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第2話

激しい雷雨のなか馬車に乗っている6歳のナディアは、ただならぬ雰囲気を感じ、隣に座る母のエヴリンに抱きついた。エヴリンはナディアの背中を優しくさすった後、鞄から少女の絵が描いてある赤い表紙の本をナディアに渡した。


「ナディア、これをあなたに渡しておくわ」


「お母様が描いてくれたの?」


「そうよ。大切にしてくれる?」


「もちろんよ。お母様の作るお話、大好きだもの」


嬉しそうな顔で本をぎゅっと抱き締めるナディアを、エヴリンは泣きそうな顔で無理矢理笑顔を作って見つめた。


「この中に私達の絵が挟んであるの。それも失くさないように大切にしてね」


「うん。ありがとう、お母様」


「いい子ね」


エヴリンはナディアの頭を撫でるとすっと立ち上がった。


「ナディア、少し目を閉じていて」


ナディアは言われるがまま目を閉じる。母が文字を書く時のリズムの良い音が聞こえてきた。

ナディアは一瞬光に包まれ、光がおさまると髪の色が、黒から白髪に変わった。


「えっ! なんで? 私の髪の色、変だよ!」


目を開けて自分の髪色が変わったことに気付いたナディアは泣きそうな顔をする。


「ごめんね」


エヴリンが抱きしめた時、突如馬が悲鳴に近い泣き声をあげ、馬車は止まってしまう。椅子から転げ落ちそうになるナディアを受け止めたエヴリンは、用心深く窓の外を窺う。


「シュペルツ騎士団! もう追いついたのね」


剣と怒号が雨音に交じって耳に響いてくる。


「お母様、怖いよ」


ナディアは耳を抑えてエヴリンにしがみつく。エヴリンはナディアを強く抱き締めた後、向かいの席に座らせ、冷たくなった手でナディアの頬を包みこんだ。


「ナディア、ここでお別れよ。あなたを連れていては、逃げきれないわ。ここにいたら、お父様が探しに来てくださるはずよ」


立ち上がり、馬車を出ていこうとするエヴリンの手を、涙を流したナディアは必死に掴んだ。


「待ってよ、お母様、置いてかないで!」


エヴリンは唇を噛み締めて涙をこらえ、ナディアの手を振り払う。顔を背け、震える声で怒鳴った。


「分からない子ね! 足手まといになるあなたを連れて森の中に逃げたら、捕まってしまう。私はあなたを捨ててひとりで逃げるの! 」


「お、お母様、何で、そんなこと言うの…?」


「私のことは忘れて。絶対に追いかけてきてはだめよ!」


エヴリンは馬車を降りて、振り向かずに言い放ち、森の奥へ駆けて行った。


「あそこだ! 奥様、お待ちください!」


追ってきた数人の騎士がエヴリンの方へ駆け出していく。


「お母様! 待ってー! 置いていかないで!」


ナディアは馬車を降りて、騎士に追いかけられている母の方へ走り出した。


エヴリンはナディアの声が聞こえた気がしたが、立ち止まらずに走り続けた。傷ついた表情で涙を流すナディアの顔が頭から離れす、エヴリンの目からは次々と涙がこぼれていく。


無我夢中で走っていたエヴリンは、道が途切れていることに気づいて立ち止まった。底が見えない断崖絶壁を背に、追いついた騎士達がじりじりと迫ってくる。


「お母様!」


「ナディア?!」


突然、ナディアが茂みから顔を出し、エヴリンを見つけて駆け寄ってくる。先頭にいた騎士がナディアを捕まえようとするが、エヴリンが騎士に体当たりをして、ナディアの前に両手を広げて立ちふさがった。


