「……もう時間ないよ。あと十五分くらい。ほんとに何にもしなくていいの?」
「ああ……別に、もういい」
「ふ~ん」
ホテルの一室でシャワーを浴びただけで、俺らはベッドの両端に座り黙り込んでいた。
いや、黙っていたのは俺だけだ。うつむいてスマホを眺めたまま、彼女は時々タイムリミットをカウントしてたから。
さっき、駅のホームで俺は彼女を見かけた。
肩下までの黒髪、ノースリーブの華奢な二の腕、デニムのミススカートから伸びる白い足。そして気だるそうな憂いのまなざし。
二度視線が合って、三度め。誘ってるのか?と感じた。
女たちは必ずそんなことしてないという態度を取る。露出や赤いリップはファッションだと。
だが、そんなのは嘘だ。
女のほうがいやらしい生き物だってことを俺は経験上知っている。金額を提示して長い睫毛に囲まれた瞳を覗き込んだら、ほら見ろ。そそくさとついて来たじゃないか。
「……お前、
「は?」
「金で身体、売るみたいなこと」
「え、ちょっと待って。説教? ……この状況、あたしのせいだって言うの?」
簡単なシャワーの後ブラも付けず、白いレースのキャミソールの女が顔を上げる。たっぷり塗ったマスカラと赤い口紅の顔。鼻の頭に散った薄いそばかすだけが個性と幼さを表していた。
生意気そうに口を尖らかす。
「……あんたには関係ないでしょ。お金が欲しかったから、ただそれだけ。悪い?」
「別に。お前ら女って……ホント」
「ホント……なに? 自分が物欲しそうな顔してこっち見てたんじゃん。あたしじゃない、あんたが始めたんだよ」
「何にも始めてねえよ。しかも俺が見てたってそれだけで? それで身体売ろうとしたんだ。お前めちゃくちゃ軽いな」
「マジでむかつく、あんたは軽くないわけ? ……金で女買ったのはそっちだよ。それとも他になんか
知らない男と二人きりなのに、こいつ何も怖くないのか。本気で口答えする彼女に俺も思わず言ってしまう。
「ああ、むしゃくしゃしてたからな。死にたいくらいに。……女なら誰でもよかった。特にお前みたいな生意気な女ならなおいい、乱暴にしても罪悪感が少ないから」
そう言い放ったあと少し後ろめたさがあったが、それ以上に自分の今の状況が苦し過ぎて人に優しく出来る気分ではなかった。何もかもぶっ壊したかった。
「……最低。死ねば?」
彼女はベッドからふわりと立ち上がり、ミニスカートに足を通す。伸ばしかけの前髪を邪魔そうに何度も片耳に掛けた。
「人に死ねなんて、簡単に言うか普通……どうせお前なんか、人生イージーモードで死にたいなんて気持ち感じたことないんだろ?」
俺の言葉を捉えると、見下すようにして半開きの唇のまま顔を向けた。
「ない。……どんな苦しいことがあっても、わたしは生きてく」
冷たくも強い返事に若干戸惑う。
わがままでプライドしか持ってない野良猫みたいな女から、そんな誠実な言葉が出てくると思わなかったからだ。
自暴自棄に
親友に対する諸々の怒りと嫉妬、恋人の裏切りが俺を怪物に変えそうだったんだ。ショックと絶望で狂いそうだった。なのに。
「へー、わりと強いんだな。それとも本物のバカなのか。どっちだ」
俺ははっとする。
そこには下向きに流れる白い線。地図に載った長い川のような傷跡があった。彼女はうつむいて言った。
「子どもの頃、大きな手術をして、いろんな人に……命を救って貰ったから」
病気だったのか、怪我だったのか。そこにどんな事情があったのか。
彼女はそれ以上何も言わなかった。
きっとそこには不安や痛み、たくさんの涙があったのだろうと俺は静かに察する。
「そっか……悪かったな。そういう風に思えると……まあ人生も、幸せなのかもな」
俺は気まずくなり、とりあえずそう言った。
「別に……幸せとかじゃない」
「でも今を生きていく理由にはなってるんだろ?」
彼女はブラウスを頭から被り始める。
「さあ。……ねえ、動物の中で自殺を考えるのは人間だけなんだって。知ってた? きっと神様が、人間は自分で死ぬのを決めていいよって言ってるんじゃないかな」
小さなポーチを取り出し、鏡越しに冷めた視線をこちらへ向け口紅を塗り直す。
「人間は自殺を選べるってことか──」
俺はつぶやく。負け犬という言葉が目の前にチラついた。
「たぶんね。でもそれが悔しくて嫌なら、そっちこそ生きてく理由を見つければ? どうでもいいけど、あんたみたいに退屈で甘えた人間、あたし……大嫌い」
大嫌いの言葉が思いがけず心に刺さる。不幸を人のせいにして、憐れんでもらえずにイラついてた自分がここにいた。
彼女は帰る準備をしていて、片方の靴をキョロキョロと探している。
「生きる理由って……例えば?」
どうでもいいと、でたらめに過ごした一日。
なぜか俺はふたりの時間をもう少し稼ぎたくなった。タイムリミットが近づいてることは分かってる。そしてその扉を出たら、もう永遠に出会わないことも。
「……例えば? 例えば……誰かのために生きるとか。それがよくある理由なんじゃないの?」
つまらなさそうに彼女は答えた。かすかに頭を傾げて。
「他には?」
「ね、もう帰りたいの。いいでしょ?」
可愛い声で少しぐずった。
「約束の時間まで……まだ、あと二分残ってる」
俺が君を拘束出来る時間と、均衡を壊さないギリギリの距離感。
「……え、もうだるいなぁ。あとは……えっと、んー復、讐?」
「はぁ、復讐? 何だそれ、かっこいい。すげーワイルドな理由出てきた」
すぐさま笑いが込み上げてきた。俺は大げさに仰け反って笑った。笑い転げた。こんなにテンションが上がったのは久しぶりかもしれない。
彼女はバッカじゃないの?というような顔でこっちを見ている。そして、つられて少し微笑んだ。
「お金貰っちゃったから……キスだけでもする?」
彼女は俺を気遣ってか、ゆっくりと近寄って来た。
ふたりのタイムリミット。別れのキスという儀式。
それは何も持っていない野良猫からの唯一の提案だった。
「いや、もういいんだ」
俺は言葉を続けた。
「何だか、そんなことで君を、汚したくない……」
本心だった。俺は手を伸ばし、親指で彼女の赤い口紅を拭う。
じっとしている彼女は一気に幼さの残る表情へと変わった。黒い瞳、いや、青みがかった白い部分がものすごく綺麗で俺は自分を恥じる。
彼女が扉を目指した。
なぜか突然立ち止まるとショルダーバッグに手を掛け、ゆっくりと振り返る。
「……あとひとつ、人が生きる理由を思いついたよ」
俺の目を見る。一瞬時が止まった。
「それはね、あのね。たぶん……恋、だと思う」
彼女は恥ずかしそうに、でも笑顔を浮かべて言った。
その口紅の滲んだ口角の両端に、愛らしいえくぼが生まれたことを俺は初めて知った。