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第5話

仮面を片手にディランが執務室のドアをノックした。


「主、入るぞ」


ドアを開けると、机の上に積み重なった書類の奥から、カリカリ、カリカリと羽ペンを動かす音が聞こえる。


「シュペルツ侯爵に渡す貿易事業の手続きは終わった。強欲なやつめ、どこで聞いたのかこれから輸入を始める真珠の貿易権も渡せと言ってきたぞ。しつこかったが、引き下がらせた」


ペキッ


バン!


羽ペンの折れる音がして、怒りで震えるレイヴノールが机を叩いた。その拍子に、山積みになっていた書類の山が崩れて床に散乱した。


「どこまでもクズだな」


「偽物を織り混ぜるようになった宝石商との貿易権とは知らずに、宝石商が捏造した利益予測を見てニヤついていた。その内侯爵は不利益を被るだろう」


「ああ。ハウゼン家を謀ろうとした宝石商にも代償を払ってもらわないとな。いずれウンディーに宝石商の貿易船を転覆させてもらおう」


レイヴノールはフフフフと不適に笑った。

ディランは床に散らばった書類を集めながら、ぼそっと呟いた。


「仕事、遅すぎないか」


レイヴノールはがくっと項垂れ、背もたれに後頭部を預けて天井を見上げた。


「せっかくナディアと同じ場所にいるのに会えないとか、辛すぎて仕事が手につかない」


「そんなだらしない恰好を見られてもいいのか」


「ナディアが来たらビシッとするさ。ああ、会いたい」


「じゃあ、会いに行けばいい」


「えっ、いいのか?」


レイヴノールは椅子から立ち上がって、期待の眼差しでディランを見る。


「主の好きなようにすればいい」


「いつも仕事しろ、遅いって言うじゃないか」


「それは事実だ。だがここまでやる気がないと返って邪魔になる。ナディア様に会ったら倍の速度で仕事をしてくれ」


ディランが話している間にも、レイヴノールは散乱している書類を素早く拾い集めて机の上に置いた。


「じゃあ、会ってくる」


レイヴノールは今にもスキップしそうな様子で部屋を出て行き、書類の山に1人残されたディランは、ふうっとため息をついた。



ソフィーとセラフィナがお茶とスイーツの準備をしに行き、誰もいなくなった広い部屋で、ナディアはぽつんと取り残された気分になった。

ベッドに腰掛け、サイドテーブルの引き出しに入れてある母の絵本を取り出す。表紙に描かれた少女はどことなくナディアに似ている。ナディアは少女の絵をそっと撫でた。


「お母様、シュペルツ家では考えられない夢みたいなことが起きているの。殺されるかもしれないと思っていたハウゼン男爵は親切で、ソフィーが私の侍女になって、ウンディーもセラフィナさんも良くしてくれるのよ。お部屋もこんなに広くて素敵で、きれいなドレスもたくさんあって、庭園も湖も美しくて、本当に夢をみているようだわ。明日の朝になったら、また屋根裏部屋に戻っていて、使用人に交じってタリアやお義母様の支度をしているかもしれない。私がこんな良い生活を送っていいのかしら」


コンコン。


(ソフィーとセラフィナね)


ナディアは本を持ったまま立ち上がり、ドアを開ける。


「ナディア嬢、今よろしいですか?」


「旦那様!」


予想外の人物にナディアは驚き、絵本を取り落としてしまった。レイヴノールが拾い上げ、ナディアに渡す。


「ありがとうございます」


「もしかして、手作りの絵本ですか?」


「はい。母が作ってくれました。あの、何かご用でしょうか?」


「用というほどのことではないのですが、一緒にお茶でもと思いまして」


「それでしたらちょうどよかったです。ソフィーとセラフィナさんが今準備してくれているんです。どうぞ、お入りください」


「あっ、はい」


レイヴノールは緊張した面持ちでナディアの部屋へ足を踏み入れる。

猫足のガラスのローテーブルを挟んで、2人はソファーに向い合わせに座った。

レイヴノールはナディアが抱えている絵本に目を向け、微笑んだ。


「絵本を作ってくれるなんて、素敵なお母様ですね」


「この絵本は、母が亡くなる前に渡してくれた形見なんです。優しくて、お話しもたくさん作ってくれて大好きだったのですが……。私は呪いをかけられるほど、疎まれていたみたいなんです」  