「どうして追ってきたの!」


エヴリンは振り返らずにナディアを叱責した。


「だって、お母様と離れたくないもの!」 


ナディアは母の腰にしがみついた。


「あなたを捨てるって言ったじゃない!」


「でも、守ってくれたわ。私、お母様のこと大好きよ」


「ナディア……」


エヴリンがナディアの方を振り向こうとした時、豪雨の影響でもろくなった地盤がぐらつき、ナディアとエヴリンの近くの地面にひびが入った。


次の瞬間、地面が崩れ落ちていき、ナディアが落ちそうになる。

エヴリンが咄嗟に引き上げて茂みに突き飛ばしたおかげで、ナディアは助かった。

だが、エヴリンは逃げる間もなく崖の下へと吸い込まれるように落ちていった。


「お母様―!」


ナディアが叫びながら崖の下を覗く。


「ナディア!」


ピカッと雷が強く光り、腕を伸ばして自分の名前を呼ぶ母の顔がナディアの目に映った。ナディアは必死に腕を伸ばすが母の手に触れることはできなかった。


母の死を境に、ナディアの生活は一変した。

父のサーブル・シュペルツ侯爵からは「エヴリンは他の男のところに逃げようとしていた。我が騎士団に追われて、足手まといになるお前が疎ましくなったんだろう。特別な力を持っていたエヴリンは、力をお前に渡すことなく、お前を呪った。その証拠に髪の色が亡霊のように白髪になったではないか。お前が呪いで母親を殺したんだ。自分がかけた呪いのせいで死ぬとは愚かな女だ。呪われたお前は身を潜めて生きていくしかない。家に置いておくだけでもありがたいと思え」と言われ、父の言葉はナディアの心を縛り付けた。


エヴリンの死の翌月、ナディアを更にどん底に突き落とす訃報が入ってきた。家族で船に乗って外国に渡ったはずの唯一の友人の死を父から知らされ、「お前と関わったせいで死んだのだ。お前は誰からも愛されてはいけないし、愛してもいけない。気味の悪いやつだ」と嘲笑われた。


シュペルツ侯爵はその後すぐに、愛人のライラと、ライラとの間に生まれていたタリアを、正妻と侯爵令嬢として侯爵家に迎え入れた。


ナディアは屋根裏部屋に移動させられ、父からは亡霊のように見えない存在として扱われ、言葉を交わすことも、顔を合わせることもなくなった。義母と異母妹からは使用人のようにこき使われるようになった。


使用人達も「亡霊様」となるべく関わらないよう遠巻きにするようになり、タリアの嫌がらせもあって、服も食べ物も満足に与えられなかった。

それでも、エヴリンが生きていた時に、お嬢様と慕ってくれていた侍女や、厨房の使用人が親切に仕事を教えてくれ、お古の使用人服ももらえた。しかし、それがライラとタリアに気づかれると、その使用人達は皆追い出されてしまった。


2年前に使用人として来たソフィーだけが何故かナディアのことを令嬢扱いし、味方になってくれている。シュペルツ侯爵が懇意にしている貴族からの紹介状を持ってきたため、ライラとタリアは簡単に追い出せないのだとソフィーは言っていた。




✳ ✳ ✳ ✳ ✳ ✳ ✳




「お手紙、持ってきました」


ナディアは、トレーいっぱいの手紙をライラとタリアの前に置いた。


「これ全部タリアの求婚状なのね~」


ライラが両手に封筒を持って差出人を見ながら満足そうに頷く。


「さすが私よね。でも、こんなに送られてきても困っちゃうわあ」


赤みがかった茶色の髪をオールバックにまとめあげたシュペルツ侯爵が、普段鋭い眼光を放っているブラウンの目を和らげ、一通の封筒を持ってタリアのもとへやってきた。ナディアは壁際に身を寄せて目を伏せる。


