隠れていた赤い首輪と、“AL”と刻まれたシルバーの鈴が露わになり、チリンと小気味よい音が鳴った。
「私もアルのことは好きよ。もちろん、ニーナのこともね」
ニーナは櫛を動かす手を一瞬止め、目じりと口許の皺を深くして笑みを浮かべた。
「ありがたきお言葉です」
「牢獄のようなホワイトリバー侯爵家で、あなたは私の唯一の味方なのよ」
「カメリア様……」
ニーナは薄っすら目に涙を浮かべ、櫛をエプロンのポケットにしまうと目尻を拭った。アルが前足をカメリアの手の甲に置き、真っ赤な瞳を丸くしてじっと見上げた。
「ふふっ。嫉妬でもしてるのかしら」
カメリアはアルの前足をどかし、人差し指で鼻先をちょんと突く。
ニーナはカメリアの足元にひざまずき、じっと顔を覗き込んで安堵の笑みを浮かべた。
「ああ、お体の傷も、お心も癒えたようで、ニーナは安心しました」
「あの時は、心配をかけたわね」
「奥様とお嬢様が馬車の事故に遭われたと聞いて、心臓が止まるかと思いました。……奥様は残念でしたが」
ニーナは顔を伏せ、肩を落とした。カメリアは未だに膝の上を占拠しているアルをカーペットの上に下ろし、ニーナの両肩にそっと手を乗せた。
「顔を上げて。きっとお母様が身を挺して助けて下さったのよ。それにもう半年も前のこと。お父様も、ルイーズ様も、ヴィオレッタも、誰も悲しんでないわ」
ニーナが顔を上げると、微笑みながらも、氷のような冷たいスカイブルーのカメリアの瞳に射抜かれ、体が硬直した。
「ミャ~オ」
長い尻尾をゆらゆら左右に動かしながらカメリアを見上げて鳴くアルの声に、ニーナははっと顔を上げ、目に涙を浮かべて声を震わせた。
「私はカメリア様の味方でございます。カメリア様が涙を流されない代わりに私が涙を流します」
「ありがとう、ニーナ。心強いわ」
「旦那様は本当に薄情ですわ。美しい奥様がいらっしゃったのに、愛情を注いだのはめか……いえ、第二夫人のルイーズ様とそのご令嬢のヴィオレッタ様だけ。奥様の葬儀の後すぐに、奥様の部屋をルイーズ様にあてがい、ヴィオレッタ様の部屋をカメリア様のお部屋より広い所へ移されるなんて!」
ニーナはエプロンのポケットから取り出した白いハンカチーフの端をぐーっと噛みしめた。
「お父様とお母様には、最初から愛情なんてひとつもなかったじゃない。政略結婚は貴族令嬢の義務。私にもその義務がある」
ニーナは俯くカメリアに同情の眼差しを向け、噛みしめていたハンカチで目尻の涙を拭った。
「いえ、あったのよ」
カメリアがふっと笑みを漏らし、小さく呟いた。その時、コンコンと部屋のドアをノックする音が聞こえた。ニーナはハンカチをポケットにしまい、さっとドアの前に移動して扉を開けた。
「ヴィオレッタ様」
ニーナに目もくれず、紫がかった髪を高いツインテールに結んだ小柄なヴィオレッタは、大股で部屋の中に入り、カメリアの向かいのソファーに腰を下ろす。ヴィオレッタと向き合ったカメリアの膝の上にすかさずアルが飛び乗って来た。
「お姉様、まだそんな薄汚い猫を飼っていらっしゃるの?」
カメリアはドアの前にいるニーナに声をかけた。
「ニーナ、今日はもう下がっていいわ。おやすみなさい」
「はい。おやすみなさいませ」
ニーナは一礼すると静かにドアを閉めて去って行った。
「私よりも使用人が優先なのかしら?」
細い眉をピクッと動かすヴィオレッタに、カメリアは小さく溜息をついてアルを撫でながら問いかけた。
「こんな時間に何の用? お子様は寝る時間よ」
「一つしか違わないじゃない。子供扱いしないでほしいわ」
膝の上で握りしめた拳を震わせて口を尖らせる。
「用がないなら寝なさいな」
「あるからわざわざ来たのよ。さっきお父様から聞いたの。この間お姉様に婚約を申し込んだストーナ侯爵家のご令息が、婚約を破棄するって仰ったそうよ」
ピンク色の薄い唇をニヤッと引き上げ、腕と足を組んでソファーの背もたれに背中を預けた。
「おかしいわねえ」
「何がおかしいのよ? お姉様のこれまでの婚約相手を見たら当然のことじゃない」
「私は、過去に一度も婚約者に会ったことはないのよ。どうして皆さん、私に会う前に婚約を申し込んで、すぐに破棄したがるのかしら。不思議ねえ」
「そんなの決まってるじゃない。お姉様が呪われているからよ。これまで婚約を申し込んだ令息は、事故に遭ったり、強盗に襲われたり、邸宅に放火されたり、全員不運な目にあったじゃない。ああ、可哀そうなお姉様。呪われているせいで実の母も事故で亡くして、嫁ぎ先も一向に決まらないなんて。私の方が先に嫁ぐだろうってお父様に言われたわ」
「そう。良かったじゃない」
平然とした顔で微笑を浮かべながら、アルの背中を撫で続けるカメリア。ヴィオレッタは頬を紅潮させて唇をギュッと噛みしめてカメリアを睨みつけ、ソファーから立ち上がった。
「余裕の表情をしていられるのも今の内よ。お姉様より私の方が優れているんだから。私の方が、お父様からもお母様からも愛されて、たくさん求婚もされているのよ。お姉様は何一つ手に入れることはできないわ」
ヴィオレッタは言い捨てると大股でドアまで移動し、勢いよくバタンとドアを閉めた。
廊下に出たヴィオレッタはドアを背にしてにやりとほくそ笑んだ。
「私がぜんぶ奪ってあげる」
ランプの仄かな灯りに照らされてできたヴィオレッタの影が、ゆらっと動いた。
静まり返った室内で、カメリアはソファーから立ち上がり、レースのカーテンの下りた窓際から暗闇の外を見つめた。アルはぴょんと天蓋付きベッドに飛び乗り、ぐーっと伸びをした。
カメリアは振り返り、一歩一歩アルの方へ近づいていく。
「レディのベッドに入るなんて、はしたない猫ちゃんね」
アルの姿が黒い霧に包まれていく。カメリアがベッドの端に腰掛けた時には、黒猫の姿は消え、代わりにベッドに肩肘をついて寝転んでいる短髪の黒髪の男が現われた。袖がふくらんだ黒いシャツに、黒のパンツというラフな平民の出で立ちをしている。シャツの胸元の紐を結ばずに開けっぴろげになっていて一見だらしないが、赤い目が印象的な人間離れした超絶美形で、魅惑的な雰囲気を醸し出している。
「オレのこと、好きなんだろ?」
「アルは、って言ったの。
カメリアは人差し指を伸ばし、男の首につけられている真っ赤な首輪の鈴をチリンと鳴らした。