「呪い、ですか?」


ナディアは自分の白髪を一束握ってレイヴノールに見せた。


「母が亡くなる前は黒髪だったのです。こんな真っ白になったのは母が呪いをかけたせいだと父から言われました。私に関わった人は命を落としてしまう呪いのせいで、母も、たった一人の友人も亡くしてしまったのです」


「そんな……」


言葉を失うレイヴノールから、ナディアは目をそらし、頭を下げた。


「申し訳ございません。こんなのが妻だなんて、気持ち悪いですよね」


「そんなことありません!」


あまりにも強く否定されたため、ナディアは顔を上げてレイヴノールを見つめた。


「私は、ナディア嬢が来てくれて感謝しています。私の方こそ辛いことをお話させてしまい、すいませんでした」


「いえ、旦那様が謝られることではありません。それに、感謝するのは私の方です。身代わりで来たのにこんなに良くして頂いて」


あたふたするナディアを見て、レイヴノールは、ははっと笑顔を浮かべた。


「お互いに謝って、感謝して、おあいこですね。私も子供の頃に両親を亡くしているので、大切な人を失う辛さは分かります」


「そう、だったのですね」


「両親は船に乗っている時、海賊に襲われて亡くなったんです。財産も全て奪われ、私は孤児院で育ち、事業を起こして一から財を築いてここまできました」


「まあ、それは!」


(偶然かしら。お兄ちゃんが亡くなった状況と似ているわ)


ナディアは絵本に目を落として、表紙を撫でた。


「辛い記憶は忘れられないですよね。私は今でも夢に見るのです。雨の中、馬車で母の故郷に向かっていたのですが、何故かシュペルツ家の騎士団が追ってきたのです。馬車が止まって、母は突然突き放すようなことを言って、ひとりで森の奥へ走っていきました。私は母の後を追って行ったのですが、崖に追い詰められていた母の前に飛び出してしまったのです。そうしたら、雨のせいで崖が崩れて落ちそうになったところを母が助けてくれ、私の代わりに……」


ナディアは雷の光に照らされた母の顔が思い浮かび、肩を震わせる。

レイヴノールは思わず、ナディアの肩に手を触れようとするが、直前で思い止まり、行く場を失った右手を左手で押さえた。


「父は、母の死を悲しむ素振りすら見せず、母のことを自分がかけた呪いで命を落とした愚か者だと罵っていました。関わたっ人が命を落とす呪いをかけられた私は、誰かに愛されることも、誰かを愛することもしてはいけないのだと父から言われたのです」


レイヴノールは膝の上で拳を握りしめ、歯を食いしばった。

ナディアはぞくっと背筋に悪寒を感じて、絵本をぎゅっと抱きしめた。レイヴノールから目を逸らし、言い難そうにおずおずと口を開いた。


「……ですから、旦那様は幸せに暮らしてほしいと仰ってくださいましたが、私にはその資格がないのです。それに、シュペルツ家では令嬢ではなく亡霊と呼ばれて、義母や異母妹に使用人のような扱いを受けていました。こんな私が旦那様と平等の夫婦にはなれません」


ナディアが頭を下げると、更に寒気を感じて足や腕がぶるぶる震え出した。


「ちっ。ナディアの心に呪いをかけたのは侯爵の方だろ。やはり許せない」


レイヴノールの低く小さな呟きが聞こえて、ナディアは顔を上げた。これまでとは打って変わって悪魔のような形相をしたレイヴノールが、憎悪の眼差しで床を睨みつけている。


ナディアは心臓に氷を落とされたかのように全身が凍り付き、ヒュッと息を飲み込む。息がしづらくなり、呼吸が浅くなる。絵本を抱く腕に力が入らなくなり、床に取り落としてしまった。