「愛しのタリアよ。この間のパーティーで、ハウゼン男爵が無礼な態度をとったと言っていただろう」


「ああ、お父様! そうなんです。男爵ごときが、侯爵令嬢の私を無視したんですのよ」


「見なさい、その無礼者からこんな物が届いた」


シュペルツ侯爵から封筒を受け取り、手紙を読んだタリアは徐々に表情を明るくしていった。


「なんて書いてあるの~?」


「お母様、さすが私よね。求婚状よ、これ。しかも、婚約期間を飛ばしてすぐ結婚したいって!」


「まあ! 政略結婚の申し込みじゃない。身の程知らずねえ」


「そう言うな、ライラ。爵位は低いが、飲食、ホテル、貿易と手広く事業を成功させている奴の手腕は侮れない。現に、結婚の条件も捨てがたいものがある」


「あら、サーブル様にこれ以上必要なものなんてあるんですの~?」


「金はいくらあってもいいものだ。婚姻関係を結べば、貿易の一事業を我がシュペルツ家に譲り、新しく入ってくる輸入品もいち早く届けるそうだ」


「社交界でも毎回新しい物をお披露目できるのね~」


「そういうことだ」


「それにしてもこの間は無礼な態度をとったのに、とんだ手のひら返しよね~」


「きっと私が愛らしすぎて、緊張して聞こえないふりをしていたのよ。でも、お父様。遊びならお付き合いするのは構わないけど、結婚はもっと爵位の高い方としたいわ。それに、政略結婚なんて嫌だわ」


「当たり前だ。いくら条件が良いからといって、こんなに可愛い娘を男爵ごときに嫁がせるわけがない。お前は皇子殿下に嫁ぐのだからな」


「皇太子殿下ではなく、皇子殿下なの?」


「現皇太子の第一皇子は、いずれその座を下ろされる。そうなれば第二皇子が皇太子になり、ゆくゆくは皇帝陛下になられるのだ」


「じゃあ、皇子殿下に嫁ぐことなれば、将来私が皇后陛下になるのね! きゃーっ、お父様、大好きです!」


「さすがサーブル様。皇族は顔も素敵だから、地位も容姿も完璧ね~」


「だが、政略結婚の条件は捨てがたい。ハウゼン男爵と繋がりを持つチャンスを逃すのも惜しい」


シュペルツ侯爵は一歩、一歩、壁際に向かって歩を進める。

ナディアは自分の方に足音が近づいてくるのを感じて顔を上げた。

10年振りに見る父の顔に、母親の死はおまえのせいだと責められた日のことが蘇って来てヒックと息をのんだ。


「ようやく使い道ができたな。お前を手元に置いておいた甲斐があったというものだ」


「お父様、どういう意味ですか?」


タリアが小首をかしげて問いかけた。


「求婚状には、シュペルツ侯爵家令嬢としか書いていない。こいつも一応は侯爵令嬢だ。タリアの身代わりとして嫁がせる」


ナディアは驚きすぎて声も出ず、ただ目を丸くした。


「でも、お父様、シュペルツ侯爵令嬢といえば私でしょう。私宛の求婚状なのよね?」


「ああ、そうだろうな。だが、お前を嫁がせるわけにはいかないだろう。身代わりだとしても一応シュペルツ侯爵令嬢を嫁がせるんだ。こちらは嘘をついていない。結婚承諾書にサインさえしてしまえば、取引は成立。身代わりがばれても契約書があれば男爵は取引を継続するしかない。嫁いだ後、こいつをどうするかは男爵の自由だ」


「仮面男爵に、私じゃないって気づかれたら」


タリアがニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべてナディアに近づき、耳元で囁く。


「殺しちゃうかもね」


ビクッと肩を震わせるナディア。

シュペルツ侯爵は追い打ちをかけるように言い放った。


「お前がどうなろうと構わないが、離縁されるようなことがあったら、帰る場所はないと思え」


ナディアは震える両手を握りしめ、俯いた。



✳ ✳ ✳ ✳ ✳ ✳ ✳



屋根裏部屋には似つかわしくない豪華なドレスを、ナディアは呆然と見つめている。

ピンク地に白のフリルが上から下までつけられており、フリルの上は大量のビジューがあしらわれ、腰の辺りに大きなリボンがついている。母の死以後、初めて父から贈られたこのドレスは、デザインもさることながら、生地も侯爵令嬢が着るには質が悪い。