その時、ドアが勢いよく開き、ソフィーとセラフィナが入ってきた。セラフィナはレイヴノールの隣に座ると顔を両手で包み込み、耳元で囁く。


「殺気出てるわよぉ。ナディア様が苦しんでるわぁ」


レイヴノールははっとして我に返った。



「ナディア様、深呼吸ですぞ」


ソフィーがナディアの背中をそっと撫でると、ナディアは息を吸って吐いてを繰り返し、徐々に呼吸が安定していった。


「ナディア嬢! 大丈夫ですか?」


レイヴノールはナディアの前に膝をつき、心配と不安と罪悪感の入り混じった情けない表情でナディアを見上げた。


「はい。大丈夫です。急に息苦しくなってしまって。こんなこと今までなかったのですが」


「も、申し訳ありません!」


慌てて頭を下げるレイヴノールに、ナディアは首をかしげる。


「どうして旦那様が謝るのですか?」


「あ、えっと……」


「おーい、ナディアー!」


突然ウンディーネの声がテラスの方から聞こえてきた。ナディアがテラスの窓を開けると、ウンディーネがニコニコ笑顔で抱きついてきた。


「ウンディー! ここ二階よ。どうやってきたの?」


「あー、それはー」


ナディアはテラスの下を覗くが、階段や梯子はなかった。


「まさか登ってきたの? 危ないじゃない。もうそんなことしてはダメよ」


「はーい」


無邪気な笑顔を見せるウンディーネに、ナディアもつられて笑顔になる。

ソフィーとレイヴノールはウンディーネを睨み付け、セラフィナは頬に手を当て呆れた笑みを浮かべた。



その日の夜、レイヴノールはソフィー、セラフィナ、ウンディーネ、ディランを執務室に呼び出した。

机に両ひじをつき、組んだ両手の上に顎を乗せて眉間にしわを寄せ、苦々しい顔を4人に向けた。


「ナディアの前で殺気を抑えられなかった。一生の不覚」


項垂れるレイヴノールを4人は呆れた眼差しで見ている。


「だが、ウンディー! 気を付けろと言ったではないか。湖で泳ぎまくり、ナディアの部屋のテラスに飛んできたり、人間じゃないと気づかれたらどう説明すればいいんだ」


レイヴノールに指を差されたウンディーネは、頬を膨らませて唇を尖らせ、水鉄砲のように水をピュッとレイヴノールの顔に飛ばした。


「冷たっ! こら、ウンディー!」


「しょうがないじゃん! ボク人間じゃないし、使用人とか人間の振りとかムリだし!」


水がウンディーネの全身を包み込み、水の膜ができる。その膜がパチンと弾けると、ウンディーネの姿は小さな青いドラゴンに変わった。


「レイのばかぁー!」


「あっ、待て、ウンディー!」


レイヴノールの声は届かず、ウンディーネはそのまま窓から飛び出して行った。


「レイ様の言い方も悪かったわよぉ」


「うっ」


セラフィナに言われ、レイヴノールは顔をしかめた。


「早々にナディア様に気づかれるかもしれぬ」


「なっ」


ソフィーの呟きに、レイヴノールは眉を下げ、口をへの字に曲げた。


「自分のことを棚に上げて、偉そうに言った主が悪い」


「ぐはっ!」


ディランの一言がレイヴノールに突き刺さり、床に崩れ落ちる。


「俺が、悪かった……」


「ウンディーに言ってくださいねぇ」


「それより、結婚式と披露パーティーはどうするんだ。社交界は既に仮面男爵が結婚したことの噂で溢れ返っているぞ」


「そうだ、結婚式と披露パーティー!」


レイヴノールはさっと立ち上がり、ディランの両肩を掴む。


「ディラン、頼んだ」


露骨に嫌そうな顔をするディラン。


「パーティーの準備は夫人がやるものだ」


「ナディアはここに来たばかりじゃないか。何もしないでのんびりして欲しいんだ」


「それはレイ様のエゴよぉ」


「ナディア様はここにいる意味を考えて、悩まれているようですぞ」


「ゆくゆくは夫人としてハウゼン家を支えてもらわねばならないのだから、良い機会だ。それに、大昔にパーティーばかり開いていたセラフィナが手助けすればいい」  


「あらぁ、いつの話かしらぁ?」


わざとらしく首を傾げるセラフィナ。


「懐かしい時代じゃ。人間と宴を開けるほど平和だったのう」


「そうねぇ。でも、最近は情報収集で貴族のパーティーに参加するだけで、この邸宅でパーティーを開いたことなんて一度もないのよねぇ」


「男爵程度の独身は、パーティーを開くより参加した方が得になるんだから、仕方ないだろう。セラフィナ、本当に任せても大丈夫なんだな? ナディアの負担にならないようにしてくれよ」


「なんとかやってみるわぁ」


「私も手助け致す」


ソフィーとセラフィナが頷き、レイヴノールは渋々承諾した。


「ソフィー、セラフィナ、頼んだぞ。ディラン、結婚式の方は、ルカン大司祭に司式者を頼んでおいてくれ」


「分かった」


「それと、結婚式で仮面男爵が仮面を脱ぐ噂を流すことも頼む」


「そんな噂流したらぁ、上流階級の貴族もたくさん来ちゃうかもねぇ」


セラフィナがふふっと笑みを浮かべる。


「それが狙いだ。ナディアの美しさを貴族連中に広めないと」


レイヴノールの言うことにソフィーとセラフィナが頷く。


「素顔を隠してきたハウゼン男爵が公になったら、もう後には引けないぞ」


「当然だ。ここからが始まりだからな」


「主君、結婚式と披露パーティーはいつの予定ですかな?」


「早ければ早いほどいい。ナディアのドレス姿が見たい!」


純白のドレスを着たナディアを想像してにやけているレイヴノールの肩に、セラフィナが手を添えて囁く。


「レイ様、準備に時間をかければかけるほど、思い出に残る素敵なパーティーができるものよぅ」


「ナディアとの素敵な思い出のパーティーかあ。じゃあ、半年後、いや、1年後とか」


「主、何のための結婚か忘れていないか」


ディランに睨まれ、レイヴノールは緩んでいた頬を引き締める。


「ちゃんと覚えているさ」


「式もパーティーも必要最低限で良い。主の存在を見せつけることが目的だ。セラフィナ、3カ月でどうだ」


「そうねぇ、最低限ならいけるかもしれないけどぉ、ナディア様のドレスを仕立てるデザイナーにもよるんじゃない?」


「帝国一のデザイナーに任せるつもりだ」


胸を張るレイヴノールに、セラフィナは目を丸くする。


「それは無理よぅ。1年後まで予約でいっぱいって聞いたことがあるわぁ」


「そうなのか?」


肩を落とすレイヴノールに、ソフィーが両手をパチンと鳴らして、セラフィナを指差した。


「セラフィナに任せれば良いのじゃ」


「私でいいいのぉ?」


「確かに適任かもしれない。主の服も、我々の服も、使用人服も全部セラフィナがデザインしているからな」


「仮面男爵の服のデザインが流行した時もあったし、セラフィナが見立ててくれる生地も着心地良いんだよな。よしっ、ナディアのドレスと俺のスーツはセラフィナに任せる」


「レイ様がいいならやるわぁ。いつもの仕立て屋なら仕事が早いし、3カ月あれば十分よぅ」


「結婚式の準備もあって忙しいと思うが、頼む」


「主はナディア様に気を取られないで、仕事に専念してくれ」


「……分かってるさ」


目を逸らして頷くレイヴノールに、ディランは不安そうな表情を浮かべた。

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