「何なのだ、この流行遅れのダサいドレスは。ナディア様には全く似合わないですぞ。本当に明日、ハウゼン男爵邸へこれを着て行かれるのですか?」


「しょうがないじゃない。身代わりなんだし、もしかしたら殺されるかもしれないし、もう何を着ても同じよ」


「ナディア様、怖くないのですか?」


「怖いわ。死にたくない。でも、私のせいでお母様が命を落として15間生きてきたんだから、死を恐れるのはお母様に対して申し訳ないわ。覚悟を決めないといけないのに、怖いの。やっぱりこんな私なんか、殺された方がいいのよ……」


ナディアは部屋の隅で膝を抱えてうずくまる。ソフィーはナディアを抱えてベッドに座らせた。


「明日は私も一緒に参ります。ハウゼン男爵邸では、私がお守り致しますぞ」


「ソフィーも来てくれるの? よくお許しが出たわね。護衛も使用人も一切連れて行くなって言われていたんだけど」


「辞めたのですぞ」


「え? 辞めた?」


「私の主はナディア様ですぞ。ずっとお傍でお仕えするのは当然でございます。ナディア様のおられない場所に居続ける意味はありませぬ」


「でも、私なんかについてきても何も良いことはないのよ。それに、命の保証だって……」


「恐れ多くも、良いことがあるかないか決めるのは私ですぞ、ナディア様」


エメラルドグリーンの瞳がキランと光る。


「ありがとう、ソフィー。もうシュペルツ家の使用人じゃないなら、かしこまった話し方しないでいいのよ」


「そういうわけにはいきませぬ。私はハウゼン男爵家ではナディア様の専属侍女として仕えるつもりですぞ」


「そうなの?」


「もちろんでございます」


「でも、私に何かあったらソフィーは逃げるのよ」


「いいえ。私がお守り致しますので、あまり悪い方に考えず、今日はゆっくりお休みくださいませ」


ソフィーはナディアをベッドに横にならせ、布団をかける。


「おやすみ、ソフィー」


ナディアが目を閉じると、全身を春風に包まれるような心地よさに包まれ、いつの間にか深い眠りに落ちていった。


ナディアが眠りについたことを確認したソフィーは、ナディアの部屋を出て、暗い邸宅の中を、辺りを見回しながら慎重に歩き出した。

シュペルツ侯爵の執務室の前で立ち止まり、扉に耳をつけ、中から音がしないことを確認する。

左右を見てから、ドアノブに手をかけ、誰もいない執務室に忍び込んだ。


机の引き出しや壁際の本棚を物色し、書類をペラペラ捲ってはすぐに戻す。

しばらく繰り返した後、腕を組み、壁にかかっている絵画を見つめる。

絵画の額縁に手をかけ、左右に揺らしたり、持ち上げたりしては首をかしげる。

絵を手で押すと、ガガガガガと壁がスライドし、隠し部屋が出てきた。


宝石や金貨、剣などの武器が部屋一面に置かれている。

ソフィーはそれらを見回し、首を左右に振る。

手のひらを上に向けると、ふわっと風が吹いて手のひらサイズの、白い毛に淡い緑色の縞模様のあるトラが現れた。


「侯爵家には何もないと、主君に報告を」


トラは頷くと部屋を飛び出して行った。


隠し部屋を出て扉を閉めていると、廊下から足音が聞こえ、執務室の扉の前で止まった。

ソフィーは急いで窓を開けると身を乗り出し、窓を閉めてから身軽に一階に飛び降りた。

ドアノブがガチャッと回り、シュペルツ侯爵が執務室を覗いて見回す。窓の鍵が開いていることに気づいて窓の下を覗くが、誰もいない。


「閉め忘れたか。……いや、ネズミでも入り込んだか」


隠し部屋に入るがすぐに出てきて腕を組み、考えこむ。


「盗られた物はなさそうだが。ネズミがいたのは間違いない。どういうことだ」


シュペルツ侯爵は眉間に皺を寄せ、窓の鍵を閉めてから執務室を後にした。






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